月とホトトギスの装身具(1)2026年02月04日 18時56分11秒

私が簪(かんざし)を手にしてもどうしようもないのですが、私は昔からこういう細かい細工物が好きで、しかもテーマが月となれば、これは当然食指が動きます。

簪は今でも作られているでしょうが、私が心惹かれるのは、江戸から昭和戦前まで、まだ和装が日常のものだった時代に、無名の職人たちが腕をふるった作品です。そうした品のうち、ホトトギスが登場するものを、ついでと言っては何ですが、この機会に一瞥しておきます。

(全長17cm)

これは間違いなく江戸時代にさかのぼる品と思います。


立体的で存在感のある月がいい感じですね。背景は雲でしょう。
文化・文政の頃から若い女性の間で流行した、いわゆる「びらびら簪」(残念ながら飾り金具がひとつ欠失しています)。

(裏面)

当時にあっては、格別高度な技ということもなく、おそらく身辺日常の品だったと思いますが、それだけに一層、往時の金工技術の水準をうかがうに足ります。

(この項つづく)

月と鳥2026年02月02日 19時22分38秒

昨日の月と燕のブローチを見て、個人的に連想するものがあります。

(全長18.5cm)

江戸~明治の「月にホトトギス」のかんざし。

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今もそうかもしれませんが、特に近代以前の西洋絵画は、象徴的表現(砂時計は有限の生、牧者はキリストを表す等)を多用するので、図像にこめられた意味を読み解くイコノロジーという学問も生まれました。

日本美術にも象徴的表現はあるでしょうが(松は長寿、蓮は仏を表す等)、それよりも文芸的伝統の中にある画題が一層優勢の気がします。


このかんざしも、百人一首に採られた「ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただありあけの 月ぞのこれる」の古歌をなぞって、風雅な趣を出しているだけのことでしょう。それは何か別のものを「象徴」しているわけではなく、月は月だし、ホトトギスはやっぱりホトトギスに過ぎません。こういう例ははなはだ多いです。日本では美術・工芸作品もまた本歌取りの伝統の中にある…ということかもしれません。


ですから、日英両国の「月と鳥」の装飾品の類似は、あくまでも表面上のものということになります。

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しかし…と、ここで私の思考は横すべりします。
そもそもなぜ古歌の作者(後徳大寺左大臣)は、月とホトトギスの配合に心を寄せたのか?

考えてみると、日本の伝統画題には「月に雁」もあります。あるいは「月に千鳥」や「月に鶴」というのもあります。月と鳥をいろいろ結び付けて、そこに興を覚えるというのは、やっぱりそこに何かあるのではないか?

鳥は地面に舞い降り、また飛び立って空を翔ける存在です。
そして月は無限の天上界にあって、いちばん地上に近い異世界。
地上に縛り付けられた人間が、天上世界へのあこがれを表現するとき、それを一番託しやすかったのが鳥と月ではなかったか…ということを、ちらっと考えました。

この辺になると西洋も東洋もなく、カルチャーバウンドな象徴が生まれる以前の、人間精神の古層に横たわるアーキタイプ(原型)ではなかろうか…と、いかにも思い入れたっぷりに書いていますが、まあこれは駄法螺の類で、駄法螺というのは、吹く方はなかなか楽しいものです。

月と燕2026年02月01日 09時00分47秒

昨夜は丸い月が皓々と輝き、そばに木星が寄り添う、ちょっとした天体ショーが見られました。

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月をモチーフにしたアクセサリーはほぼ無限にあるでしょうが、そこに込められた「意味」の方は無限というわけにはいきません。

(月の差し渡しは約5cm)

たとえば三日月と燕を組み合わせた、このヴィクトリア時代のブローチ。

月はそれ自体、「女性性」の象徴であり、さらに三日月は「新しい始まり」という独自の意味を帯びます。そして燕は、日本でいうオシドリと同様、生涯同じ相手と添い遂げる鳥とされることから「永遠の愛」や「貞節」を、あるいは毎年同じ巣に帰ってくることから「安全な帰還」を意味します、


以上の組み合わせから、三日月と燕の意匠は新婚期、特にハネムーン旅行に赴く女性が身に着けるものとして好まれたものだそうです。

(ブローチの裏側)

ただし、上のブローチが帯びているのはそれだけではありません。
この三日月が黒(ブラック・エナメル仕上げ)であることには、これがモーニング(mourning)・ジュエリー、すなわち死者を悼む服喪の際に身に着けたものであることを示しています。

結局のところ、このブローチは愛する夫を亡くした女性が、それでも永遠の愛を誓い、寡婦としての新たなライフステージを受け入れ、いつかまた天国で再会することを願うメッセージが込められたものというわけです。

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…というようなことは、今やAIがすぐに教えてくれるので、いわゆる「こたつ記事」はいくらでも量産できますが、しかしこれを目の前にして湧いてくる「思い」の方は、そういうわけにはいきません。

ヴィクトリア時代の古びた部屋の様子。
持ち主の女性の瞳の色。

それらを想像して、美しくも悲しい情調―そう言ってよければ一種の「ロマンス」―を感じるし、同時に女性に寡婦でいることを強いた抑圧的な社会の存在も感じます。そして、それを感じている私だって、遠からずこの世に別れを告げるのだろうという予感も重なって、一個のブローチが放つ「意味」はなかなか複雑です。おそらく見る時の気分によっても、その色合いは変わるでしょう。

…となると、「意味」の方もやっぱり無限に近いのでしょうか?
「込められた意味」だけでなく、「そこに読み取る意味」まで勘定に入れれば、おそらくそうでしょう。

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モノですらそうなのですから、ましてや人となれば、そうパキパキと相手を割り切って理解することはできません。

ゆき ゆき ゆき2026年01月29日 18時51分34秒

今宵も雪がちらついています。


たむらしげるさんによる福音館の「ちいさなかがくのとも」シリーズの一冊、『ゆき ゆき ゆき』(2011年)

「ちいさなかがくのとも」は、福音館の科学絵本の中ではいちばん小さい子(3~5歳)向けのシリーズです。それだけにごまかしがきかない、絵本作家にとっては手ごわい読者かもしれません。


たむらさんは、これから雪が降りだす鉛色の空と、いよいよそこから舞い落ちてきた雪の結晶を徐々にクローズアップする形で描き、それを見つめる男の子、雪の中をひたむきに飛ぶ白鳥、そして雪だるま作りの光景を配することで、雪の日の一日を描いています。


たむらさんといえば、透明感のある鮮やかな色使いがまず思い浮かびますが、ここではひたすら灰色の空と白い雪という、非常に抑制的な描写がされている点が印象的です。雪の日を虚心に描けば確かにモノクロームの世界ですし、それを客観的に描くことがすなわち科学的姿勢だという配慮があったのかもしれません。

ここに目を奪うような鮮やかさはありませんが、今日のような日に窓の外の世界を思い浮かべながら眺めていると、なんとなく静かな心持ちになります。

テレスコープマン2026年01月27日 18時59分47秒

ブログを続けていると、過去記事に関連して、いろいろな発見があります。
以下は2年前の記事ですが、これについても発見がありました。

(以下の記事より画像再掲)

 
記事では、1枚のロンドンの絵葉書をネタに、ビッグベンのそばで通行人に望遠鏡をのぞかせて日銭を稼ぐ男を話題にしました。でも、絵葉書の主役は、あくまでもそこに立つ古代ケルトの女傑ブーディカ(ボアディケア)の像であり、望遠鏡商売の男はたまたまそこに写り込んだだけだろうと、その時は思いました。しかし実は、彼自身が一種のロンドン名物として「テレスコープマン」の異名をとっていた…というのが、今回の発見です。

そのことが分かったのは、下の写真を見つけたからです。


まぎれもなく同じ場所であり、同じ男です。


その正体は裏面に説明がありました。


この写真は London News Agency という古くからのニュース配信会社のアーカイブに含まれていたもので、紙が貼りついて読みにくい箇所もありますが、適当訳すればこんな感じでしょう。

ウェストミンスターの天文家、ブーディカ像の下で32年
 エドワード・クロッカーがウェストミンスター橋のたもとで営む望遠鏡商売は、昨日で満32年を迎えた。彼はこの間休むことなく、毎日自分の持ち場に立ち続け、頭上の銅像と同じぐらい有名になった。クロッカーはささやかながらも天文学に没頭し、星や星座が見える限り、それを指し示すことができた。(写真は本日(月曜日)撮影。写っているのは望遠鏡の脇に立つエドワード・クロッカーとビッグベンを覗く観光客)」

(観光案内など彼の商売ものを入れた足元の箱)

上の写真には肝心の日付けがありませんが、ここまで分かれば、追加情報を探すのは容易です。さっそく見つかったのは次のページ。

 
これまた過去の記録写真とそこに付けられたキャプションの紹介です。こちらも適当訳。

ブーディカ像の下のテレスコープマン、エドウィン・クロッカー
 1935年で88歳になるエドウィン・クロッカー、別名「テレスコープマン」が、ウェストミンスターの「ブーディカ」の銅像前に屋台店を出して満40年になる。クロッカーは絵葉書を販売し、望遠鏡でビッグベンの文字盤を見たい人に1ペニーで覗かせた。」

上の写真では名前が「エドワード」になっていましたが、他の情報も参照すると、どうやら「エドウィン」が正解のようです。1935年当時、40年間商売を続けていたということは、「32年間」を報じる上の写真は1927年に撮影されたものと思われます。

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19世紀から続く街頭の望遠鏡商売。

それが大衆の天文知識向上に少なからず貢献したこと、そして何よりも望遠鏡商売に励んだ男たち自身が、純な「星ごころ」を持ち、決して豊かとは言えない環境の中で知識と機材の向上に熱心だったこと、その実相を活写したのが、『ビクトリア時代のアマチュア天文家』(邦訳2006、産業図書)でしたが、その著者であるアラン・チャップマン博士が1月21日に亡くなられたとの報に接しました。

テレスコープマンの写真とともに、その「星ごころ」を博士の霊前に供えたいと思います。ご冥福をお祈りいたします。

『雲の結晶 雪片のアルバム』2026年01月25日 13時00分54秒

ここ数日、日本海側は大変な雪です。
雪の少ない名古屋でも、今朝は白いものが舞っていました。今は青空が広がっていますが、白い雲がぐんぐん空を横切り、上空の風の強さを感じさせます。

雪国の苦労を思うと、雪を美しいと言うのは気が咎めますが、「雪月花」の名の通り、暖地の雪はやはり文芸的主題であり、情緒的鑑賞の対象です。より正確な言い方をすれば、雪は恐ろしいものであると同時に美しいものでもあり、時と所によって、その表情を変えるということでしょう。

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雪のことを考えていて、1冊の本を思い出しました。


■A Lday(編)
 Cloud Crystals: A Snow Flake Album.
 D. Appelton & Co. (NY)、1864.  158p.

「さる婦人」の手になるという触れ込みの匿名出版です。これは、その方がロマンチックな感じがして売れると見込んだ出版社の商策でしょう。実際に書いたのは男性かもしれません。

ふつうなら単に「雪の結晶」というところを「雲の結晶」と呼んだのは一工夫ですね。なるほど、言われてみれば、あれはたしかに雲の結晶です。

(タイトルページ)

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本書の内容は、雪に関する詩文集です。

(英国で学び、その後カナダに渡った気象学者、Charles Smallwood(1812-1873)が雪の結晶と電気の関係を論じた論文(下述)より)

冒頭には「雪の結晶形態とその形成途上における大気の電気状態の違い」や「雪の結晶の変容」といった科学的な文章も掲載されていますが、それはほんの付けたりで、あとはもっぱら雪に関する随想や詩といった文学作品からの引用で埋まっています。たとえば有名どころだと、バーンズとか、エマーソンとか、シェークスピア…等々。

(アメリカの文人、Ralph Hoyt(1806-1878)作、「雪:冬の素描」の冒頭)

嗜好としては、同時代のイギリスのヴィクトリア趣味に叶うものでしょうが、新大陸の著者たちが多く登場しているのがアメリカっぽいところです。


そして、文中に添えられた雪の結晶図こそが本書の見どころで、こうした石版刷りの図版が、口絵も含めて27枚収録されています。

これらがどこまで科学的に正確な図かはわかりません。
多分に描き手のアレンジが加わっている気もしますが、それでも天から届いた小さな宝石(雪や氷は科学的にも鉱物に分類される資格があります)に目を留め、ひたすらそれを描きつづけた「雪ごころ」は見事です。


本書が出たとき、雪の結晶写真で有名なWilson A. Bentley(1865-1931)はまだ生まれておらず、その出版はベントレーの有名な写真集『Snow Crystals』(1931)よりも70年近く先行します。雪の結晶をテーマにした本として、まずは古典といってよいでしょう。


そしてまた、編者の思いとは異なるかもしれませんが、これらの平面的で様式化された描写には、何となく日本情緒というか、雪華紋ブームに沸いた江戸時代の和書の趣があって、そこも個人的には気に入っています。

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余談ですが、古書の魅力は文字情報にとどまらない、モノそのものとしての魅力であることは言うまでもありません。今回、この本を久しぶりに手に取って、そのことを改めて感じました。



見返しに書かれたメッセージによると、この本は1867年2月20日、あるお父さんが愛嬢に誕生日のプレゼントとして贈ったものです。そしてその後、巡り巡ってセント・フェイス・スクールという学校の蔵書になったことが、蔵書票から分かります。


お父さんからもらったプレゼントを、娘さんは古本屋に売っ払っちゃったのかな?…と最初思いましたが、先ほど検索したら、贈られたエレノア・A・シャッケルフォードさんは、セント・フェイス・スクールの創立者その人でした。彼女はお父さんから受けた愛情を、今度は愛する生徒たちに分け与えたわけです。まことにうるわしい話です。

エレノアさん(Eleanor Anastasia Shackelford、1853-1925)については、この名前で検索するといくつか情報が出てきます。彼女は1890年、ニューヨーク州サラトガの町にセント・フェイス女子学校を創設し(最初の生徒は3人ないし9人でした)、長く校長を務めた人です。彼女のお父さん、すなわちこの本の贈り主は、聖公会(アングリカン・チャーチ)に属する同地の牧師、ジョン・シャッケルフォード博士で、同校は1919年に聖公会管区の正式な学校として認可された由。

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1冊の美しい本と、その背後に秘められた歴史。
私の手の中に、今それがあります。

二十年ふた昔2026年01月24日 08時16分14秒

ブログ本文の左側にある「About」欄。
そこには「since ’06.1.23」と記されています。
昨日は「天文古玩」の満20歳の誕生日でした。

もちろん始めた当初は、こんなに続くとは思っていませんでした。
私はもともと飽きっぽいので、これほど一つのことが長く続いたのは、これまでの人生で初めてのことと言って差し支えありません。おそらくこれからの人生を考えても同様でしょう。

自分以外、ほとんど誰も見ないブログを、よく20年も続けたなあ…と自分でも感心しますが、逆に誰も見ていないからこそ続けられたというのも、一面真実だと思います。つまり、人目をあまり気にせず、好き放題に書けたから、これだけ続いたんだと思います。

でも、訪問者がただの一人もいなくて、本当に孤独な営みだったら、やっぱり続かなかったでしょう。時折お立ち寄りいただき、さらにコメントまで残してくださる方がいたからこそ、続けられたのは間違いありません。そうした方々に心から感謝を申し上げます。本当にありがとうございました。

執筆をAIに引き継げばともかく、「中の人」には自ずと生物学的限界があるので、これから先いつまで「天文古玩」が続くかは分かりません。でも個人のブログはいつまで続けてもよいし、いつやめてもよい気楽さが身上です。コトンと倒れるところまで、ゆっくりゆっくり歩むことにします。

(緩歩動物「クマムシ」。ルーペ内・オニクマムシ、その右・ニホントゲクマムシ、下は同じく走査電顕写真。青木淳一(編著)『日本産土壌動物―分類のための図解検索』、東海大学出版会、1999口絵より)

淳祐天文図2026年01月23日 05時56分26秒

前回の記事の中に、東洋文庫所蔵の「淳祐天文図」(蘇州石刻天文図)が写り込んでいました。宋代の淳祐7年(1247)に王致遠が刻した、この精緻な星図は非常に有名なので、書籍やネット上でもよく目にします。

日本に圧倒的影響を及ぼした中国天文学の精華である、その現物(拓本)には憧れを抱きつつも、当然希少かつ高価なものですから、簡単に手に取るというわけにはいきません。でも蛇の道は蛇。探しているうちに、出物を見つけました。


いつもの部屋の、いつもの本棚の前に掛けてみましたが、下の方は床についてしまい、全体を広げることができません。


背後の本棚も幅120センチ、高さ197センチと、決して小さくはないのですが、それと比較すると、この図のサイズ感がお分かりいただけると思います。


と言っても、種を明かせばこれは複製です。
でもなかなかよくできた複製で、こうしてディスプレイ越しに見る分には、おそらく複製と分からないでしょう。


実物を見ると拓本特有の凹凸がないので、さすがに複製と分かりますけれど、ぱっと見では、紙質や墨の具合も真に迫っていて、本物と思ってしまう人もいるんじゃないでしょうか。

単なる参考資料に過ぎないとはいえ、あの淳祐天文図を手元に置くことには、天文古玩趣味の徒にとって単なる象徴以上の意味があります。
その背後に潜む無数の歴史ドラマを想像すると、一瞬我を忘れるというのも、決して大げさな物言いではありません。

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この掛け軸は拓本の複製を入手してから、表装を施してもらいました。
最初、市内の表具屋に片っ端から電話で問い合わせた段階では、口をそろえて「そのサイズになると表装は無理。そもそも表装用の布が手に入らない」と断られましたが、最後に頼った表具屋は、さすが老舗だけあって「ちょっと方法を考えさせてくれ」と言って、結局こちらの予算内で仕上げてくれました。地獄に仏とはこのことです。

そんな苦労があるので、複製とはいえ個人的に愛着を覚える一品です。

コレクションの生と死2026年01月21日 21時32分58秒

仕事のプレッシャーで心身がだいぶすり減りました。
しかしそれもようやく終わり、ホッとしています。
足踏みしていた天文古玩をめぐる旅も徐々に再開です。
といっても、すぐに再開するパワーがないので、以下余談。

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先週の週末、お世話になった方の遺品整理のようなことをしてきました。
といっても、ご遺族の方がすでにある程度整理されたものを運び出して、処分するものと保存するものに分けるだけで、本当に大変な部分を担ったわけではありません。

作業をしながら、自分の場合だったら…という点に自ずと思いが至り、一瞬、空しさと寂しさを感じました。

私にとって収集行為は一種の自己表現であり、私の身辺に集まったモノたちは、私の分身に他なりません。でも、だからこそ我が身が滅び、屍骨が四方に散じるのと同様、分身の方も解体されて世の中に散らばり、ふたたび新たな循環サイクルに乗ることは、決して悪いことではなかろうと思い直しました。それは喜怒哀楽を超えた、自然の在り様そのものだからです。

(滋賀県・佛道寺蔵『九相詩絵巻』より。出典:山本聡美・西山美香(編)『九相図資料集成―死体の美術と文学』、岩田書院、2009)

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とはいえ、中には死してなお四方に散じない例もあります。
先日出たばかりの『別冊太陽 東洋文庫』を見ていて、うーむスゴイなあ…と思いました。


東洋文庫は、東洋学関連の貴重書を集めた一大アーカイブです。
三菱財閥の莫大な財力と三代当主・岩崎久彌の熱意によって成立し、和漢の古典籍を集めた「岩崎文庫」、東アジアに関する欧文文献を主体とする「モリソン文庫」を核とし、さらに前間恭作、永田安吉、井上準之助、小田切萬壽之助…等々、多くの蔵書家・碩学の個人コレクションが加わり成り立っています。


故人のコレクションを屍にたとえるなら、東洋文庫に収まっているのは、死してなお形を保っているミイラということになるのですが、たとえミイラでも、コレクションとしてはその方が幸福なのかなあ…と思ったりもします。


(東洋文庫には天文関係の貴重な古星図、古典籍も含まれています)

まあ、東洋文庫の場合は、死せるミイラというよりも、持ち主の死後も人々に利用され続けている生きた資料であり、そこが素晴らしいところです。そうでなければコレクションとして残す意味は薄いでしょう。

宇宙科学戦争かるた(後編)2026年01月12日 11時23分02秒

本日は2連投です。
他愛ないカルタにあまり拘泥する必要もないと思いますが、乗りかかった船なので、ここでこのカルタの素性についてメモしておきます。

ここで問題になるのは、文字情報が極端に少なくて、いつどこで作られたものか、皆目わからないことです。


目を皿のようにしても、唯一の手掛かりは、この丸に富印(マルトミと読むのだと思います)が発行元だということのみ。発行年や、マルトミがどこにある会社かは、どこにも表示がありません。これについては、強力な検索ツールである国会図書館のデジタルコレクションも無力でした。

ただし、マルトミのカルタは、検索するといろいろ出てきます。「もうすぐ学校かるた」、「ことばあそびメロディーかるた」、「お伽噺かるた」、「日本世界ナンバーワンかるた」、「スポーツかるた」、「幼稚園かるた」、「よい子のかるた」…等々。同社はどうやら子供向けのカルタ専業のメーカーだったようです。

【2026.2.1付記】 この「マルトミ」については、タカラトミーの前身の1つである「トミー(旧・富山玩具)」の系列会社である「富山商事」がカルタも扱っており、同社のことではないか…という有力情報が寄せられました。詳細は本記事に対するSii Taaさんのコメントをご参照ください。

で、同社の製品のひとつに以下のマークを見つけました(メルカリで売られていた品の画像の一部をお借りしています)。


STマークは「Safety Toy」の頭文字から来ており、業界団体である日本玩具協会が定めた玩具安全基準に適合する品として、1971年10月からその表示が始まったものです(『レジャー年鑑 1973-1974』(エコセン、1973)参照)。

「宇宙科学戦争かるた」にその表示がないということは、それ以前の品であることを示しており、これが「宇宙科学戦争かるた」の制作下限です。

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つづいて制作年代の上限を考える上で、気になる言葉をいくつか挙げてみます。


すなわち「ナパーム弾」、「大陸間(弾道)ミサイル」、「サイボーグ」。
その淵源はともかく、これらの言葉が一般の人々の口の端に上るようになった時期は、国会図書館のデジタルコレクションで初期の用例を見れば、ある程度推測がつきます。
調べてみると、ナパーム弾は1951年頃、大陸間ミサイルは1957年頃、そしてサイボーグは1960年頃から、一般向けの書籍や雑誌に登場しています。

「サイボーグ」の用例について、史料のスクリーンショットを貼っておきます。

(出典:法学書院編集部(編)『現代語辞典 : これだけは知っておきたい 1961年版』、法学書院、1960)

「サイボーグ」は、上掲書末尾の「追補Ⅱ」に記載されており、当時は文字通り出来立てほやほやの新語です。その後、急速に少年雑誌等でも目にするようになりました(サイボーグ009の連載開始は1964年だそうです)。私は不案内だったのですが、この語は当時の宇宙開発ブームの流れの中、人類が宇宙に進出する方途として語られていたようです。

このことから「宇宙科学戦争かるた」の制作上限は1960年であり、先の下限と合せて、ざっくり1960年代の品と見ていいと思います。

【おまけ】

ところで、今回、レトロな子供向けカルタについて調べていて、その残存数が極めて多いこと、しかも帯封つきの品がやたらとあることを不思議に思いました。昭和レトログッズには一定の需要があるはずですが、供給過多のせいか、この手のものは帯封付きの美品でもあまり値が付かない感じです。

その疑問は、以下の記事を拝見して氷解しました。

■(近代カルタ文化の研究 第6章 第2節)
 (1)戦後社会での「いろはかるた」の展開

なぜこれほど大量にカルタが残っているかといえば、もちろん大量に作られたからで、当時は全国の幼稚園や学校でカルタをまとめて買い上げて、子供たちにクリスマス・プレゼントやお年玉として配布していたという背景があったのでした。さらにその背後には、「カルタは毎年新しいものを買って遊ぶもの」という観念もあったようです。

私も当時の子ども文化の一端に触れたはずですが、残念ながらそうしたリアルな記憶はありません。でも、確かに凧は毎年新しいのを買っていたので、きっと同じような感覚だったのでしょう(羽子板は旧慣を守る家では今も毎年買い換えていると思います)。

カルタは、何といっても教育システムに組み込まれていましたから、その流通量は膨大で、カルタ専業メーカーという存在があり得たのもそのせいでしょう。
ただ、教育カルタなどというのはあまり面白いものではないので、配布されても手付かずのまま放置という場合も多く、それが店頭デッドストック品とともに市場に流れ、今や販売サイトには帯封付きの美品があふれている…というわけです。