この世の内と外を往還す2017年08月08日 18時14分21秒

一昨日の記事の結びは、「空想力さえ働かせれば、ここから世界の真実を、いかようにでも掴み出すことができる」とか何とか、一寸いい加減なことを書いてしまいました。

改めて考えると、そのときボンヤリ考えた「世界の真実」というのは、「大きいものは小さくて、小さいものは大きい」という認識の相対性とか、世界とそれを認識する人間の入れ子構造とか、世界が結像するフィルムとしての人間の意義とか、そんなようなことです。

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それと、顕微鏡を覗きながら考えたのですが、顕微鏡で微小な天体写真を覗くことが、「リアルな現実からは幾重にも隔てられた、人工的な経験」に過ぎないのは確かにしても、それを言ったら、いわゆる「リアルな経験」だって、感覚器官という極めて狭いチャンネルを通して受信したものを、言語という大雑把な記号体系を援用して固定したものに過ぎないので、そうリアル、リアルと口やかましく言わんでもいいじゃないか…とも思いました。

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さらにまた、「いったん縮小した像を拡大して眺める」というのは、普通の望遠鏡でもやっていることですから(つまり、直径20万光年のものを、対物レンズを使って、わずか数ミリの実像として結び、それを接眼レンズで大きくして見ているわけです)、その意味で、この「縮めて伸ばす可笑しさ」は、我々の光学的経験の奇妙さを、いささか戯画的に、分かりやすい形で提示してくれているようでもあります。

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お盆近し…というわけで、この世ならざる世界の気配を感じて、ボーっとすることが多いです。と同時に、「下手の考え休むに似たり」という古人の言葉の正しさを噛みしめています。

(ついでなので、例のマイクロフォトグラフのセットを、この機会に眺めておきます。以下つづく。)