石田五郎青年に会いに行く2019年01月08日 06時51分35秒

野尻抱影の一連の著作は脇において、それ以外で今も読み継がれ、人々の星ごころを刺激している天文随筆を挙げるとすれば、石田五郎氏(1924-1992)の『天文台日記』(初版1972)を真っ先に挙げたいと思います。これは私の座右の書でもあります。

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その石田氏が、若年の頃、一般向け天文書の翻訳を手掛けていたことを知りました。さっき見たら、ウィキペディアの同氏の項には既にちゃんと書かれていたので、別に事新しい事実ではないんですが、私にとっては新知識だったので、早速本を注文してみました。


届いたのは、いずれも白水社の「文庫クセジュ」に収められている2冊の新書です。この叢書はフランスが本家で、白水社版はその忠実な日本語訳ですから、当然この2冊もフランス語から訳されたもの。

■ポール・クーデール(著)『天文学の歩み』白水社、1952
■ピエール・ルソー(著)『望遠鏡なしの天文学』白水社、1954

クーデールの方は石田氏28歳、ルソーの方は30歳のときの仕事で、氏が東大理学部の助手をされていた時期に当たります。

(追悼文集『天文屋 石田五郎さんを偲ぶ』の一頁。左端の蝶ネクタイが石田五郎氏。右端は和子夫人。1954年)

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本を紹介しようというのに、まだ読んでないというのは無責任な話ですが、実のところまだ読めていません。

でも、これは勉強のために読むというよりも、青年時代の石田氏が、清新な気持ちで取り組まれた訳業に触れ、文章の行間に、当時の石田氏の肉声を感じたかった…というのが、主な動機なので、冒頭の「訳者のことば」を読むだけでも、その目的は十分に達せられます(ちょっといい加減なことを書いている自覚がありますが、ここではそういうことにしておきましょう。)

 「忍苦にみちたルネサンスの天文学をかのシュトルム・ウント・ドランクの時代にたとえるならば、それにつづく輝かしい二世紀はアポロ的古典主義の時代といえましょう。それならばいま幾多の問題をはらみつつ豊富な結果を生みつづけている天体物理学はロマンティズムの時代となるのでありましょうか? そしてそれらは人類文化の発展の歴史の中にいかなる位置を占め、いかなる役割を演じるのでありましょうか?」
(『天文学の歩み』p.5)

 「黒いガウンを身にまとい、天球図と観象儀(アストロラーベ)とノストラダームスの暦書にかこまれ、角燈を手にして望遠鏡をのぞくドクトル・ファウストのような絵姿は今日の天文学の世界とはいささか縁の淡い存在となっています。
 二十世紀後半をむかえる現在、天文学はある意味で≪黒船時代≫に遭遇しているといえましょう。沖合はるかに黒煙をあげる二隻の黒船とは、一つはパロマー山天文台の二百インチ望遠鏡であり、他は世界各地に観測網の充実された電波望遠鏡の砲列であります。
 〔…〕二隻の黒船はわれわれの宇宙図をどのように改変するのでありましょうか?」
『望遠鏡なしの天文学』p.4-5)

さすがに口調が時代がかっていて、ちょっと可笑しみを感じますが、でも、そこには新しい時代の空気と、石田青年の心がシンクロして、やっぱり若々しさがみなぎっています。何だかまばゆい感じです。

19世紀にあって分光学と写真術が天文学に革命をもたらしたように、超巨大望遠鏡と電波望遠鏡群の建造――もう一つ付け加えるなら、プログラム式電子計算機の誕生――が、20世紀の天文学に第2の革命をもたらしつつあった…。この2冊は、そんな時代の生き証人でもあります。


それにしても、こうして見ると文庫クセジュのデザインは垢抜けていますね。
清新といえば、これまたとても清新です。