あたまの体操 20202020年07月26日 10時52分51秒

以下、雑談。
昔からウソつきのパラドクスというのがあります。

 Aさん「私の言うことはすべてウソです。」
 問題: Aさんの言っていることは本当か?

これはAさんの言っていることが本当であっても、ウソであっても、両方矛盾が生じるので、結局「真偽決定不能」というのが正解です。

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このことをただちに連想しましたが、より手の込んだ問題を、昨日ツイッターで見ました。


どうです、なかなかインパクトのある問題ですよね。
貧すれば鈍すると言いますが、このコロナ禍で、ややもすると鈍しがちなので、ちょっと頭の体操をしてみます。

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この問題には、いくつか論点があると思いますが、まず単純な論点から考えてみます。
問題文をちょっと変えて、以下のような問題だったら、どうでしょう?

「四択式の問題の答をランダムに選んだ場合、それが正解である確率は?」

答は25%?
いいえ、違います。これは当の「四択式の問題」の中身によって違ってくるので、あらかじめ正解はありません。つまり「正解はない」というのが正解です。

25%が正解といえるのは、「その中に必ず正解が1つ含まれており、しかも1つしかない場合」という前提条件が必要です。(たとえば、「東京を首都とする国はどれか? A:ニホン、B:ニッポン、C:ジャパン、D:ジャポン」という問題とか、あるいは「正義と猫はどちらが強いか? A:正義、B:猫、C:両方とも弱い、D:猫は正義である」という問題を考えれば、そのことは直ちにお分かりいただけるでしょう。)

繰り返しますが、「四択だから確率は25%」とはならないのです。

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上の知見(というほど大したものではありませんが)を、本問題に当てはめてみます。

「この問題の答をランダムに選んだ場合、それが正解である確率は? A:25%、B:0%、C:50%、D:25%」

という問題も(選択肢の奇妙さには、ひとまず目をつぶりましょう)、冒頭の「この問題」の中身によって、その答は変わってきます。アプリオリに正解は決まりません。そして「この問題」というのが、まさに今問うている問題だとするならば、問題文は以下のように書き換えることができます。

「『この問題の答をランダムに選んだ場合、それが正解である確率は? A:25%、B:0%、C:50%、D:25%』という問題の答をランダムに選んだ場合、それが正解である確率は? A:25%、B:0%、C:50%、D:25%」

そして、ここにも「この問題」が再度出てくるので、これもさらに書き換えると、

「『【この問題の答をランダムに選んだ場合、それが正解である確率は? A:25%、B:0%、C:50%、D:25%】という問題の答をランダムに選んだ場合、それが正解である確率は? A:25%、B:0%、C:50%、D:25%』という問題の答をランダムに選んだ場合、それが正解である確率は? A:25%、B:0%、C:50%、D:25%」

となります。
こうして無限連鎖が生じて、問題自体がいつまでたっても確定しません。問題が確定しないのですから、それにランダムに答えたときの正解確率も決められない…というのが、この場合正解です。

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ここで、きっと次のように考える人がいると思います。

「正解が決まらないということは、どれを選んでも不正解ということだよね。じゃあ結局、選択肢Bの0%が正解じゃないの?」
「あれ?そうすると、ランダムに答えると25%の確率で正答になるなあ。じゃあ、AとDが正解か?」
「あれあれ?すると、正解確率は50%になって、Cが正解?あれれれれ??」

これが、この問題の巧みなところです。

でも、落ち着いて考えれば、最初の「正解が決まらないということは、どれを選んでも不正解ということだよね」という部分が、そもそも間違っています。「正解が決まらないということは、どれを選んでも不正解かもしれないし、どれを選んでも正解かもしれないし、半々で正解かもしれない。予めどれか分からないから、『決まらない』と言うしかないんだよ」と、上の人には教えてあげる必要があります。

結局、正解は最後まで変わることなく、「この場合、正解確率は決定不能であり、A~Dの中から選ぶことはできない」となるわけです。


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さて、ここまで書いて、すっかり納得した気になりましたが、ふと疑問に思いました。
果たして、以下の問題にはどう答えればいいのか?

「この問題の答をランダムに選んだ場合、それが正解である確率は? A:25%、B:50%、C:100%、D:決められない」

これこそ真のパラドクスであり、これは相当な体操ではありますまいか?

真空を包むガラス体(前編)2020年07月26日 12時48分29秒

雑談は脇において、本来の記事も書きます。

涼しげなものというと、やっぱりガラスです。
そして「ガラスといえば、あれはどうしたかな…」と思い出したものがあります。
棚の奥にしまいっぱなしになっていた、真空管たちです。


私の子供時代はまだ真空管が現役でしたが、それよりもさらに古い、戦前の「クラシック・バルブ」と呼ばれる真空管たちは、(雑な表現ですけれど)いかにも「味」があって、眺めるだけで楽しいものです。

ただ、真空管にはディープなコレクターがいて、あまり生半可な知識で手を出すのも危険だし、我ながら何となく「こけし集め」っぽい感じになりそうだったので、それは短いマイブームで終わりました。(こけし集めにもいろいろな側面があるとは思いますが、得てして「単に集めて終わり」になりがちな印象があります。趣味としての広がりに、若干欠けるような…。)

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とはいえ、虚心に見るとき、真空管はとても美しいものです。
科学と芸術という大きなテーマを、真空管はその小さな体で完璧に体現しているとさえ思います。


初期のまあるい真空管は愛らしく、


アークチューラスのブルーバルブは涼やかです。


真空管の歴史の最初期、1910年代に遡る、ドイツ・シーメンス社の製品。
そこに漂う古い科學の香り。当時はエジソンもマルコーニもまだ現役でした。


ガラス細工に支えられた不思議なグリッド。
決して比喩ではなしに、まさに繊細な手工芸品です。
ここを電子が奔り、跳んだのです。