掛図の歴史(4)2008年06月12日 21時32分27秒

前の記事の内容は、すでに掛図の成功の要因をいくぶん説明するものだと思いますが、掛図文化が「19世紀のドイツ」という特定の時間と空間で花開いたのは、以下に挙げる3つの要因がうまく組み合わさったからだ、と著者は述べます。

(1)技術的要因
 掛図の普及を支えたのは、何と言っても印刷技術の発展でした。石版画(リトグラフ)の技法を編み出したのはゼネフェルダーという人で、1798年のことです。19世紀という時代は、これによって低廉なカラー印刷の量産体制が確立した時代でした。

(2)教育システムの構造的変化
 19世紀前半、ドイツでは近代的な教育制度が急速に普及しました。就学率の向上によって、たとえば1840年代の間に教師数は40%も増加しましたが、生徒数の伸びは一層大きく、108%も増加したという数字が、論文中で引用されています。1クラス当たりの生徒数が増加した結果、生徒が一人ひとり顕微鏡を覗いたり、化学実験を見学したりすることが困難となり、そこにうまく登場したのが掛図でした。掛図はマスプロ教育の弊害を緩和するために登場したツールであったわけです。掛図の基本サイズも、大きな教室のどこからでも見えるものという要請によって自ずと決まりました。

(3)教育思想のトレンド ― 視覚教育の重視
 視覚化(visualization)というのが、当時の教育思想のキー概念の1つで、ペスタロッチ(1766-1827)の教育論がそのバックボーンでした。直接的・感覚的経験の重視、直観(intuition、独Anschauung)主義というような理屈は、まあそれとして、説明を聞くだけでなく見て学ぶことの重要性が急速に意識されつつあった時代でした。

   ★

Bucchiは、結語でこう書いています。
「掛図とは『時代精神 Zeitgeist』を映す鏡ではあるまいか。一群の学者たちは、そこまで踏み込んだ主張をしている。掛図は、その様式と内容によって、歴史上の特定の一時期における知的『精神 spirit』を捉えているからだ」。

掛図が持つ魅力とは、要するに19世紀~20世紀初頭という時代そのものが放つ魅力なのかも…。時にまばゆく、時に妖しく科学が輝いていた時代。そこに現代の我々は重厚な、スチームパンクな世界観をも重ねて、一種の香気を感じ取るわけです。掛図の黄金時代から遠い、ずっと後代の掛図にも、その「残り香」はあるように思います。

   ★

ところで、リアルな体験を重視するがゆえに掛図は登場したわけですが、掛図が廃れたのもまったく同じ理由によるのでしょう。「それは単なる‘絵’であり、まがい物にすぎない!」というわけです。

そういう意味で、掛図はまさに過渡期の存在だったのではないでしょうか。それに所詮は紙ですから、物理的にも損耗が激しく、長期の使用は最初から想定されていなかったと思います。「なり」は立派でも、本質的にはエフェメラっぽい存在です。そこがまた愛しい…というのは、私だけの感じ方かもしれませんが。

コメント

_ S.U ― 2008年06月13日 06時46分20秒

掛図の盛衰ですが、教科書とも関わっているのではないかと思います。現在のように
カラーの教科書が大量印刷されるようになって、もはや掛図はほとんど必要なくなった
のだと考えます。(さらに最近では、OHPや液晶プロジェクタがとどめをさしたと
いうことになります) 教科書に木版や銅版を利用すると絵を入れることはできるが
カラー化は難しい、だからこれを補うために掛図を用いた。でも印刷技術の進歩(網掛け
製版?)でカラーの写真や絵を安価に入れることができるようになった...単純すぎる
見方ですがこういう要因もあると思います。

 ところで「My歴史」のほうですが、頑張って思い出そうとしています。小学校中学年
のときに先生が掛図を抱えて持って教室に入ってくる場面がしばしばあったこと、学校に
掛図の保管場所があって教科別か学年別かに分類されていたこと、は思い出しました。
でも、目に浮かぶのは「巻かれた状態」にある掛図だけです。記憶の掛図のひもを解いて
広げることができませんので、内容は思い出せません。巻かれて保管されている重厚な
イメージからして「エフェメラっぽい」というのは思いもよらない視点でしたが、何枚
見ても内容が思い出せないのでは、確かにそういう見方が成り立つのかもしれません。
ということは「思い出せない」というのは掛図の本質なのかもしれません。「思い出せ
ないのが本質の教具」ということだとすると、これは深い存在ですね...

_ 玉青 ― 2008年06月13日 22時34分42秒

>カラーの教科書が大量印刷されるようになって、もはや掛図はほとんど必要なくなった

これは非常に大きな理由だと思います。
教科書のカラー化は、戦後になって劇的といっていいほど進みましたが、それが掛図の没落に影響しているのは確実でしょう。

さて、私の憶測は、実は以前書いた下の記事が脳裏にありました。
http://mononoke.asablo.jp/blog/2006/10/03/547148
これは明治の末の日本での話で、まだ掛図が黄金時代を謳歌していた頃ですが、当時既に掛図に頼りすぎることを批判し、今一度実物・実験に立ち返ることの重要性を指摘する声があったらしいのです。(多分、先覚的で良心的な理科教師ほどそうだったと思います。)

掛図は理科教育を先導し、その延長線上で超克された…というような図式を脳裏に描いてみました。

もちろん掛図はその便利さゆえに、学校現場ではその後も長く使われましたが、その「便利さ」も怪しくなったところで、最終的に息の根を止められたのでしょう。

>学校に掛図の保管場所があって教科別か学年別かに分類されていたこと、は思い出しました。でも、目に浮かぶのは「巻かれた状態」にある掛図だけです。

おお、記憶の扉が徐々に…!
援護射撃?として、戦後の掛図のありようを、少し記事にしてみようと思います。

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック