七宝焼きで描く星たち2019年03月17日 09時20分06秒

18世紀末から19世紀初頭にかけて、その鮮やかな発想と不断の努力によって、天文学に画期をもたらした偉大な天文家、ウィリアム・ハーシェル(1738-1822)
生年からすると、活躍時期が壮年期以降に偏っている印象ですが、それは彼が元々名のある音楽家で、天文家への転身は、その「第二の人生」に属するからです。まあ、異能の天才と言っていいでしょう。

そして、ウィリアムの研究を陰に陽に支え、自らも天文家として8個の彗星を発見したのが、ウィリアムの妹、カロライン・ハーシェル(1750-1848)です。彼女は最初期の女性科学者であり、当時の社会的桎梏をはねのけて活躍した人として、やはり一個の偉人です。


そのカロラインを描いた七宝絵皿。
現代の七宝作家、飯沢能布子さんの作品です(左右12.5、高さ11.2cm)。

(同部分)

飯沢さんは、夜空を彩る星々に惹かれるとともに、星と共に生きたハーシェル一家の物語にも関心を持たれ、それらを有線七宝の技法で作品化してこられた方です。(飯沢さんは、私よりも古手の日本ハーシェル協会員であり、その関係でご縁をいただきました。)

(同)

芸術作品はすべからくそうかもしれませんが、特に七宝作品の場合、ガラス質の釉薬と基層の銀箔が発する輝きは、光の当たり方によって多彩な表情を見せるため、その美しさを真に味わおうと思ったら、実物を見るほかありません。

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…というのを前振りにして、飯沢さんの作品展示会のお知らせです。

東大和市奈良橋…と聞くと、他の土地の人は「奈良県のどこか?」と思われるかもしれませんが、でも奈良県ではなくて、場所は首都東京です。埼玉県と境を接する、緑豊かな狭山丘陵の一角が、今回の会場。そして、テーマは「アイヌの星座」。(このテーマは、飯沢さんが以前、北海道にアトリエを構えていたことと関連します。)


◆企画展示 「七宝焼きで描く星たち」
  「日本各地には生活に根ざした星の名前や星物語があって、北海道にはアイヌの人々の自然観で考えられた星座が伝えられています。このアイヌの生活や文化から生まれた星や星座を、飯沢能布子さんの七宝作品を通して紹介します。」(チラシより)

〇会期  2019年3月23日(土)~5月19日(日)
       9:00~17:00 (月曜休館、4月29日、5月6日は開館)
〇会場  東大和市立郷土博物館 1階企画展示室
       東京都東大和市奈良橋1-260-2 TEL 042-567-4800
       アクセス&MAP →  [LINK]
会期中、アイヌの星座研究家である山内銘宮子さんのワークショップ「星座早見盤を使ってアイヌの星座を学ぼう」や、天文民俗学研究者で、大著『日本の星名事典』(原書房、2018)を上梓された北尾浩一さんの講演会「日本の星の名前」等、興味深い関連イベントも予定されています(詳細は公式サイト参照)。

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最寄り駅の東大和市駅までは、新宿からだと西武新宿駅から一本、あるいは山手線で高田馬場に出るか、中央線で国分寺に出るかして西武線に乗り換え、いずれも所要時間は約45分。季節も好いですので、のんびりトトロも住んでいる狭山丘陵の地にお出かけください。

博物美の空間2019年03月18日 06時41分57秒

硬いアジサイの玉芽がほぐれ、気が付けばつやつやとした若葉になっていました。いよいよ春本番。その若緑の奥には、来るべき夏の光までもがにじんでいるようです。

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さて、星の七宝展に続き、これまた今週土曜日から始まるイベントのお知らせ。

(今回はハガキではなく、立派な―いつも立派ですが―冊子のDMをいただきました)

第7回博物蒐集家の応接間 博物様式 美の蒐集
○会期  2019年3月23日(土)~3月27日(水)
       10:00~20:00 (最終日は19:00終了)
○会場  三省堂書店神保町本店 8階催事場
       東京都千代田区神田神保町1-1 TEL 03-3233-0285
〇公式サイト(参加者紹介ページ)

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名古屋のantique Salonさんが企画され、多くのアンティークショップの賛同により実現したこのイベントも、今回ではや7回目。今回はさらに現代の創作家も多数参加し、「博物様式」という、古くて新しい美意識の具現化に力を添えています。

(DMより)

参加されるのは、antique SalonJOGLARLandschapboekメルキュール骨董店O BEL INVENTAIRESommeilの6店舗、そしてアーティストして、Abilletage(オリジナルコルセット)、Arii Momoyo Pottery(陶芸)、GREEN-EYED CREATION(銅版画)、Noriko Okamura Dolls(動物人形)、Tokyo Jesus(生と死をめぐる造形作品)といった方々が名を連ねています。

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モノそれ自体と、モノによって構成される空間は、基本的に別物です。
それはあたかも、内臓諸器官と、その集合から成る人間が別物であるのと同様です。いつだって全体は部分の総和以上のものです。

興味の在り様として、私はどちらかというとモノ自体の素性や、モノの背後に秘められたストーリー、あるいはそれが成立した歴史的文脈に惹かれる傾向が強く、日ごろ書いている記事も、多くはそうした書きぶりになっています。

一方、antique Salon 店主である市さんにとっては、モノにまつわる故事来歴以上に、そこから立ちのぼる「美」こそが決定的に重要であり、それは他のモノとの組み合わせや、それが置かれる空間によって、いっそう匂い立つのだ…という、決然たる唯美主義がそこにはあります。(私も博物館という空間や、書斎の空気感は大好きで、そうしたものを自室に持ち込もうと努力はしていますが、それは幼い日の憧れの延長にすぎず、唯美主義というほど洗練されたものではありません。)

(同)

市さんの掲げる「博物様式 美の蒐集」という今回のテーマは、博物趣味に彩られた美的空間の創出を目指しているのはもちろん、「博物趣味は総合芸術たりうるのだ」という、いっそう大きな主張にもつながっていると思います。市さんは、以前は現代作家さんとのコレボレーションに相当慎重でしたが、積極的にそうした方向に舵を切られたことは、異風の総合芸術の完成に向けた、一種の必然的進化なのでしょう。

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最近、antique Salon さんを訪ねる機会がなかったので、以上のことは全て私の勝手な想像です。いずれ折を見て、市さんから直々にいろいろなお話を伺えればと念じています。(サロンの名のとおり、あそこは実に居心地の良い空間なので、皆さんもぜひイベントと併せて、お店の方にも足をお運びいただくことをお勧めします。)

永劫の火2019年03月19日 19時57分37秒

俳誌『鶴』を主宰した昭和の実力派俳人、石塚友二(いしづかともじ、1906 – 1986)

(左は外箱、右は中身)

上は、彼が昭和29年(1954)に出した句集『光塵』(一橋書房)。
ここには戦中の昭和17年(1942)から昭和29年にかけて詠まれた句が収録されています。
冒頭「春」の部から、巻頭三句を挙げてみます。

  見え初めし 子の目にうつり 春の雲
  散る花や 青み渡れる 夕まぐれ
  菫咲き 崖にやさしき 日ありけり
 
いずれも平明な、読んでいて気持ちの良い句です。

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しかし、私が古書検索サイトでこの句集に目を留めたのは、他に特別な理由があります。それは本書見返しに書かれた、彼の自筆句の存在です。


  「御神火の 燃えをり 天の川の涯」

この句は多義的な解釈を許す句です。
いや、仮にそうでなくとも、ぜひ多義的に解釈したい句です。

普通に解せば、「御神火」とは伊豆大島の三原山が上げる炎のことですから、おそらく昭和25年(1950)に始まる噴火活動の折に詠まれたのでしょう(作者は当時鎌倉に住んでいました)。海上に天の川が白く煙る晩、水平線上に火山の赤黒い炎がちらちら望まれたという、芭蕉の「荒海や佐渡に横たふ天の川」の向こうを張る雄大な、そしてなかなか地学趣味に富んだ句です。

でも、私には一読、これが宇宙大の景色を詠んだ、さらに一層壮大な句と感じられたのです。天上で燃える遥かな星々、その大集団である銀河の、そのまた遥かな果てに「御神火」が燃えている…という風に。私の脳内では、「御神火」とは神がともした原初の炎であり、作者は、宇宙の遥か彼方にその創造の炎を幻視したことになっています。さらに「御神火」をビッグバンに由来する「宇宙背景放射」に重ねて、これはいよいよスゴイ句だと、勝手に盛り上がったのです。

宇宙背景放射の存在が予言されたのは1940年代、そして実際に発見されたのは1960年代のことですから、生身の石塚友二はもちろん、私が仮構した「銀河俳人」にしても、その存在を知っていたはずがありません。「銀河俳人」が、それを文学的想像力によって予見したとしたら、なおさらすごいことです。しかし、ここまでくると、さすがに自分でも何か変なことを言っているなあ…頭は大丈夫かなあ…と冷静さを取り戻します。

とはいえ、この句に触発されて脳内に結ばれた像は、なかなか気に入っています。

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ちなみに、この「御神火…」の句は『光塵』所収ではなく、初出は不明。
『光塵』には、天の川を詠んだものとして、以下の二句が載っています。

  天の川 馴れても遠き 人の門
  銀河より 跳ねて一線 星隕つる

火の山へ2019年03月21日 06時57分57秒

以前、書斎の写真集をめくっていて、「おや?」と思う光景を目にしました。

(E. Ellis, C. Seebohm & C.S. Sykes、『At HOME with BOOKS』(Clarkson Potter、1995)より。ニューヨーク在住のStubb夫妻の書斎)

よく見ると、中央の額も、足元に無造作に置かれた額も、すべて画題が火山になっていて、「なるほど、世の中には<火山趣味>というのがあるんだな」と、悟りました。

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火山の噴火は、もちろん恐ろしいものです。
昔のポンペイにしろ、浅間山にしろ、近くは木曾御岳にしろ、噴火によって一瞬で命を奪われた人が大勢います。火山はまずもって畏怖の対象。と同時に、その人智を超えた巨大なエネルギーが人の心を捉え、ときに神格化され、またときにこうして絵姿に描かれます。

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火山の絵というと、手元にもなかなかの優品があります。
しかし、それは「火山美」を描いたものではなく、かといって、火山災害の恐ろしさを説くものでもありません。それは火山のジオグラフィーを科学的に描いた、学校教育用の掛図です。


大阪教育社編纂、明治40年(1907)刊行の「噴火山」の図。
ずいぶん前に登場した月面図と同じく、同社の「天文地文空中現象掛図」シリーズ中の一本です。

こうした明治の地学掛図は、かなり珍品の部類に属するので、大いに自慢したいところですが、残念ながら上の画像は自前ではなく、商品写真の流用です(以下同じ。現物は戸棚の奥にしまいこまれ、容易に取り出すことができません。悲しむべきことです)。

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この絵は構図からして、たぶんナポリのヴェスヴィオ火山の写真ないし絵を元にしているのでしょう。

(ヴェスヴィオ火山の絵葉書。20世紀初頭)

それにしても不思議な絵です。


火山が大噴火しているのに、慌てふためいて戸外に走り出る人もなく、町はいたって静かです。煙突からはゆっくりと煙が上り、湾内の船舶もみな錨を下して、おとなしくしています。この町では、こんな噴火が日常茶飯事で、誰も驚かないのでしょうか。


さらに、ここに並ぶ建物群がまた独特で、現実感が希薄というか、なんとも言えないシュールな味わいです(ナポリの町とはまるで違います)。幻燈が暗闇に映し出す外国風景や、昔の文明開化の記憶、それに汽車から一瞥した神戸の街並みといった、断片的イメージを、画工が脳内でつきまぜてこしらえあげた、「この世に決して存在しない西洋風景」のように見えます。

科学的な絵でありながら、やっぱりここには不思議な美が漂っています。

こうした「空想の異国」は、関西の画工の脳内にきざすと同時に、東北に住む賢治の胸裏にも浮かび、彼はそれを「イーハトーヴの世界」として描きました。

ここで賢治を持ち出したのは、もちろん『グスコーブドリの伝記』の連想からです。ブドリがたどり着き、命をかけて救った町は、きっとこんなたたずまいだったに違いありません。さらに火山の断面図が発する科学の香りには、クーボー大博士の咳払いや、ペンネン技師の横顔も重なって感じられます。

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明治40年、賢治は11歳で小学校の高等科の生徒でした。すでに「石っこ賢さん」の異名をとるほどの鉱物好きで、2年後には県立盛岡中学校に入学し、その鉱物趣味や天文趣味にさらに磨きがかかります。

賢治が学校時代に似たような掛図を見せられ、それが記憶に潜在し、後のグスコーブドリの物語が生まれたのだ…となると、話としては面白いのですが、そんな論考がすでにあるのかどうか、寡聞にして知りません。

火山を目の当たりにする2019年03月23日 07時08分56秒

火山の恐ろしさを知るために、火山のステレオ写真を買いました。


3枚とも1903年に出たもので、版元はアメリカのキーストーン社(1892年創業)です。


台紙の裏には、それぞれ説明文が書かれています。
しかし、この火山シリーズは、本来もっと枚数があったらしく(手元の3枚は「25」、「50」、「71」とナンバリングされています)、何か恐るべき悲劇があったことは分かるのですが、これだけ見ても事情がよく分かりません。

でも、検索したら、すぐにその正体は知れました。
この3枚はいずれも同じ火山を写したもので、場所はカリブ海に浮かぶマルティニーク島(フランス領)、山の名は「プレー山」、そして噴火があったのは、前年の1902年です。

ウィキペディアには「プレー山」の項目があって、そこに1902年の悲劇が詳述されています。約3万人の島民が亡くなった、この20世紀最大の火山災害を、私は恥ずかしながら、全く知らずにいました。以下、リンク先の記述をかいつまんで書かせてもらいます。

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プレー山の噴火は一時に起こったのではなく、1901年の予兆に始まり、1902年に生じた大小の悲劇を経て、1904年に一応の小康を得るまで、複数回生じています。

噴火活動が本格化したのは、1902年4月末からです。
山頂に火山湖が形成され、降灰で船舶の往来がストップし、火山泥流で150人の村人が犠牲となり…と、これだけでも相当深刻な事態ですが、真に恐るべき悲劇は、5月8日に起こりました。

(「激しく壮大な火山噴火の光景に見入る現地民。マルティニーク島、グロ=モルヌ」)

この日の朝、プレー山は4度にわたって爆発し、そこで発生した火砕流が、島で最大の町サン・ピエールを襲ったのです(マルティニーク島はフランスの海外県で、サン・ピエールは当時の県庁所在地です)。

 「高温の火砕流は瞬く間にサン・ピエールを飲み込み、建物を倒壊させると共に大量のラム酒を貯蔵した倉庫を爆発させたために町は炎に包まれた。港に停泊していた18隻の船も巻き込まれて16隻が沈没した〔…〕。
 この災害による死者数ははっきりしないが、サン・ピエールの住民と避難民合わせて2万4,000人とも、3万人ないし4万人とも言われる人々が僅か数分(時計は噴火の2分後に停止している)のうちに死亡した。犠牲者の中にはサン・ピエール市長も含まれていた。」

(「荒廃した死の町。マルティニーク島、サン・ピエール」)

市内の生存者はわずかに3名。まさに全滅状態です。
反射的に広島や長崎を思い起こす方もいるでしょう。

しかも、悲劇はこれで終わらず、同年8月30日には新たな火砕流が発生し、サン・ピエール北東のモルヌ・ルージュ村を襲い、2,000人が死亡しています。

(「解き放たれた破壊の悪魔。プレー山の恐るべき悲劇の不吉な予兆。1902年8月30日」、同)

プレー山は活火山として現在も監視の対象となっており、復興されたサン・ピエールは、今や人口5,000未満の小村に過ぎない…とウィキペディアは記しています。

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このステレオ写真、最初覗いたときは、奇妙な現実感の無さが感じられました。
確かに奥行き感はあります。噴煙はもこもこと盛り上がっているし、手前に立つ人物は、はるか向こうの光景を呆然と見つめ、その遠近感は歴然としています。でも、そこには一切の動きがなく、凍り付いた世界のように見えたのです。

しかし、事態の全貌を知ってみれば、そうした凍り付いた世界こそ、悲劇を体験した人の心象のように思え、あらためて慄然とします。


【3月24日付記】

マルティニーク島の悲劇を検索する過程で、同じく1902年(明治35年)に、日本でも大規模な噴火被害が生じていたことを知りました。伊豆諸島の南端に近い「鳥島」でのことです。

ここは今では無人の島ですが、明治時代にはアホウドリの羽毛採集に従事する人が大勢住んでおり、1902年8月7日ないし9日(正確な日付は不明)に起こった大噴火によって、島民125名が全員死亡した…と、ヤフーの「災害カレンダー」には書かれています(https://typhoon.yahoo.co.jp/weather/calendar/84/)。

火山の幻燈会2019年03月24日 15時06分10秒

ロングブーツの形をしたイタリア半島。そのつま先側、脛(すね)の下というか、足首の上というか、ちょうどその辺りにあるのがナポリの町です。そして町の東南、ナポリ湾越しに優美な姿を見せているのが、歌にも名高い“火の山”、ヴェスヴィオ山(高さ1281m)。ちょっと鹿児島と桜島の関係に似ていますが、実際そうした縁で、鹿児島市とナポリ市は姉妹都市なんだそうです。

今は一応静かにしていますが、過去には何度も噴火を繰り返しており、特に紀元79年の大噴火によって、ナポリ近郊のポンペイが壊滅したのは周知のとおり。直近の噴火は1944年で、19世紀には名実ともに「火の山」だったので、古絵葉書には、炎や煙を上げる姿で描かれるのがお約束でした。

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下はヴェスヴィオ山の姿をダイナミックに描いた、19世紀後半の幻燈スライド。



米・ボストンのコンロイ社(T. A. Conroy;活動期は1860~1900年代初頭?)の製品で、丁寧な手彩色を施した美しい仕上がりです。まあ、これだけだと何が描かれているのかよく分からないので、透過光で眺めてみます。


昼間の火山。ちらちらする炎と、ゆっくりとなびく噴煙が、のどかな海辺の景色とマッチしています。


これが夜景になると、一転して表情を変えます。激しく吹き上げる炎は、明るく周囲を照らし出し、満月もかすむほどです。山肌も、噴煙も、湾内も、すべてが紅に染まっています。それでも船乗りや恋人たちは、全く動じる気配がありません。これはある程度まで実景であって、当時の人は噴火に慣れっこになっていたのでしょう。


フレームに貼られたラベルには「ナポリ湾。ヴェスヴィオ山の爆発」とあって、その上に「dissolving pictures」と書かれています。これは幻燈の上映技法のひとつで、CGのモーフィングのように、2つの映像を滑らかに遷移させるテクニックです。上の火山のスライドの場合だと、昼間の景色と夜の景色を2台の映写機を使ってインポーズし、片方を徐々に暗く、片方を徐々に明るくしてやれば、二つの景色がゆっくり入れ替わるように見えるわけです。

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静かな夜に演じられる火山の幻燈会―。
なかなか素敵なイメージです。

本物の火山にしても、人間に害を及ぼしさえしなければ、ロマンとファンタジーに富んだ景物として楽しめるのですが、残念ながら大自然は人間の思惑など、これっぽっちも気にしてくれません。こればかりは、人間の側でせいぜい気遣うしかありません。

火山に克つ2019年03月25日 07時08分13秒

「そういえば…」と、連想で話題をひとつ。
以前、桜島に渡ったとき、大正3年(1914)の大噴火で地の底から湧き出した、「大正溶岩」の断片をお土産に買ってきました。

(画像再掲)


その後また鹿児島に行ったとき、思い出の品として、桜島の火山灰を小瓶に入れて持ち帰りました。

(瓶の高さは約43mm)

実際、これは鹿児島の暮らしと切っても切れないもので、火山灰は市内ならばどこにでも積もっているし、鹿児島の人は、せっせと雪かきならぬ“灰かき”をして、「克灰袋」とプリントされたビニール袋に詰めて、回収ステーションに出しています。

雪国の人は雪と闘い、鹿児島の人は灰と闘う――。
実に大変な苦労です。

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鹿児島に限らず、日本人は火山に度々苦しめられて来ました。

そのため、後世、火山学が発達し、現在では全国の50の火山に、地震計・傾斜計・空振計・衛星測位システム(GNSS)観測装置等を常置して、そのデータを気象庁の「火山監視・警報センター」および札幌・仙台・福岡の「地域火山監視・警報センター」が、24時間体制でモニターしているのだそうです[ LINK ]。

温泉の恵みは、そうした人間の努力に対する、火山のせめてもの心づくしなのかも。
いずれにせよ、この列島で暮らしていくには、火山と共存しなければならないわけで、火山の知識は、地震の知識とともに、広く国民に共有される必要があるだろう…と、素人が力むようなことでもありませんが、そんなふうに思います。

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おまけ。列島暮らしに火山が溶け込んでいる例。

(井上涼(作詞・作曲)「噴火する背中」(2016)。テーマは伝・豊臣秀吉着用「富士御神火文黒黄羅紗陣羽織」。 動画にリンク