今ふたたびのグスコーブドリ2024年01月17日 05時21分16秒

心を落ち着かせるために、1冊の本を購入しました。


■宮澤賢治(原作)、司修(文・絵)
 グスコーブドリの伝記
 ポプラ社、2012

この作品は賢治の原文のままではなく、司修氏の再話により文章は大幅に切り詰めてあります。それを補うものが氏の描く青い絵です。本書は文章を読むのと同じぐらい、あるいはそれ以上に「絵を読む」ことが大切な本かもしれません。


本書が出版されたのは2012年です。
作者がその制作を思い立ったのが、前年の東日本大震災の経験によるのかどうかは分かりませんが、私の中ではそれが直感的に結びついています。


思えば東日本大震災の折も、私はブドリを読んでいました【LINK】。
あのときは地震と津波に加えて原発事故もあったので、今回の能登半島地震よりもさらに焦燥感が強かったかもしれません。そして、祈るような気持ちで事態の収束を願い、命の危険を顧みず活躍するおおぜいの人に向けて、無言の声援を精いっぱい送っていました。



【閑語】

ここからはブドリと直接関係ない話なので、記事から切り離します。

たしかに今の我々は、当時と同様のシチュエーションを目にしています。
でも、何かが違う。そう思うのは、被害規模の違いだけにとどまらない、何か質的な違いを世間の空気に感じるからです。

いったいこの13年間で、何が変わったのでしょう?
あまり奥歯にものの挟まった言い方をせず、はっきり言わせてもらえば、この間に安倍という人物が日本を破壊しつくしたことが、その最大要因だと私は考えています。

以前も書きましたが、安倍氏の「負の功績」の最たるものは、社会の建て前を破壊したことだと、私は思います。社会正義とか文化的価値は言わずもがな、「一国の総理が嘘をついてはいけない」とか「人を愚弄してはいけない」とか、そんな当たり前のことを、彼はあえて分かろうとしなかった。彼が拝跪したのは、あけすけな「力」であり、新自由主義であり、自己責任論であり、それに迎合する者にはたっぷり飴を与え、異を唱える者は進んで排除しました。しかも、それを陰でこっそりやるのではなく、公然と人々に見せつけました。そして棄民政策とポピュリズムの奇妙な混合物をこしらえ、「パンなきサーカス」を延々と繰り広げて、人々の愚民化を推し進めたのです。

その結果、人々は彼の望み通り「愚民」となり、世の中から「尊い怒り」が消えて、愚かな怒りと冷笑があふれかえるようになりました。あるいは恐るべき無関心が―。今回の被災地支援をめぐって感じる違和感の正体は、たぶんそれだろうと、これを書きながら思いました。

   ★

なんでそんなことになってしまったのか?

ひとつには「貧すれば鈍す」で、社会の中間層がごっそり削り取られ、人々がおしなべて貧しくなったことがあります。もうひとつは安倍氏の振る舞いを見て、「へえ、こんなんでいいんだ」と、子どもも大人も誤学習してしまったこと。

でも、病根はそれだけではありません。
それだけなら話はむしろ単純なのです。
私が心配しているのは、もう何年にもわたって、人々は国を挙げての「学習性無力感の獲得実験」の被験者にされてしまったのではないか…という点です。

何をしても自分の力では事態を好転させることができない…そんな経験を延々と重ねれば、人は必然的に無気力と無感動を身に付けざるを得ません。苛酷な虐待経験もまた同様です。その被害者は、ときに意識を切り離す術を身に付け、傷つけられる自分をあたかも他人であるかのように眺めることで、辛うじて自らを守ることすらあります。いわゆる解離の現象です。

ここで大きな問題は、ネガティブな環境から逃れても、その影響が長く続くことです。我々もまた「安倍的なるもの」の被害者にしてサバイバーであり、安倍氏亡き後もその影響に苦しみ続けていると、私には感じられます。もちろんその影響は、私自身にも及んでいます。

しかし、たとえ苛酷な虐待の経験者でも、その経験に圧倒されっぱなしではなく――長い苦闘の末ではあれ――ついに「他の誰でもない、自分こそが自分自身のあるじなのだ!」という主体性の感覚を取り戻す人はいます。そこに適切な支援があれば、おそらく多くの人がそうでしょう。

その意味で、この国の人々が―そして私自身が―ふたたび自信と主体性を取り戻すことはできると信じたいです。そう、「粉々に砕かれた鏡の上にも、新しい景色は映される」のです。



コメント

_ S.U ― 2024年01月17日 12時29分18秒

そういえば、東日本大震災の直後あたりに、グスコーブドリの映画のネコアニメバージョンを見たなと思い出しました。ますむらひろしさんキャラクター原案で、2012年7月公開となっていました。これも、東日本大震災が制作の動機になっているのか気になったので調べてみましたが、当初の計画は震災前からあり、いったん頓挫して震災後に文化庁の支援で復活したということがウィキペディアに書かれていました。この絵本もネコなんでしょうか?

閑語: 
 なぜか世の中変わってしまったように感じますね。貧すれば鈍すの意味では、敗戦直後に戻ってしまったように思います。確かに、現状は一種の敗戦国なのでしょう。私は、坂口安吾のファンで『堕落論』(『続堕落論』も)を愛読するのですが、いったん道義的に堕落するという余裕に希望があるというのは事実のように思います。堕落するも良し、しないも良し、戦後の状態からも短時間で復活できたのだから、努力と気持ちの持ちようで、気持ち的には、それほど時間をかけずに何とかなるのではないかと思っています。
 また、安吾は、理想はさておき、その短期の過程で人を飢えさせず生活させることが政治の重要な使命だと言っています。こちらのほうは、今のやる気無しの政治には期待できそうにありません。そちらは、政権交代をするなり一揆をおこすなりの行動で即物的に解決するしかないでしょう。
 この際、即物的事情と精神衛生事情を切り離すのがよいのではないかと思います。これをカップルさせすぎたところが、ここ20年くらいの問題ではないかと考えています。

_ 玉青 ― 2024年01月19日 17時52分22秒

あの8月15日にはすべての価値観がひっくり返って、国民は茫然自失。でも一方では頭の重しが取れて、なんともいない開放感があったと想像します。

今回の「敗戦」も、あくどい政治家連中がいっせいに公職追放にでもなっていれば、スコーンと抜けるような開放感を味わったかもしれませんが、なかなかそうはならないようで、カタルシスもちょっと中途半端ですね。せいぜいポスト桜田門外の変ぐらいの「抜け感」かなあ…というのが私の実感です。(この後にさらに「御一新」が控えてるのかもしれませんが。)

ともあれ、私もその一人であるところの庶民は、私が思う以上にしたたかだと思いますので、わが同胞の奮起に期待しましょう。

(あ、そういえばこの絵本は猫キャラじゃありません。基本的にキャラは人間です。でも猫も出てきます。記事中の画像は「人ならざる人、いかにも怪しい人間」が猫の姿で表現されているようです。)

_ S.U ― 2024年01月20日 19時39分22秒

そうですね。「桜田門外の変」程度であれば御の字でしょうか。今後、天狗党やらええじゃないかやらがあって御維新で、その後も西南戦争までいかないと得心がいかないとすると先はたいへんです。

 でも、今日のニュースによると、3つの派閥が解散するそうで、これはどうなるか見たいと思っています。カバン、ジバン、カンバンと言いますが、カバンに書いてあるのは党の名前でも候補者の名前でもなく、派閥の名前なんですよね。おカネの出し入れのたびにこの名前を見せびらかせているのだと思います。派閥を解散したらカバンの名前は消すことになり、そうするとおカネが出し入れできるのかと疑問に思います。そこは、何か誤魔化す方法は考えてあるのでしょうが、そもそも今回は、ゴマカシがバレてこの事態になっているので、どうなるかとちょっと楽しみです。カバンに名前を書くために、派閥ごと離党することもありうるのではないかと期待しています。

_ 玉青 ― 2024年01月21日 14時34分06秒

はてさて、この先どうなりますことか。
たぶん江戸の末期にも、不安と好奇心がないまぜになった気分で、筆まめに日記を付けていた人が世間には大勢いたことでしょうが、私も令和の世にあって、そんな先人と自分を重ねて考えることがあります。おそらく後世の人からすれば、現今の世態人情は実に興味深いでしょうし、人間というものを学ぶには、なかなか得難い機会かもしれませんね。(まあ、学んでどうなるというものでもありませんが、これは学ぶこと自体に意味があるでしょう。)

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