フォルタン気圧計(補遺)2017年09月27日 06時51分37秒

昨日の気圧計が我が家に来てから、もう5年になります。
このちょっとした出来事にも、それに先立つエピソードがあります。

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2012年初夏。私は案内してくれる人を得て、滋賀県の豊郷(とよさと)町にある、豊郷小学校旧校舎の見学に出かけました。ここは建築家ヴォーリズの手になる名建築として知られます。

そのときご案内いただいたY氏の尽力によって、旧校舎の理科室は、その後見事に整備されましたが、当時はまだ整備前で、相当雑然とした状況でした。それが私の心をいっそう捉えたのですが、しかし「整備にかかる前に、あまり舞台裏を出すのはちょっと…」という関係者の声に配慮し、その際の探訪記はいったんブログで公開した後、じきお蔵入りとなったのです。

その訪問の際に、私の目にパッと飛び込んできたのが、このフォルタン気圧計でした。


理科準備室の隅に横たわる、いかにも古色蒼然とした器械(写真は5年前)。


ラベルに書かれた「フオルチン水銀気圧計」の筆文字も、相当インパクトがありました。

訪問を終えた私は、戦前の理科室にタイムスリップしたかような眼前の光景に、興奮の極にありましたから、古い気圧計に食指が動いたのも、単なる気象趣味にとどまらず、そうした「理科室趣味」に発する追い風も大いに作用していたのです。
イギリスから例の気圧計が届いたのは、豊郷小訪問の翌月だ…といえば、その風力がいかに大きかったか、ご想像いただけるでしょう。

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そんなわけで、この気圧計を見ると、いろいろな思いがむくむくと湧いてきます。
モノに念がこもるというのは、何も怪談の世界だけのことではありません。


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甦る昭和の理科室

理科室少年の面差し2017年01月12日 21時14分31秒

前回登場した「理科室少年」という言葉。
この言葉は、いろいろな思いを誘いますが、彼はきっと下のような面持で教場に座っているに違いありません。


彼は普段は「ふーん」と、先生の話を聞いています。
彼は実に頭の回転が速いので、「ふーん」レベルでも、そこそこ理解できてしまうのですが、彼が本領を発揮するのは、何か心の琴線に触れる話題に出会ったときです。


そのときの彼は、まさに全身を耳にして先生の話に集中する…ということはおそらくなくて、むしろ「ふーん」レベルよりも、外界への注意力は低下するはずです。


新たな観念との出会いに興奮した彼の耳に、もはや先生の話は断片的にしか入って来ず、彼の思考は急速に内界へと沈潜し、忙しく自問自答を繰り返しながら、その新たな真理に瞳を凝らす…というような仕儀と相成るのです。

その顔は一見無表情のように見えて、目には何か不思議な光を宿しているはずです。


そんな彼らが大きくなると、その一部はこんな理科の先生になって、また次代の理科室少年を育むわけです。

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この絵葉書、キャプションがないので、具体的なことは不明ですが、おそらく時は1920年代、所はイギリスの寄宿制学校に設けられた物理実験室の光景じゃないでしょうか。


右手前に写っている筒先は、物質のスペクトルを観測する分光器のように見えます。
とすると、この少年たちはかなり高度なことを学んでいることになりますが、彼らはそれを「ふーん」で済ますのか、それとも目に不思議な光を宿すのか…?

続・植物学講義2016年02月10日 07時04分07秒

前回のおまけ。


同じ場面を写した別の絵葉書。


キャプションも同じなら、写っている人物も一緒です(前回の2枚目、3枚目の画像と見比べてください)。


左手は、ちょっとポーズを作る、例の講師役の先生。


大小の壜、解剖用具、顕微鏡、紙片などが無造作に散らばっている机上の有様に、おのずと理科室趣味が漂います。

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100年前に、パリの一角で切り取られた風景。
こちらに視線を向けている人々に、こうしてジッと視線を返していると、名も知らぬ彼らの日常、彼らの心模様、彼らの人生がぼんやり想像されて、ちょっと妙な気分になります。

そして、「今書いているこの文章を、ひょっとしたら100年後の人が目にして、何やら感慨にふけることもあるのではないか…」という居心地の悪さも同時に感じます。

植物学講義…子供も学べば大人も学ぶ2016年02月08日 22時01分03秒

理科室絵葉書の話題を続けます。
と言っても、今日の「理科室」は、かのソルボンヌ(パリ大学)の一室です。


「PARIS,- La Sorbonne, laboratoire de Botanique, salle des travaux pratique.」
「パリ、ソルボンヌ植物学実験実習室」

1906年の消印が押された絵葉書。
石版ではなく、感光紙に焼付けたもので、今では周辺の銀化が進んでいます。


黒板を見ると、植物の葉の断面?や細胞構造の説明図があり、みな熱心に顕微鏡観察に励んでいます。


黒板の傍らに立つ髭の人物が、先生でしょう。
教室内には男性の姿が目立ちますが、ちらほら女性も見えます。


それにしても、受講者はみないい年恰好で、到底学生には見えません。中には先生より年上に見える人もいます。

となると、この場面はいったい何かなあ…と、最初不思議に思ったのですが、想像するに、これは各地の教員を対象にした「教育講習会」ではないでしょうか。机上に置かれた機材は、ごくシンプルな学習用顕微鏡で、特に高度な研究が行われている様子もありませんし、その作業内容は一時プレパラートの作成と、顕微鏡の基本操作にとどまっているように見えます。

日本でも同様の催しはあったと思いますが、きっとフランスでも、こういうことに不得手な先生たちに研修の機会を提供し、授業スキルの向上を狙う催しがあったのでしょう。生徒たちの目に触れないところで、先生たちもせっせと頑張っていたわけです。


植物学実験の実習室だから、壁の装飾も花。
まことに単純明快です。

理科なでしこ2016年02月07日 11時29分33秒

イギリスの理科室風景につづき、同時代の日本の理科室も見てみます。


こちらも、少女たちが真剣に理科に取り組んでいる光景です。


表面のキャプションには「安井尋常小学校/理科教室」とあり、裏面には「安井校創立五十周年紀念/大正七年十月」のスタンプが押されています。

大正7年(1918)の時点で、既に50年の歴史を刻んでいたというのですから、これは相当古い学校です。パパッと検索したところでは、おそらく明治2年(1869)に、京都の東山に開校した安井尋常小学校(現・開睛小学校)の絵葉書でしょう。


今日の授業は、硫黄の加熱実験。
板書を見ると、硫黄の入った試験管をアルコールランプで熱し、固体から液体、さらに気体に変るさまを観察させるというものです。

明治の末(1907)に、小野田伊久馬という人が書いた、『小学校六箇年 理科教材解説』という本を見ると、「硫黄は〔…〕百十四度の熱にて液状となり、四百四十六度の熱にて、沸騰し黄褐色の瓦斯体となる。火を点ずれば、青色の焔をあげて燃焼し、硫黄鼻を衝く」と書かれており、それらを確かめる実験なのでしょう。

板書の文字は、「固体→液体→気体」ときて、最後にまた「気体→固体」となっています。小野田前掲書には、「硫黄は、火山より噴出する瓦斯より分離する故、火山の近傍に産出するもの多く」云々の記述があって、授業ではそうした博物学的事項も併せて教授したのかもしれません。


硫黄の気化実験は危険を伴うので、髭の先生もギロリと怖い顔で監督していますし、


生徒たちの表情も真剣です。


まあ、それはそれとして、袴と黒髪はいいですね。
なお、ここに女子ばかり写っているのは、当時は男組と女組に分れてクラス編成されていたからでしょう。

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この理科室の光景は、同時代のイギリスとまんざら無関係ではありません。いや、むしろ大いに関係があります。

こういう風に生徒自身に実験・観察をさせて、自然の法則に気づかせるよう仕向ける方法は、棚橋源太郎らが中心となって、新たにイギリス流の「発見的(ヒューリスティック)」授業法を取り入れて編み出したもので(それまで日本の理科教育は、ドイツ一辺倒でした)、第一次大戦後、日本中で大いに流行した授業スタイルです。

ですから、この京都の小乙女たちは、昨日のウェールズのリトル・レディと「理科姉妹」の関係にあった…と言えるかもしれません。

花と乙女2016年02月06日 11時33分44秒

最近また絵葉書をポツポツ買っています。そして絵葉書の中では、理科室も気になる被写体のひとつ。といっても、理科室はそう無限にバリエーションがあるわけではないので、この頃は買い控えていました。でも、この絵葉書を見たら、またちょっと興味が再燃しました。


「Howell’s School, Llandaff. The Botanical Laboratory」
「ハウエルズ・スクール(ランダフ)。植物学実験室」

Llandaffというスペルが目慣れぬ感じですが、これはウェールズの地名で、カーディフ市の一角を占める町名。そこに立つハウエルズ・スクールは、1860年創設の、幼稚園から高校まで併設した女子校だそうです。絵葉書自体は、1910年代とおぼしい石版。


ウィキペディアから引っ張ってきた外観は、こんな感じで、なかなかお伽チックで風情のある校舎です。



窓辺に並ぶガラス容器、壁際の花々、押し花を張り付けたらしい紙束。


窓に影をおとす樹々に見守られて、少女たちは熱心に植物のスケッチをしています。

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理科の科目(物理学とか化学とか)に別に色は着いていないものの、学校で講ずるにあたっては、そこに男女差があったのではないか…ということを以前書いた気がします。

昔の絵葉書を見ていると、物理学教室には少年が、植物学教室には少女が、そして化学教室には男女ともに写っている例が、やけに目についたからです。そして、今日の絵葉書もその一例です。

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理科教育とジェンダーの問題は、まだ手付かずで、私自身答の持ち合わせがありませんが、さっきちょっと記事を検索していて、以下のようなびっくりする文章を目にしました。

Sinéad Drea
 The End of the Botany Degree in the UK
 「イギリスにおける植物学学位の終焉」
 (Bioscience Education, v17 Article 2 Jun 2011)
 https://www.heacademy.ac.uk/sites/default/files/beej.17.2.pdf

それによると、分厚い博物学の伝統を誇るイギリスにおいて、「植物学 Botany」を標榜する大学が消滅したというのです。もちろん生物学の一分科としての植物学は今もあるのですが、「Botany」で学位を取得するコースが最後まで残っていたレディング大学とブリストル大学が、2010年までに相次いで学生の募集を取りやめ、講座を閉鎖するに至った…という話。

「ボタニー」という語は、たしかに古臭い分類学や園芸学を連想させる語で、若い人にはさっぱり人気がないし、修了したところで勤め口もないし…という事情から、廃止の憂き目を見たようです(日本でいえば、さしずめ「本草学科」のような語感でしょうか)。

まあ、日本だってどんどん変わっているのですから、イギリスも変わって当然ですが、それにしても…と今昔の感にたえません。

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そして、「女の子は‘お花’を学んでおればよろしい」と決め込んでいた(と、私は想像するのですが)そのツケが回ってきたのか、上の記事に引用されている調査によれば、イギリスの15歳女子の生物関連分野への興味関心を調べたところ、「癌の研究と治療」なんかが人気を誇るいっぽう、植物関連の話題は「最も不人気なトピック」のワースト3を占めていたそうです(男子の調査結果でもワースト10に顔を出す不人気ぶりでした)。

植物に罪はなく、花は依然美しいのですが、これも学問の歴史の一断章でしょう。

怪光線現る…理科室のX線2016年01月10日 16時57分52秒

昔(戦前)の理科室にはあって、今の理科室には決してないもの。
それはX線発生装置です。

【2016.1.12付記】  その後、X線装置は、今も現役の理科教具であることを知りました。したがって、上の記述は訂正が必要です。1月11日の記事のコメント欄を参照してください。

下は昭和12年(1937)に出た、島津製作所の理科教材カタログの1ページ。
中央上に載っているのが、「L形をなせる木製台に感応コイル、蓄電器、転極器、エッキス線管、管挟台、蛍光板及同保持器を装置したる」ところの「教育用エッキス線装置」で、金100円也。


そのほかX線管の単品が、直径80ミリから150ミリまで、大きさに応じて20円~40円、ドイツ製の高級品は、同じく直径100ミリ~150ミリの品が、45円~60円…と出ています。小学校の先生の初任給が50円の時代の話です。

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島津製作所では、それ以前、大正5年(1916)に、理化学器械使用法(増補改訂第5版)』という冊子体のものを出しています。これは小学校(尋常小学校、高等小学校)の理科実験指南書であると同時に、自社製品の販促も狙ったものですが、これを見ると、「教育用エッキス線装置」が、(なんと!)「尋常小学校之部」に登場します。

(X線装置の配線説明図。島津製作所、『理化学器械使用法』より)

暗室内でX線管からX線が放たれると、そばに置かれたシアン化白金バリウム板が蛍光を発して輝き、その間に人の手や、いろいろな物を入れた小箱を置けば、X線の透過度に応じてバリウム板に物の影が鮮やかに浮かび上がり、子どもたちは大喜び…という実験だったようです。

この冊子でX線装置と並んで紹介されているのは、電鈴や電話機、発電機などで、そこには「電気を応用した科学の発明品」という以上の共通点はありません。

当時は、X線の理論など全部すっ飛ばして(そもそも理論が未完成でした)、単なる生徒を喜ばせる「おもしろ実験」や「理科手品」の一種として行われていた気配が濃厚です。

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昨日の記事で引用したThe Cathode Ray Tube siteのページにも、「家庭での娯楽用X線管」という題目で、

「こうした比較的小さなX線管は、学校用または家庭での娯楽目的のために使われたもので、小型の誘導コイルやウィムズハースト静電発生装置といっしょに、物理実験セットの一部として販売されていた。当時のカタログから採った下の図は、こうしたX線管が、どのように使われたかを示している」

…という記述があり、手の骨を覗き見たり、写真に撮っている男の絵が載っています。

X線の人体への影響は、1920~30年代にかけて徐々に認識されてきたようですが、それ以前は、理科教育に熱心な先生がいた学校ほど、子供たちが理科室でバンバン放射線を浴びていた可能性があります。実に危なっかしい話です。

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とはいえ、X線管は理科室の歴史において無視できない役者なので、私も1つ手に入れました。


これまでは部屋の隅に漫然と置かれていただけですが、この機会にしげしげと眺めてみることにします。

(この項つづく)

島津、理科の王国(5)2015年11月02日 06時58分42秒

当時の島津の組織はちょっと変わっていて、先日も書いたように、生物系の商品を扱う「標本部」は、製造から販売まで一貫して行う独立部隊でしたが、他方、理化学系の商品は、製造は「工務部」が、在庫管理や営業販売は本店直属の「商品部」や「販売部」が担っていました。

当然のことながら、標本部には自主の気概が漲る一方、他の部からは外様扱いされるようなことがあったんではないか…と、想像します(実際のところは分かりませんが、人間心理として、自ずとそうなるでしょう)。

特に工務部と標本部の間には、明瞭なライバル意識があったのではないか? 
というわけは、下の写真を見て、ざっくばらんな標本部の部屋と比べて、工務部には妙に取り澄ました空気が流れている気がしたからです。両部は互いの気風の違いを、ことさらに強調して見せるようなところがなかったでしょうか?

(左上から時計回りに「工務部事務室」、「工務部応接室」、「製図室」、「研究室」。
中央は「工務部及標本部の表門」)

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そうしたムードの違いは、陳列室にも感じ取れます。
以下は、いくつもの部屋に分散した物理器械の陳列室の光景です。








どうでしょう、同じ理科室の住人でも、瓶詰標本や剥製の群れとは、ちょっと世界が違うと思われないでしょうか。


上は「小学用理科器械」だけを並べた棚です。
小学校用の器材ですから、こちらはあえて「取り澄ました」というほどのこともなく、いかにも愛らしい感じです。

(…と書いていて気づきましたが、どうも上に書いた印象は、かなり個人的なバイアスがかかっていて、私は自分に理解できないものを、何でも「取り澄ましている」ように感じてしまう傾向があるようです。)

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物理器械だけでは片手落ちなので、化学系の商品も挙げておきます。

(薬品及度量衡室)

行儀よく並ぶ薬品壜。壜のサイズやラベルの向きがピシッと揃っているのが、いかにも几帳面な感じです。手前のケース群は、箱入りの精密ばかりです。

(器械陳列室(化学器械))

窓からの光で、透明なガラスが明るく輝くケミストリーの部屋。

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掲出した写真は、アルバムのごく一部にすぎませんが、これらの画像からも、明治の島津製作所の雰囲気と、当時の理科教育の一端を伺うことができます。

(この項おわり)

島津、理科の王国2015年10月28日 19時53分37秒

まだ寒気というほどではありませんが、冷気が肌に近しく感じられるようになりました。これからさらに寒くなるとの予報。

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さて、少し視点を変えて、話を島津製作所に戻します。
理科室趣味の徒として、私は昔の島津にかなりこだわりを見せた時期があります。
それを如実に示すのが各種の古いカタログ類で、今日ご紹介する写真帖も、その流れで手にしたものです。


 ■『島津製作所写真帖』
  島津製作所、明治44(1911)、
28×18.5cm


まだ島津が株式会社になる前の出版物です。

明治の末というと、日本の工業化とともに、島津も産業用機械や医療用器械の製造に舵を切り始めた頃だと思いますが、少なくともこのアルバムを見る限り、その主力は依然として学校用理科教材というか、むしろ理科教材オンリーと言ってよい光景が見られます。

  製造工場の内部で存分に腕をふるう職人たち
  陳列場に並ぶ、まばゆい実験機器の群れ
  そして剥製の行列…

昔の理科室を夢の王国と感じる者にとって、これはいったい何と形容すればよいのか。まさに王国中の王国、キングダム・オブ・キングダムズです。

…と、ひとりで興奮してもいけないので、中身を見に行きます。

(この項つづく)

SHIMADZU 憧憬(その2)2015年10月24日 17時09分36秒


(昭和42年発行の『島津製作所史』。今回の記述は同書によります。右下は同社の創業記念資料館パンフレット)

島津の創業は明治8年(1875)。今年で創業140年です。

初代・島津源蔵(1839-1894)は、元々京都の仏具師の家の生れで、若い頃は自身もそれを生業にしていました。彼の場合、仏器・三具足などの金工・鋳物細工が専門でしたから、もともと金属加工の技術が下地にあって、そこに新来の理化学器械への強い興味が結びついて、島津製作所は生まれたのです。

明治17年(1884)には、源蔵の長男・梅治郎(後に二代目源蔵を襲名)が、弱冠16歳にして、最新式のウィムシャースト型感応起電機(静電誘導による高電圧発生装置)の製作に成功し、父親にまさるとも劣らぬ才気を示しました。

明治28年(1895)には、物故した初代・源蔵の悲願だった標本部が新設され、島津は学校用理科教材の総合メーカーとしての地位を固めます。

(人体模型製造に励む標本部の職人。上掲書より)

こうして理科室と島津の蜜月は始まり、大正~昭和戦前に整備された各地の理科室には、島津製の器械、標本、剥製、模型が次々と納入され、その優品には、島津源蔵のイニシャルをとった「ジーエス式の銘板が光り、子供達に強い印象を与えたのです(島津製作所を示す「S.S式」や、島津ファクトリーを示す「S.F式」というのもありました)。

(昭和12年発行の『島津理化学器械目録第500号』)


(上掲書より愛らしい物理実験器具2点。重心を説明する奔馬↑と、浮力を説明する浮沈子(ふちんし)↓)

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とはいえ、当初の主力商品だった学校用理化学器械は、島津全体の企業戦略の中で、徐々にその存在感を失う傾向にあったのも確かです。

(大正15年発行の分厚い『化学器械及薬品目録』)

(同書緒言。「島津製作所が呱々の声を揚げ創業の礎を定めしより星霜を閲みすること五十有余年文明の恵沢に培はれ江湖眷顧の雨露を潤ひ年を逐ふて発展し今や工場の坪数一万を超へ…」)

文明開化の頃こそ、教育用機器と産業応用機器の距離は至極近かったと想像しますが、その後の科学技術の進展は、真鍮と木による手工芸的製品では、とても対応できない時代を現出させました。「科学の子」たる島津製作所が、それに全力で応えようとしたのも当然です。

特に、第1次大戦中の大正6年(1917)、同社が個人商店から株式会社に改組したことは、その営業内容に大きな変化をもたらしました。その定款に謳われた製造品目は、

1.学術用器具
2.医療用電気器械器具および医科器械
3.化学工業用および各種工業用機械器具
4.電気機械器具

ときて、その次に

5.博物学その他の標本および模型

が挙がっています。もはや何が主で、何が従かは明らかです。

その後、第2次大戦をはさんで、昭和23年(1948)には、標本部が「京都科学標本(株)」(現・京都科学)として分社化され、さらに昭和44年(1969)には、それ以外の教育用理科機器の製造販売も、(株)島津理化」に分離しました。

ですから、今の京都にそびえる島津製作所は、医療機器・産業機器に特化した会社であり、そこには理科室趣味の徒が憧れたSHIMADZUは既にないのです。そして、その遠い記憶だけが、本社近くの「島津創業記念資料館」に、ひっそり残されているというわけです。

まあ、これを寂しく思うのは、理科室趣味者の勝手な感傷で、初代源蔵にしても「愛玩の対象としての理科機器」を作る意図は最初からなくて、巨大な産業の槌音を響かせることこそ、彼の大志だったかもしれません。

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(再び)とはいえ、科学が生活者の目に見える場所で営まれ、咆哮ならぬ芳香を放っていた簡明素朴な時代を振り返ることは、単なる理科室趣味者の感傷にとどまらず、時代の在り方を省察することにつながるのではないでしょうか。