最近の買い物事情2013年11月24日 20時16分05秒

いったん治った風邪がぶり返して、ノドがおかしいです。

   ★

さて、秋口から物欲がだいぶ落ち着きましたが、何だかんだ云って、まだチョコチョコ買い物は続いています。写真はその中身。販売時の商品写真を勝手借用して、そのまま並べたものですが、まだ手元に届いていない品もあります。


個々のモノについては、いずれ書く機会もあるでしょう。ただ、こうして眺めても、統一感や傾向性はあまりなくて、何となく場当たり的になっている気がします。

ちょっと変わったところで、右下の楽譜は韻律を伴う正教の祈祷書の一部。全体は古い革装本です。この手のものは、当然このブログには登場しませんが、前から興味はあって、これまでも時々買っています。

…というようなこと書いたのは、明日届くはずの、ある新刊書の内容が念頭にあるからで、その本によって、私の買い物の傾向が変わるのか、あるは変わらないのか、我が事ながらいささか興味深いです。

コメント

_ zabiena ― 2013年11月24日 22時09分26秒

さすがどれもこれも、詳しく拝見したい興味深いものばかりですね。
…私も心待ちにしています、明日いよいよ発売のあの本!
新刊本でここまで心躍るのは久しぶりの出来事です。

祈祷書と言えば、洋の東西を問わず、宗教的な儀式に用いる音律というものはどことなく似た空気を持っていますね。
大学は神社勤めとは関係なく、大学は仏教系だったので夏季道場で読経の訓練などもやりましたけれど、お堂で大音量で読経していると、恍惚としてきましたし、就職先の神社で雅楽の演奏で歌ったり曲に合わせて舞っていてもやはり、恍惚感を感じました。

不思議なことにというか、それと同様の空気を卒業旅行のセント・ポール寺院のミサ、新婚旅行のブルーモスクでの礼拝でも感じました。

あの恍惚感・浮遊感は宗教的儀式に欠かせないものなのでしょうし、そう
いったものの中でよりすぐれたものだけが継承され、研ぎ澄まされていくのでしょうね。

_ 玉青 ― 2013年11月25日 22時05分50秒

一言で云えば「荘厳さ」でしょうか。恍惚となるような荘厳さを、人はときに体験しますね。宗教的儀礼の場も然り、虚心に世界と向き合う時も然り。荘厳なるものは本当は一人一人の内に常在していて、それが何かをきっかけに外にこぼれ出てくるのかなあ…とも思います。一見日常にすっかり覆われてしまっているようでも、私は(あるいは他の人も)内なる荘厳さを探す旅を無言で続けているような気もします。

_ S.U ― 2013年11月26日 07時24分41秒

>「荘厳さ」~恍惚
そういう観点では、この楽譜も宇宙観(感?)とつながっているとも言えますね。正統な考えなのかわかりませんが、宗教の恍惚の極意は宇宙を感じるすることだと聞くことが多いです。

 今読んでいる「天の川の列車に乗った夜」の後半ではやたらと音楽が出てくることに気がつきました。このあたりになると、イタリア語で書いてあるのがぴったしはまり、どちらが原著かわからなくなります。でも、書いたのはやはり宮沢賢治としか考えられませんので、これでは賢治がイタリア語で書いたことになります。

_ 玉青 ― 2013年11月26日 21時04分08秒

列車は着実に走っているようですね。
どうぞ荘厳な旅と、無事のご帰還を。

_ zabiena ― 2013年11月26日 22時30分04秒

荘厳さ。そうか、と膝を打ちました。

余りに日常的に宗教的儀式の場にいると、それを荘厳ととらえる感覚が鈍るのかもしれません。
雅楽を奏でる、舞を舞う、そのこと自体に特別な感想がなかった現役時代には、あの恍惚感は「血沸き肉躍る感覚」だった気がしますが、それを見る側、受ける側には「荘厳」という空気感になって伝わるのですね。

感覚の言語化になんだかすっきりしました!

_ 玉青 ― 2013年11月27日 21時13分21秒

白と朱の対照も鮮やかな、キリリとした舞姿が目に浮かびます。
舞い手と見者の意識のずれというのは、たとえば聖歌の歌い手と聞き手の間にもあるでしょうし、ひょっとしたら、そのずれこそ荘厳さを生む秘密なのかもしれません。

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