自然との再会を求めて ― 2016年01月04日 20時09分03秒
「天文古玩」も、内容がマンネリなのはしょうがないとして、書き手である私自身の気分にマンネリの気味があるのはどうにも良くないです。
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何か清新な気分が欲しいと思って、こんな本を手にしました。
■結城伸子(著)
『海と森の標本函―「自然の落としもの」を拾いあつめて愛でるたのしみ』
グラフィック社、2014
『海と森の標本函―「自然の落としもの」を拾いあつめて愛でるたのしみ』
グラフィック社、2014
オールカラーの美しい本です。
フジイキョウコさんの『鉱物アソビ』(2008)に端を発する、“暮らしの中で楽しむ博物趣味”の流れに位置づけられる1冊と思いますが、ここでは海と森で見つかる自然の造形美がテーマとなっています。
フジイキョウコさんの『鉱物アソビ』(2008)に端を発する、“暮らしの中で楽しむ博物趣味”の流れに位置づけられる1冊と思いますが、ここでは海と森で見つかる自然の造形美がテーマとなっています。
ウニ、海藻、ドングリ、コケ、キノコ、種子…
海や森で出会う、愛すべき自然物はたくさんあって、思わず拾い上げたり、何となく家に持ち帰ったりする方も多いでしょう。
海や森で出会う、愛すべき自然物はたくさんあって、思わず拾い上げたり、何となく家に持ち帰ったりする方も多いでしょう。
でも、それを美しいまま手元にとどめて置くのは、なかなか難しいものです。
本書はそのための方法はもちろん、それらがさらにインテリアの一部として溶け込んでいる実例を、著者自身の手になる写真で、鮮やかに示してくれています。
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そうした標本やインテリアの写真はもちろん美しく、大いに目を喜ばせてくれます。
でも、私がいっそう心を打たれたのは、著者・結城さんの心の中にある風景です。
でも、私がいっそう心を打たれたのは、著者・結城さんの心の中にある風景です。
結城さんは北海道のご出身で、本州の鬱蒼とした樹林とは異なる、北の森に寄せる思いを、「森という場所」という一文に、次のように記しています。
「わたしの実家の近くには緑豊かな森林公園がありました。公園のなかにはよく通っていた図書館があり、いつも自転車で川を渡って森の小径をくぐり抜けていくというのがお決まりのルートでした。〔…〕
故郷を離れてから数年後、ひさしぶりにあの森を歩いてみたら、「ああ、これだ…」と一気になつかしい気持ちがあふれました。きらきら輝く澄みきった川、すがすがしい気が漂う森。野の花も瑞々しいコケもそこらじゅうに広がっていて〔…〕」
故郷を離れてから数年後、ひさしぶりにあの森を歩いてみたら、「ああ、これだ…」と一気になつかしい気持ちがあふれました。きらきら輝く澄みきった川、すがすがしい気が漂う森。野の花も瑞々しいコケもそこらじゅうに広がっていて〔…〕」
ああ、なんと豊かな経験でしょう。思わずため息が出ます。
こんな場所が日本にあるとは、にわかに信じがたい思いですが、でも北海道にはきっと今でもあるのでしょう。
こんな場所が日本にあるとは、にわかに信じがたい思いですが、でも北海道にはきっと今でもあるのでしょう。
「エゾリスもヒグマも生息する豊かな原生林が広がる森に市民の憩いの場があるという、いまから思えば稀有な場所ではあるのですが、やはり子どもの頃に慣れ親しんだお気に入りの場所というものは、自分の心地よさの基準であり、ずっと変わらないものなんだなあとしみじみ思ったのです。」
結城さんはこんなふうに一文を結んでおられますが、そうしたお気に入りの場所を持てた子どもこそ、実に幸いというべきです。そして、こうした「記憶の中の森」があるからこそ、本書は単に見てくれだけのものに終わってないのだと感じます。
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記憶の中の光景といえば、そもそも私が理科室に惹かれ、自分の部屋の中に生み出したかったのは、こんな風情ではなかったか?
自然のかけらを集め、そこから自然への思い出が呼び覚まされるような空間。
たぶん、今の私は、自分の目で星を見上げることも含めて、自然から遠ざかりすぎています。収集の内容も人工物に偏っているし、それ以上に、そこにあるのは「他者の自然に対する思い出」ばかりで、私自身の思い出がありません。当面しているビマン的閉塞感の原因は、おそらくそれでしょう。
今の私は、もっと生の自然と交感することが必要です。
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