閑語…情報戦の果てに2024年11月18日 19時34分24秒

今朝に続いて無駄ごとを述べます。

戦国時代を舞台にしたドラマを見ると、「らっぱ」とか「すっぱ」とか呼ばれたリアル忍者を敵の領国に送り込み、根も葉もない噂を流して、敵にダメージを与える謀略の場面が出てきます。戦国時代のことは知らず、風雲急を告げる幕末には、薩摩藩がいろんな怪文書をまいて、情報の攪乱と人心の動揺を画策したと聞きます。近代戦でも情宣活動は重要な柱ですから、旧日本軍の特務機関も大陸で相当暗躍していた形跡があります。

あるいは、特にそんな工作をしなくても、大正震災における朝鮮人虐殺の惨劇のように、人は容易に流言飛語に乗せられ、軽挙妄動に走りがちで、そういう人間の性質を熟知した者の手にかかれば、コロッと行ってしまう怖さが常にあります。

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人間とは<情報>を欲する存在だ…と、つくづく思います。
そして多くの場合、情報のvalidityは不問に付され、「そういう情報がある」という事実が何より人を動かすもののようです。そうなると、初手から騙す気満々で来る相手には、情報の受け手側は分が悪く、無防備な人がそれに騙されるのはやむを得ないともいえます。


そんなわけで、今回の選挙でも、「兵庫の人はいったい何をしてるんだ」と責めるのは、いささか酷で、公正に見れば、騙されるよりも、騙す方が格段にタチが悪いし、そういう手合いにはそれなりの接し方をせねばなるまい…なんていう無粋なことを、趣味のブログに書かねばならぬことを遺憾に思います。

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さはさりながら、「天網恢々」、徒に妄言を振りまく人間の末路をこそ見定むべけれ。

西の方より黒雲生ず2024年11月18日 07時02分39秒


(海洋気象台(神戸)編 『雲級図』 (大正11年)より 「乱雲 Nimbus」 

晴々とした気持ちで――いかにも晴々とした画像まで貼りつけて――、“さあ新たな一歩を”みたいなことを書きましたが、とたんに心に雲がかかる出来事がありました。ほかでもない兵庫県知事選挙のことです。

私にとっての兵庫は、憧れの神戸の街と足穂のふるさと明石に代表されるのですが、そんな素敵な町に暮らす人々が、なぜわざわざ悪事を好むよこしまな人間を知事に戴こうとするのか? 既得権益に斬り込む…と口で勇ましいことを言いながら、その実、彼を取り巻くそれこそ「権益」に群がる有象無象が、強力な選挙戦を仕掛けたとも側聞しますが、まことに心胆を寒からしめる光景です。

公益通報制度をないがしろにし、人を死に追いやり、パワハラ行為を繰り返し指弾され、最終的に議会でその任を解かれた人物が、何の反省もないまま(もちろん反省がないから立候補したのでしょう)、それでも再選されてしまうという、この常識の底の抜け方には言うべき言葉がありません。

しかし、「兵庫の人はいったいどうしてしまったんだ?阿呆やなあ」と、傍で言っていれば済む問題なのか、実は同じことが今や日本中で起きる可能性があるのではないか…と考えると、そのことが一層心を曇らせます。

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先日の衆院選では野党が躍進し、自公政権にNoを突き付けました。そのことで、「国民の理性はまだ健全なのか」と安堵したのは事実ですが、しかし改めて考えると、今回の「斎藤現象」とその根っこは同じなのかもしれません。

すなわち、それは理性とは縁遠い、単なる「現状変革願望」に過ぎず、カーゴ・カルト的心性や、「ええじゃないか」の狂騒に近いものではないか…そう思うと、心に雲がどんどん湧いてきて、黒雲鉄火を降らしつつ、数千騎の鬼神が暴れまわる様が眼前に浮かんでくるのです。まさに末法の世なる哉。

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この場に足穂氏がいたら、今回の件を何と評したか?
「またえらいケッタイな花火が上がりよったな。まあ100年経っても、魔法を使える人間がおるゆうんなら、おもろいやないか」とでも言って、自若としているかもしれませんが、しかし、それにしたって…と思います。


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(※)この雲級図は、昔記事にしたことがあります。
 ■雲をつかむような話(1)

雨は上がり、夜は明ける2024年11月17日 07時03分11秒



前回の記事を受けて、さらに考えてみました。

私にとってブログを書くことは、畢竟「暇つぶし」なのです。
暇つぶしとは元々意味がないものであり、「意味がないから暇つぶしをやめよう」とはなりません。そして暇がつぶれて、しかも自分がその内容に満足できるならば、これぞ時間の使い方としては上の部であり、やっぱり書かないよりは書いた方が好いのです。

したがって、もし私がブログをやめるとしたら、そこに金銭が絡んだりして、暇つぶしにふさわしくない性質のものになったときか、他人の評価はともかく、自分自身でその内容に満足できなくなったとき、あるいは、つぶすべき暇(心身の余裕と言い換えてもいいです)が失われたときのいずれかでしょう。

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言葉を替えると、ブログを書くことは、私にとって旅のようなものです。
この先に何が待っているかは、私にも分かりません。でも、分からないからこそ続ける意味があるのです。

加藤久仁生さんのショート・アニメーション連作『或る旅人の日記』(2013)のラストで、主人公のトートフ・ロドルが心の中でつぶやいた言葉。

 「夜が明けた。
  心地よい朝の光を浴びながら、私は地図を広げた。
  この旅は、まだ続くのだ。」

それを噛みしめながら、私も次の一歩を踏み出すことにします。

ひとり雨聞く秋の夜すがら2024年11月15日 14時57分55秒



今週は仕事に追われていました。
そして記事を書く時間がない分、ブログの来し方行く末を少し考えていました。

このブログもずいぶん長く続いていて、年が明ければ満19歳で、20周年も目前です。ブログを書くことで得たものは多いですが、それでも正直、長く続け過ぎた気もします。今となってはほとんど誰も訪ねてこない、こんなブログを続ける意味がどれほどあるのか、そう正面から自問したことはないですが、でもやっぱりそれは考える必要があります。

確かに熱心にコメントを書き込んでくださる方もいます。しかし、そういう閉ざされた会話に自足するのも、ちょっとどうなのかなあ…と思わなくもありません。それだと、ネットという公共空間に情報を挙げている意味が至極薄い気がします。

端的にいえば、ここにはすでに自己満足という以上の意味はないのです。

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しかし、じゃあそろそろ店仕舞しようか…と言い切れないのも悩ましいところで、なんとなれば、このブログは「私自身が読みたいブログ」でもあって、よそに同様のコンテンツがあればそっちをROMる手もあるのですが、それが無い以上、結局自分で書いて自分で読むという、まあ言葉は悪いですが「自涜行為」に走らざるを得ないわけです。

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こういう煩悶を抱くのは、ブログ年齢18歳という若さの故かもしれず、この先30歳とか50歳とかになれば、「あの頃は若かったなあ」と笑い飛ばせるようになるんでしょうかね。ブログ年齢50歳という先人はいないので、よくはわかりませんが、できればそうあってほしいものです。

いつもの例の話2024年11月10日 14時26分53秒

うーむ…と思いました。
いつもの天文学史のメーリングリストに今日投稿された1通のメッセージ。

 「私は 1955 年 9 月号から 「S&T(スカイ・アンド・テレスコープ)」誌を定期購読しており、「S&T DVD コレクション」に収録されている 2010 年以前の号(厚さにして12フィート分)は、紙の雑誌の方はもはや不要なので、送料さえ負担してもらえれば、すべて寄付したい思います。どこかでお役に立てていただけないでしょうか?」

今やどこにでもある話で、その反応もある程度予想されるものです。

A氏 「あなたのS&Tに早く安住の地が見つかりますように。私の手元にある某誌もずっと寄贈先を探しているのですが、うまくいきません。」

B氏 「数年前、私は S&T やその他の天文雑誌を、すべて UNC の学部生に譲りました。私は天文学部の教授である隣人を通じて彼と知り合いましたが、何でもオンラインでアクセスできる今の時代、そのようなもののハードコピーを欲しがる人を見つけるのは本当に大変です。幸運を祈ります!」

C氏 「私が退職したときは、ケニアで教えていた同僚が、私の歴史ジャーナルのコレクションを、自分が教鞭をとっていた大学に送ってくれました。海外とご縁があるなら、同じことを試してみてもいいかもしれませんね。」

D氏 「数年前、私もS&T について同様の状況に直面し、ずっと受け入れ先が見つからなかったため、結局、観測関連の記事だけは切り抜いて、将来の観測に備えてバインダーに保存することにしました。残念ながら、それ以外のものは一切合切、地元の古紙回収ステーションに出さざるをえませんでした。」

そう、表現はさまざまですが、要するに皆さん異口同音に言うのは、「それはもうただのゴミだ!」という冷厳な事実です。まあ、私は決してゴミとは思わないんですが、世間一般はもちろん、天文学史に関心のある人にとっても既にそうなのです。それに、かく言う私にしたって、「じゃあ送料はタダでいいから、あなたのところに送りましょう」と仮に言われたら、やっぱり困ると思います。

(eBayでも大量に売られているS&Tのバックナンバー)

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ただ一つのポジティブなメッセージは、アマチュア天文家にして天文学史に造詣の深いロバート・ガーフィンクル氏(Robert〔Bob〕Garfinkle)が寄せたものでした。

 「私の S&T 誌のコレクションは、前身である「The Sky」と「The Telescope」誌にまで遡ります。私も会員になっているイーストベイ天文協会の友人から、シャボット・スペース&サイエンスセンターが、製本済みのS&Tを処分すると聞いたとき、私の手元には、ほぼ完全な未製本雑誌のコレクションがありました。シャボット から譲られたのは第 1 巻から第 67-68 巻 (1984 年) までで、その間の未製本雑誌はすべて箱詰めしてあります。製本済みの方は、約 7,000 冊の天文学の本、いくつかの天文学の学術誌の全巻、数十枚の月面地図、1800 年代から今日に至るまでの数百枚の月写真、そしてローブ古典文庫の約 3 分の 1 の巻とともに、今も私の書庫の棚に並んでいます。
 なぜこんなにたくさんの本を持っているのかと何度も尋ねられました。その答は、私が原稿を書くのは夜間であり、ほとんどの図書館は夜には閉まっているからです。それに私の手元には、どの図書館も持ってない珍しい本が何冊かあります。そのうちの1冊は、これまで2冊しか存在が知られておらず、私の手元にあるのは、まさにそのうちの1冊なのです。」

いくら夜間に執筆するからといって、DVD版も出ている今、紙の雑誌を手元に置く理由にはならないですが、ガーフィンクル氏がこう言われるからには、氏にとって紙の雑誌には、デジタルメディアで置き換えることのできない価値が確かにあるのでしょう。

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遠い将来、人間の思念が物質に影響を及ぼすことが証明され、さらに物質上に残された過去の人々の思念の痕跡を読み取ることができるようになったら、そのとき紙の本はたとえようもない貴重な遺産となるかもしれません。

しかし、そんな遠い未来を空想しなくても、私は古い紙の本を手にすると、ただちに元の持ち主の思いを想像するし、それが読み取れるような気がすることさえあります、そのことに価値を感じる限り、紙の本はこれからも私の身辺にあり続けるはずです。

江戸の星形を追う…アンサー篇2024年11月08日 18時44分12秒

まさに打てば響く。
昨日の記事の末尾で、「こうして書いておけば、きっと今後の展開もある」と書いたのが、こうも早い展開を見せるとは!こういうのを「啐啄の機(そったくのき)」というのかもしれません。

   ★

「江戸の星形」については、すでに詳しい論考があることを、コメント欄でS.Uさんに教えていただきました。

■中村 士・荻原哲夫
 「高橋景保が描いた星図とその系統」
 国立天文台報 第8巻(2005)、pp.85-110.

大雑把にいうと、日本の江戸時代に流布した星図には2系統あり、1つは東アジアで独自に発展し、李氏朝鮮の『天象列次分野之図』の流れを汲む星図、もう1つはイエズス会宣教師が中国にもちこんだ西洋星図や星表が彼の地で漢訳され、日本に輸入された結果、生まれた星図です。

中村・荻原の両氏は、前者を「韓国系星図」、後者を「中国系星図」と呼んでいます。シンプルに、それぞれ「東洋系星図」、「西洋系星図」と呼んでもいいのかもしれませんが、ただ、ここでいう「西洋系星図」に描かれているのは、西洋星座(ex. オリオン座)ではなくて、やっぱり東洋星座(ex. 参宿)なので、無用な誤解を避けるため、ここは原著者に従って「韓国系」「中国系」と呼ぶことにしましょう。

ここで、「両方とも東洋星座を図示してるんだったら、「韓国系」と「中国系」は何が違うの?」と思われるかもしれません。その最大の違いは、「韓国系」は、星の位置情報のみが小円で表示されているのに対し、「中国系」は位置情報のみならず、星の明るさ(等級)の違いに関する情報が表現されていることです。そして問題の星形は、ここで登場するのです。

(中村・荻原の上掲論文(p.102)より転載。等級差の表示記号を両氏は「星等記号」と呼んでいます)

江戸の古星図に関して、私の目にはこれまで「韓国系」だけが見えていて、「中国系」の存在が欠落していた…というのが私の敗因なのでした。しかし、「中国系」の星図は、決して孤立例・散発例などではありません。上記論文はその作例として、高橋景保の『星座の図』(享和2年(1802))や、伊能忠誨(ただのり)の『恒星全図』、『赤道北恒星図』、『赤道南恒星圖』のような肉筆作品、さらには石坂常堅の『方円星図』(文政9(1826))や、足立信順の『中星儀』(文政7年(1824))(※)のような版本も挙げています。

この論文を読んで学んだことを、自分の関心に沿って整理すれば

① 江戸時代も後期に入ると、確かに『星形の星』が存在した
② その起源は、中国経由でもたらされた西洋由来の星の等級記号らしい
③ それは孤立例・散発例ではなく、一定の広がりをもって使用されており、もっぱらプロユースの星図上において使われた

…ということになろうかと思います。

   ★

「江戸の星形」に関して残された問題は、この「星形の星」が江戸時代の人にどれだけのリアリティをもって受け止められたか、つまり星の等級を識別するための、便宜的な記号という以上に、「なるほど、星を虚心に眺めれば、小円よりも、こういうトゲトゲした形の方が実際に近いよなあ…」と思ったかどうかです。

まあ、本当のことは、タイムマシンで当時の人に聞かないと分からないのですが、こういう「星形の星」が星図の世界を飛び出して、たとえば歌川広景の「江戸名所道戯尽三十六 浅草駒形堂」【参考LINK/リンク先ページの作例⑤】や、歌川国貞の「日月星昼夜織分」【天牛書店さんの商品ページにリンク】のような浮世絵にも顔を出しているところを見ると、ある程度の――全幅のとは言いませんが――リアリティを喚起したんじゃないかなあ…と想像します。


(※)中星儀については、以下に図入りで詳細な解説があります

江戸の星形を追う2024年11月07日 05時29分46秒

うーむ、トランプ氏か…。世の中の真理は昔から「曰く、不可解」と決まっていて、そう呟きながら華厳の滝へ身を投げる人が後を絶ちませんが、今回もその思いを新たにしました。まこと人の心は予測が難しいです。

楳図かずおさんも亡くなってしまったし、何だかこんなことを書いていても実りがない気もしますけれど、しかし今は書くことが即ち前に進むことだ…と信じるしかありません。

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忘れないうちにメモ。
昨年7月、日本で星を星形(★)で描くようになったのはいつからか?ということを話題にしました。

■星形の話(前編)…晴明判と陸軍星
■星形の話(後編)…放射する光

それはおそらくは近代以降のことで、近世以前は、「日本の星の絵は円(circle)や小円(dot)ばかりで、光条を伴う作例は未だ見たことがありません」と、自分は<後編>で書きました。

確かに上の記事を書いたときは、その例を見たことがなかったのですが、先日、天文方の彗星観測の話題を書いたとき、大崎正次氏の『近世日本天文史料』をパラパラやっていて、次のような図に出くわしました。


描かれているのは、まさに先日話題にしたのと同じ「1811年(文化8年)の大彗星」ですが、注目すべきはその脇の「太陽守」(おおぐま座χ星)と北斗の一部である「天枢、天旋、天璣、天権、玉衡」で、いずれも見事な星形(+光条)をしています。

「これだ!これこそ江戸時代に星形が使われた実例だ!」と心が踊りました。

しかし、心を落ち着けて、図の出典を確認してみます。
『近世日本天文史料』には、『三際図説 竝 寛宝以来実測図説』(さんさいずせつ ならびに かんぽういらいじっそくずせつ)という本が出典だとあります。この書名で検索すると、それが東北大学附属図書館の「狩野文庫」に写本の形で存在することが分かり、しかも画像がネットで公開されているので【LINK】、内容をすぐに確認できます。


たしかに、そこに出てくるのは、『近世日本天文史料』と同じ図です。でも、その隣にまったく同じ図が、こちらは星形でなく小円で描かれている…というあたりから、何だかわけが分からなくなってきます。ここに同じ図が2つ載っている理由も書かれていないし、一体何がどうなっているのか?


さらに、こちらは同書所収の「明和六年(1769)彗星図」です。


拡大すると、なんだか花びらのような不思議な星が描かれています。これも星形のバリエーションなのでしょうか?

   ★

改めて考えると、この『三際図説』という本が、そもそもいつ成立したのか、本自体には年記がないので不明です。本の中には「三際集説」というタイトルの見開き2頁の文章が含まれていて、ここには寛延3年(1750)の日付けがあるのですが、


収録されている天体観測記録は、その後のものが大半であるのが不審です。

   ★

国書データベース【LINK】には、

著者 渡部/将南(Watanabe Shounan)
国書所在 【写】東北大岡本,東北大狩野(寛政以来実測図説を付す),旧彰考(一冊)(陰陽離地算験考・測記と合),伊能家

とあって、本書は東北大に2冊、旧彰考館に1冊、伊能家蔵書に1冊、計4冊が、いずれも写本の形で伝わっていることが分かります。このうち書写年代が分かるのは、東北大学が所蔵する別の1冊、すなわち「岡本文庫(和算関係文庫の一部)」中の一本で、これは明治19年の書写と、だいぶ時代が下ったものです【LINK】。そして著者・渡部将南については、ネットで検索しても、関連書籍を見てもまったく不明。

この明治19年の写本も、上のリンク先で内容を見ることができますが、先の写本とは内容に異同があり、記述が享和元年(1801)の幻日図までで、文化8年の彗星図は集録されていません。でも、他の図を見ると、上の明和6年の彗星図はもちろん、


いちばん古い日付けである、寛保2年(1742)の彗星図でも、


立派な星形が描かれています。ただし近代に入ってからの書写なので、これが本来の表現なのか、写し手の作為なのか、にわかに判断できません。

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江戸時代にも「星形の星」はありそうだけれども、書誌の闇に紛れて、結局よく分らない…という次第で、ごちゃごちゃ書いたわりに、情報量の乏しい記事になりました。こういうのは写本研究者の方には、おなじみのシチュエーションなのかもしれませんが、素人にはわけの分からない世界で、まさに「不可解」です。

でも、こうして書いておけば、きっと今後の展開もあるでしょう。


【参考LINK】 東北大学附属図書館 主要特殊文庫紹介

他愛ない宇宙2024年11月04日 11時36分44秒

他愛ないといえば、こんな本も届きました。


■Child Life 編集部、『The Busy Bee SPACE BOOK』
 Garden City Books (NY)、1953

版元の Garden City Books も含めて、「Child Life」という雑誌は、今一つ素性がはっきりしません(同名誌が他社からも出ていたようです)。


裏表紙には、この「Busy Bee Books(働きばちの本)」シリーズの宣伝があって、いずれも幼児~小学生を対象としたもの。中でもこの「宇宙の本」は、いろいろな工作を伴うせいか、年齢層は相対的に高めで、小学校の中学年~高学年向けの本です。

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その内容はといえば、


この「プラネット・トス」は、切り抜いて壁に貼り、粘土玉をぶつけて点数を競うゲーム。


あとは迷路遊びとか、数字の順に丸を線で結ぶと浮かび上がる絵とか、


色塗りしてパズルを作ろうとか、火星人と金星人の追いかけっこゲームとか、


「宇宙暗号を解読せよ」等々、中身は本当に他愛ないです。



工作ものとしては、この「スペース・ポート」がいちばん大掛かりな部類ですから、あとは推して知るべし。

日本の学習雑誌の付録にも、同工異曲のものがあったなあ…と懐かしく思うと同時に、当時の日本の雑誌に比べて紙質は格段に良くて、そこに彼我の国力の違いを感じます。

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1953年といえば、日本では昭和28年。
エリザベス女王の即位や、朝鮮戦争の休戦、テレビ本放送の開始、映画では「ローマの休日」や小津の「東京物語」が公開…そんなことのあった年でした。

目を宇宙に向ければ、ソ連のスプートニク打ち上げ(1957)に始まる宇宙開発競争の前夜で、宇宙への進出は、徐々に現実味を帯びつつあったとはいえ、まだ空想科学の世界に属していた時期です。その頃、子供たちは宇宙にどんな夢を描いていたのか?…という興味から手にした本ですが、これが予想以上に他愛なくて、それ自体一つの発見でもありました。

でも、今となってはその他愛なさが貴くも感じられます。
「他愛ない」とは、けなし言葉である以上に褒め言葉でもあり、強いて英語に置き換えれば「イノセント」でしょう。


ある星座切手が秘めた主張2024年11月02日 08時49分36秒

10月は「他愛ないものを買う月間」でした。
お尻を叩く絵葉書もそうだし、下の切手シートもそうです。


値段は送料込みで数百円。そのわりにずいぶんきれいな切手です。

元絵は、ローマの北50kmに位置するカプラローラの町にあるファルネーゼ宮(パラッツォ・ファルネーゼ)に描かれた天井画です。絵の作者はジョヴァンニ・デ・ヴェッキ(Giovanni de' Vecchi、1536–1614)

(五角形をしたファルネーゼ宮。撮影:Fábio Antoniazzi Arnoni)

「ファルネーゼ」と聞くと、現存する最古の天球儀をかついだアトラス神像、「ファルネーゼ・アトラス」【LINK】を思い出しますが、このファルネーゼ宮こそ、かつてアトラス像が置かれていた、アレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿(Alessandro Farnese、1520-1589)の邸宅にほかなりません。

ファルネーゼ宮の中には、「世界地図の間(Sala del Mappamondo)」と呼ばれる部屋があって、四方の壁には世界地図が、そして天井にはこの星座絵が描かれているというわけです。


ファルネーゼ枢機卿が、星の世界にどこまで心を惹かれていたかは分かりませんが、彼は古代ローマ彫刻の大コレクターだったらしく、ギリシャ・ローマの異教的伝統に連なる、星座神話の世界に関心を示したとしても不思議ではありません。いずれにしても、ここが天文趣味と縁浅からぬ場所であることは確かでしょう。

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豪華絢爛な邸宅からチープな切手に話を戻します。
この切手は1986年のハレー彗星接近と、その国際観測協力を記念して発行されました。


4枚の切手の隅には、VEGA(ソ連)、PLANET-A(日本;日本での愛称は「すいせい」)、GIOTTO(欧州宇宙機関)の各探査機の姿が印刷されています。当時、ほかにも多くの探査機がハレー彗星に向かって打ち上げられ、「ハレー艦隊」と呼ばれました。



この切手は南太平洋の島国ニウエ(Niue)が発行したものです。

…と言いながら、私は恥ずかしながらニウエという国を知りませんでした。イギリス国王を元首とする立憲君主制の国だそうです。国連に正式加盟はしていませんが、日本は国家として承認している由。2022年現在の人口は1681人で、バチカン市国に次いで世界で2番目に人口の少ない国だ…とウィキペディアに書かれています。切手が外貨獲得の手段であるのは、小国にありがちなことで、この切手もそのためのものでしょう。

(絶海の孤島、ニウエ)

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私は最初、「たしかに美しい切手だけれど、このデザインはハレー彗星と関係ないし、他所から星にちなむ絵をパクってきただけじゃないの?」とも思いました。でも、それは私の浅慮で、ここにも切手デザイナーの深い配慮は働いていたのです。

(世界地図の間・天井画 https://www.wga.hu/html_m/v/vecchi/2mappa1.html


そう、切手化するにあたり、元絵が鏡像反転されているのです。
ファルネーゼ宮の元絵は、天球儀の星座絵と同様、地上から見た星の配列とは反対向きに描かれているのですが、切手の方はそれを再度反転させて、地上から見たままの姿になっています。

これは切手の方に文句なしに理があると思います。
何せ天井画なのですから、実際に星空を見上げた時と同じ姿になっていないと変だし、天井に描いた意味がないと思います(実際、フィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂や、サンタ・クローチェ教会の天井に描かれた、15世紀の星座絵は地上から見た姿で描かれています)。

…というわけで、たしかにハレー彗星とはあんまり関係ないにしろ、一見安易なこの切手にも、ある種の「主張」があり、そこに小国の気概みたいなものを感じました。

黄泉比良坂を越えて2024年10月31日 19時29分37秒

ハロウィーンのイメージで既出の品を並べてみます(物憂いので元記事は省略)。



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ハロウィーンというと、今や不気味なもの、ホラーチックなものであれば、なんでもありの感じですが、本来は日本のお盆と同様、死者が帰ってくる日、死者儀礼の日なのでしょう。

昔、スプラッタムービーが流行っていた頃、原題を無視して、「死霊の○○」という邦題をつけた映画がやたらありました。中でも「死霊の盆踊り」というのが印象に残っていますが、今にして思えば、ハロウィーンはまさに「死霊の盆踊り」みたいなものかもしれません。(…というか、盆踊りはそもそも「死霊の踊り」であり、盆踊りの輪の中には、知らないうちに死者の顔が混じっているよ…と言われたりするのも、そういう意味合いからでしょう。)

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「今宵、月の光で子供たちが影踏み遊びをしていると、いつのまにか死者がその中に紛れ込んでいて、死者に影を踏まれた子は…」という小話を考えました。

「…」の部分は、「命をとられる」とか、「魂を抜き取られて言葉が話せなくなる」とか、「発狂して悪夢の世界から帰ってこれなくなる」とか、いろいろ考えられます。あるいは「子供の姿がふっと消えて、その子がこの世に存在した痕跡がすべて消えてしまう」というのも怖いですが、でも、そこにかすかに残った小さな足跡を見た両親が、「不思議だな、ひどく懐かしい気がする」、「あら、あなたも?」…といった会話をする場面を想像すると、ひどく哀切な気分になります。

たぶん、我々はみな何か大切なものを忘れてしまった経験を持っているからでしょう。