痛! ― 2025年01月12日 12時46分01秒
今回の労役の成果として、「座骨神経痛」をお土産にもらいました。
まあ前から症状はあって、今回も痛み止めを飲みながら作業していたのですが、帰ってきたら痛みが増悪し、椅子に座っているとお尻がずきずき痛むし、かといって立っていると今度は腰が痛くなるので、今は膝立ちでこの文章を書いています。たぶん傍から見ると、馬鹿っぽい姿に見えることでしょう。
(全高60cmとかわいいサイズの人体模型。大正頃?の日本製)
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しかし、痛みというのは実に不思議なものです。
痛みは不快な経験には違いありませんが、この「不快」というのが、昔から私にとっては大きな謎でした。
たとえば現代のロボットには、既に視覚と聴覚、さらには触覚も組み込まれています。将来的には味覚や嗅覚もそうなるでしょう。その先には当然、痛覚も…となるはずです。そのときロボット(AI)は、痛覚刺激を避け、痛覚刺激を与えられると、苦痛を表現するようプログラムされるでしょうが、彼/彼女は単にヒトの痛み反応をシミュレートしているだけで、決してヒトと同じように「不快」を経験しているわけではない…という議論は、当然起こるでしょう。
これは哲学の分野で古くから議論されている「感覚質(クオリア)」の論点で、その先には当然「意識とは何か」という問いがあり、『攻殻機動隊』のキーコンセプトである「ゴースト」の概念にもつながってきます。
まあ、この点はシンプルに「他の人間も“私と同じような”意識を持ち、感覚質を経験しているかどうかは、永遠に分からないのだから、ロボットだけ除け者にする必要はない。ロボットが痛そうにしていたら、それはすなわち“苦痛を感じている”ということだ」と考えていいのかもしれません。
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この問題は、古今東西の賢人が長年にわたって侃々諤々の議論をしても、クリアな結論はいまだないぐらい難しい問題ですが、そういう難しい問題が、今まさに私の肉体を舞台に展開されており、私の臀部は私の脳に対して「痛みとは何か?」「痛みはいかにして不快経験たりうるか?」と問いかけているのです。実に不思議なことであり、ある意味感動的な光景だとも思います。
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痛みに苦しみながら、ネットを見ていて以下の論文を見つけました。
それによると、瞑想に入ったヨガマスターは、普段どおり会話できる一方、痛覚が消失し、それは痛覚関連脳磁図の所見からも確認されたそうです(瞑想時以外には、一般健常人と同様の脳磁図所見だった由)。
■荻野祐一 他
『痛みの感情側面と痛覚認知』
日本ペインクリニック学会誌、Vol.15 No.1 (2008), pp.1-6.
『痛みの感情側面と痛覚認知』
日本ペインクリニック学会誌、Vol.15 No.1 (2008), pp.1-6.
こういうのを見ると、刺激によって引き起こされる「痛覚」と、それに伴う「不快経験」は分離可能であり、それを意識的にコントロールすることもできそうな気がしてきて、大いに希望が持てます。
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痛みはあくまでも生体のために存在するのであって、生体が痛みに圧倒され、それに遠慮するようでは、たしかに本末転倒な気はします。
コメント
_ S.U ― 2025年01月13日 06時14分29秒
_ 玉青 ― 2025年01月14日 06時15分49秒
たしかに外傷等の外的要因による痛みは、直接生存にかかわることなので、真面目に扱われねばなりませんね。
しかし、私が今苦しんでいる神経痛なんかは、生命予後には全然関係なくて、いわば痛覚のバグであり、単にひたすら不快なだけなので、これは痛みそのものをなくすか、ヨガの力でも借りて不快成分を分離しないと、まったくの「痛み損」になってしまいます。早く何とかなるといいなあ…と文字通り痛切に祈っています。
しかし、私が今苦しんでいる神経痛なんかは、生命予後には全然関係なくて、いわば痛覚のバグであり、単にひたすら不快なだけなので、これは痛みそのものをなくすか、ヨガの力でも借りて不快成分を分離しないと、まったくの「痛み損」になってしまいます。早く何とかなるといいなあ…と文字通り痛切に祈っています。
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確かに、人間の労働者でもロボットでも、痛みのために仕事を避けたり、痛みのために社会的な工事や介護などの仕事に事故が起こってはいけませんので、そこまでの痛みは分離されたほうが良いと思います。だから、鎮痛剤というのも市販されているのでしょう。従って、工事用ロボットはもちろん、介護用ロボットも痛みを感じるのは善し悪しと思います。だからといって、破断限界を超えて突然崩壊するのも困るので、難しいところだと思います。
いっぽう、より高段から即物的史的唯物論的に考えるならば、人類の行うある種の労働が耐えがたい痛みを引き起こすものであるのならば、その労働は人類全体として忌避すべきであり、それが定められた人類の進化の方向に沿うと言えるのかもしれません。人文社会自然あらゆる科学の方面で一定した答えのでない難問であると思います。