星の豆皿を手に文人を気取る2022年02月20日 09時57分33秒

気分を変えて、ちょっと風雅な話題です。
天文和骨董を探しているときに、こういう染付の豆皿を見つけました。
時代的には江戸中~後期のものと思います。

(径8.5cm)

簡略化された絵柄ですが、目を凝らすと、船で川遊びをしている上に星が出ている場面のようです。しかし、それだけ分かっても、なんだかモヤモヤした気分が続きました。

(裏面)

考えてみると、こういう品は絵柄が分かっただけでは不十分で、その文化史的背景が分かって、初めてストンと肚(はら)に落ちるものです。(例えば、“お爺さんとお婆さんが掃除をしてる絵だなあ”…と思っても、「高砂」の伝承を知らなければ、その絵を十分理解したとは言えないでしょう。)

件の皿もしばらくそんな状態でしたが、あれこれ検索しているうちに、じきにその正体が知れました。これは「赤壁賦(せきへきのふ)」をテーマにした絵だそうです。

「赤壁」とは、三国志に出てくる「赤壁の戦い」の舞台。すなわち西暦208年に、劉備と孫権の連合軍が、長江(揚子江)中流域で曹操軍を迎え撃ち、劣勢を跳ね返して勝利を収めた故地です。

そして「赤壁賦」の方は、それから800年以上も経ってから――中国は実に歴史が長いです――、宋代の文人・蘇軾(そしょく、1037-1101)が、赤壁の地で舟遊びをした際に詠んだ詩の題名です。全体は、旧暦7月16日に詠んだ前編と、同じく10月15日に詠んだ後編から成ります。

その前編の一節を、マナペディア【LINK】から引用させていただきます。
(以下、原文読み下し現代語訳の順)

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壬戌之秋、七月既望、蘇子与客泛舟、遊於赤壁之下。 
清風徐来、水波不興。 
挙酒属客、誦明月之詩、歌窈窕之章。 
少焉、月出於東山之上、徘徊於斗牛之間。 
白露横江、水光接天。

壬戌(じんじゅつ)の秋、七月既望(きぼう)、蘇子(そし)客と舟を泛(うか)べて、赤壁の下に遊ぶ。 
清風徐(おもむろ)に来たりて、水波興(おこ)らず。 
酒を挙げて客に属(すす)め、明月の詩を誦(しょう)し、窈窕(ようちょう)の章を歌ふ。 
少焉(しばらく)にして、月東山の上に出で、斗牛の間に徘徊す。 
白露江に横たはり、水光天に接す。

1082年の秋、7月16日、私は客人とともに舟を浮かべて赤壁の辺りで遊びました。 
すがすがしい風がゆっくりと吹いてきましたが、水面には波がたっていません。 
酒をあげて客人に勧め、「名月」の詩を唱えて、「窈窕」の詩を歌いました。 
しばらくして、月が東の山の上に出て、射手座と山羊座の間を動いていきます。 
きらきらと光る露が川面に広がり、水面の輝きは(水平線の彼方で)天と接しています。
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まさに清遊。当時の蘇軾は政争の果てに、左遷というか、事実上流罪の身でしたが、それだけに気の置けない友人との交流や、偽りのない自然の美しさに、一層感じるものがあったのでしょう。

ここで、「斗牛の間」というのが、天文史的に興味深いです。
これは、中国天文学でいう二十八宿のうちの「斗宿」「牛宿」を指します。二十八宿は天空全体を経度(赤経)に基づいて28に区分する座標システムで、これに従うと、月は毎日1つずつ隣の宿へと移動し、28日間でぐるっと天球を一周する計算になります。そして、これを黄道十二星座に当てはめると、今宵の月はいて座とやぎ座の間を移動中だ…と蘇軾は詠っているわけです。

   ★

この皿は雑器の類でしょうけれど、そんなところにまでこうした絵柄が登場するところに、江戸の文人趣味や中国趣味――いわば「江戸のハイカラ趣味」――の隆盛をうかがうことができます。「赤壁賦」は古来愛唱されたので、当時の識字層は、こうした器物を見ても、それが何なのかすぐに分かったのでしょう。

やむを得ないこととはいえ、こういう素養は、現代の我々にはうまく引き継がれませんでした。かくいう私にしても、最初はポカーンとしていたので、大いに恥じています。でも、天文和骨董というごく狭い切り口からでもその一端を覗き見て、文人の気分を味わえれば、それはそれで意味があることと思います。

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