ヴァーツラフ王のいとも豪華なる天文書 ― 2025年11月04日 18時33分18秒
前回に続いて、ファクシミリ版から「美しい天文古書100選」の候補を見てみます。
今回眺めるのは、現在、ミュンヘンのバイエルン州立図書館が所蔵する、『ヴァーツラフ4世のための天文選集』。
ご覧のとおり巨大な本で、表紙サイズは縦50cm近くあります。
例によって Facsimile Finder の該当ページにリンクを張っておきます。
この本を献じられたのは、ボヘミア王ヴァーツラフ4世(1361— 1419/在位1378-1419)で、彼は神聖ローマ帝国ドイツ王(在位1376-1400)の地位を兼帯し、「ヴェンツェル」というドイツ名でも知られます(ドイツ王であることは、同時に神聖ローマ帝国の君主たることを意味しましたが、彼はローマ教皇から正式な戴冠を受けなかったため、「神聖ローマ皇帝」を名乗ることはできませんでした)。
彼のためにプラハの宮廷で制作されたのが、この極美の写本で、制作年代は彼がドイツ王を退いた1400年以降のことなので、特に『ヴァーツラフ4世のための…』と冠称するのでしょう。
内容は、全体が鮮やかな絵具と金箔で彩飾され、とにかく豪華の一言に尽きます。
天文学へのインパクトという点では、もちろんコペルニクスやガリレオの著作の方が、はるかに重要なわけですが、ビジュアルな美しさでは、彼らもこうした豪華本に一歩譲らざるを得ません。
こうした詳しい星表と星図は、中世以降、アラビア経由で流入した天文学の新展開を物語っています。
もちろんコペルニクス以前なので、そこで説かれる宇宙は、地球を中心とする多層天球構造です。
そしてなんといっても、時代は占星術ブーム。
本書の多くが占星術の解説に割かれている…と想像するんですが、ここでもドイツ語の解説書に阻まれて、詳しい内容は不明です。でも絵柄からは、そんなふうに読み取れます。
このファクシミリ版は、2018年に『Astronomisch-Astrologischer Codex König Wenzels IV』の題名で、チューリッヒのBelser Verlag 社から出ました。
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ところで、ウィキペディアの「ヴェンツェル」の項を読むと、彼の人物評が、「とにかく評判の悪い人物で、無能、怠惰、酔っ払い、短気など数々の欠点が挙げられている。〔…〕分別の無さも見られ」…云々と書かれています。
なんだかしょうもない王様ですが、一方でプラハの王室図書館の拡充を図ったことが特筆されているので、本好きの王様だったのかもしれません。それと、チェコ市民には愛想よく振る舞ったので、チェコ国外では悪評でも、チェコでは意外に人気があったのだとか。
『天文論』の美麗な世界 ― 2025年11月02日 16時38分16秒
ときに、先日紹介した『天球について』【LINK】もそうでしたが、貴重な古典籍のファクシミリ版(複製本)は常に一定の需要があるので、それらを扱う専門の出版社や販売会社が世間にはあります。
たとえば、ファクシミリ版を探すとき、決まって上位に出てくる会社に「Facsimile Finder」という会社があります。
まだ年若いジョバンニ・スコルチオーニ氏をリーダーとし、サンマリノに拠点を置く小さな販売会社ですが、その情報量はすばらしく、同社のサイトで、「Astronomy-Astrology」をキーにしてテーマ検索すると【LINK】、今日現在50件がヒットします。残念ながら、その多くは入荷待ち状態で、ただちに購入できるわけではありませんが、マーケットに流通しているファクシミリ版の概要を知るには十分です。
仮に「美しい天文古書100選」を編むとしたら、こうした中世~ルネサンスの写本類もぜひ含めたいところです。もちろんそのオリジナルを手にするわけにはいきませんが、ファクシミリ版なら、手に取ってページをめくることも、書棚に並べることも自由にできるわけです。
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その中には本当に驚くほど美しい本があります。
たとえば1478年頃に制作された、クリスティアヌス・プロリアヌス作『天文論』(Christianus Prolianus、『Astronomia』)。現在はイギリスのライランズ図書館が所蔵しますが、その前はクロウフォード・ライブラリー【参考LINK】に収まっていた時期もあり、さらにその前は、あの中世趣味の鼓吹者、ウィリアム・モリスの手元にあったとか。
「白いブドウ蔓」という意味の「white vine-stem(英)」ないし「bianchi girari(伊)」と呼ばれる飾り文字をふんだんに用い、カリグラフィーには軽快な「ヒューマニスト小文字体(Humanist minuscule)」を採用した、イタリア・ルネサンスの精華といえる美本です。
その精巧なファクシミリ版は、イマーゴ社(伊)から2019年に出ました。
当時は1ドル110円ぐらいの時期でしたが、それでもこの本を手に入れるには、長期間お粥をすする必要があったので、これが現在のレートだったら、とても入手は無理だったでしょう。まあタイミングも良かったし、お粥をすすった甲斐があるというものです。
上の画像の左に写っているのは付属の解説書で、例によってイタリア語なので、なかなか読み取りがたいです。しかし、『天文論』は眺めるだけでも、十二分に喜びを与えてくれます。
上でリンクした、Facsimile Finder の紹介ページには、精細な写真と、さらには動画も載っているので、私のヘナチョコ写真よりも、そちらをご覧いただきたいですが、大いに自慢したい気持ちもあり、何枚か貼っておきます。
私の身には過ぎたる品と思いつつ、でも「美しい天文古書100選」からは絶対に落とせぬ一冊だと信じます。
惑星の子どもたち ― 2025年10月25日 18時01分00秒
「芸術新潮」の占星術特集(昨日の記事参照)を読んで、個人的に有益と感じたのは、「惑星の子どもたち」という概念の例証として、イタリアのエステンセ図書館(モデナ)が所蔵する15世紀の写本、『天球について(De Sphaera)』のミニアチュール画について、かなり字数を費やして解説されていることでした。
「惑星の子どもたち」というのは、7つの惑星(※)ごとに、その影響下に生まれた人々は、それぞれ固有の性格なり職業なりに就く傾向を有するという概念で、それを絵解きしたのが、1470年頃にクリストフォロ・デ・プレディスが描いた、この一連の細密画です。
(※)水・金・火・木・土の5大惑星に太陽と月を加えたもの。黄道十二星座の間を縫うようにして、天球上での位置を変える太陽と月も昔は惑星扱いでした。
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『天球について』は、以前買った複製本が手元にあります。
(円環中に描かれた擬人化された土星、土星が支配するとされる水瓶座と山羊座、そして土星の下に生まれついた地上の人々の姿)
本書は非常に有名な本なので、過去に何度か出版社を替えて複製が作られていますが、手元にあるのは、1969年にベルガモのボリス・ポリグラフィチェ社から出たものです。
(本を収めるための、革装本を模したクラムシェルボックス)
複製本には詳細な解説本が付属しますが、いかんせんイタリア語なので読むことがかなわず、積ん読状態になっていました。でも、この機会に改めて巻を開いて、しばしルネサンスのイタリア貴族の気分を味わうことができました。
(左が解説本、右が複製本)
(木星)
(太陽)
天文学と占星術が未分化な時代にあって、本書は星々を描いた最も美しい本と呼ばれることもあります。まあ、最美かどうかはともかくとして、ド派手なことは類を見ません。
(太陽/部分)
(金星/同)
男神も女神も素裸で局部だけ光らせているのは、いかにも奇異な感じを受けますが、こういう裸体画自体、中世にあっては稀でしたから、異教的神々を風俗画すれすれの姿で描く本書は、二重三重の意味でルネサンス的なのでしょう。
なお、極彩色のミニアチュールの前後には、こうした↑↓グラフィカルな図もあって、これがまぎれもなく天文学・占星術の本であることを物語っています。
雑誌『シリウス』のこと(2) ― 2025年10月10日 14時31分44秒
ルドルフ・ファルプ(Rudolf falb、1838-1903)が1868年に創始した一般向け天文雑誌、『シリウス(Sirius. Zeitschrift für populäre Astronomie)』。同誌の書誌はWikimrdia Commonsの当該項【LINK】に載っており、それによれば終刊は1926年だそうです。時代の嗜好に合ったのか、とにもかくにも半世紀以上続いたのは立派です。
ただしファルプが編者だったのは 創刊から1878年までの10年間で、以後は、Hermann Joseph Klein(1879~1914)、Hans-Hermann Kritzinger (1915~1926)が、編集を引き継いだとあります。したがって、手元の4冊のうち1902年の号だけは、別人であるヘルマン・クラインの手になるものです。
1902年になると、図版も網点による写真版になったりして、科学雑誌としては進化かもしれませんが、味わいという点では石版刷りによる初期の号に軍配が上がります。(まあ、当時の人は別に「味」を求めて石版を採用していたわけではなく、それがいちばんマスプロダクトな手段だったからだと思いますが。)
(火星かな?と思いましたが、1863年6月1日の皆既月食の図でした)
この何ともいえない色合い。
地球の影に入った「赤い月」は、恰好の天体ショーであり、雑誌の見せ場でもありました、
(1877年2月27日の月食3態。月の動きに連れて刻々と変わるその表情)
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1870年代は、イギリスの場合だと、トーマス・ウィリアム・ウェッブ(1807—1885)による天体観測ガイドの古典『普通の望遠鏡向けの天体』(1859)が出た後で、天文趣味が面的広がりを見せつつあった時期です。アマチュア向けの天体望遠鏡市場も徐々に形を整えつつありました。たぶんドイツでも事情は同じでしょう。
『シリウス』にも、いわゆる「趣味の天体観測」的な記事が登場します。
(さそり座の二重星たち)
(時代を隔てたほぼ同じ月齢の月。左:1865年、ラザフォードが撮影した月、右:1644年、ヘヴェリウスによるスケッチ)
(巨大クレーター「プラトン」を囲む環状山脈の偉観)
(1876年の木星表面の変化。モスクワ大学のブレディキンのスケッチに基づく図)
もちろん小口径望遠鏡では、月にしろ、木星にしろ、かほどにスペクタキュラーな光景が見られたわけではないでしょうが、それでもイマジネーション豊かなアマチュアたちの目には、それがありありと見えたはずです。
そして仮に望遠鏡を持たなくても、美しい星空は常に頭上にあり、星への憧れを誘っていたのです。
(北極星を中心とした北天星図)
(同上部分。よく見ると、星がところどころ金で刷られた美しい仕上がり)
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「雑誌『シリウス』のこと」と銘打って、(1)(2)と書き継いできましたが、とりあえず19世紀の星ごころの断片は伝わったと思うので、ちょっと尻切れトンボですが、連載は(2)で終わりです。
(この項おわり)
雑誌『シリウス』のこと(1) ― 2025年10月07日 21時50分22秒
今回の調べごとの副産物として、実はファルプは知らぬ間に私の部屋にも入り込んでいたことを知りました。
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前回参照したwikipediaの記述には、ファルプは1868年、大衆向け天文雑誌『シリウス』を創刊した人であることが書かれていて、「なるほど、そうだったのか」と膝を打ちました。『シリウス』は、その種の天文雑誌としては最初期のものですから、ファルプは天文趣味史においても、重要な位置を占めていることになります。
『シリウス』は、以前サンプルとして入手したものが、4冊だけ手元にあります。
同誌は年によって月刊だったり、月2回刊だったりしますが、それを1年分まとめて、ハードカバーで製本したものです。手元にあるのは1871、1877、1878、1902の各年分で、元の所蔵先がバラバラなので、装丁も不統一です。
(タイトルページに見えるファルプの名)
昔も今もビジュアルに訴えかけることが、大衆向け雑誌の肝でしょう。各巻はいずれも美しいカラー図版を含み、眺めるだけでも楽しいです(というか、ドイツ語なので眺めるしかできませんが)。
(1902年の巻には、雑誌の元表紙も綴じ込まれていました。雑誌の常として、表紙デザインは時代とともに変わったでしょうが、少なくとも1902年当時は、こういう衣装をまとって、読者の手元に届いたはずです)
前回はファルプを一代の奇人と呼んだので、あるいは『シリウス』も、奇説オンパレードの、“19世紀の『ムー』”みたいなものを想像されるかもしれませんが、決してそんなことはありません。これまた中身を読んでないので断言はできませんけれど、内容は至極まっとうなものと見受けられます。
その中身を少し覗いてみます。
(この項つづく)
ジョドレルバンクの話 ― 2025年08月17日 17時35分49秒
ブラック博士の本の話(8月10日付)の最後で、イギリスのジョドレルバンクの電波望遠鏡のことがチラッと出ました。そこから話を続けます。
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ときに、ジョドレルバンクの知名度って、どれぐらいあるんでしょう?
もちろんその筋の人は知っているんでしょうが、たとえば私の家族に聞いても(まだ聞いてませんが)、「何それ?」となることは容易に予想できます。
ジョドレルバンクは、巨大な電波望遠鏡の立つ場所であり、望遠鏡自体の代名詞でもあります。2019年には世界遺産に登録され、日本はともかく、地元イギリスでは非常に有名な存在だと聞きます。
私が最初にジョドレルバンクに興味を覚えたのは、『ビクトリア時代のアマチュア天文家』(産業図書)の末尾に、ジョドレルバンクが登場したからです。それによると、ジョドレルバンクが完成した1957年は、後にBBCの長寿人気番組となったパトリック・ムーアの「The Sky at Night」の放送開始年であり、アラン・ローラン彗星が話題になった年です。こうした出来事を追い風に、イギリスのアマチュア天文活動は、戦前にもまさる勢いで復活し、発展を遂げたのです(日本製の廉価な天体望遠鏡がその発展に寄与したという記述も、私には他人事と思えませんでした)。
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ジョドレルバンクはとにかく巨大です。アンテナの直径は76メートル、片や日本を代表する野辺山の45mm波電波望遠鏡は直径45メートルですから、並ぶと大体下の写真ぐらい違うはずです(あくまでもイメージです。正確な比較画像ではありません)。
(左:ジョドレルバンク、右:野辺山)
(ジョドレルバンクの場所)
ジョドレルバンクの歴史は、同観測基地のサイトに簡潔に述べられています。
そして上のページと同名の本が、かつて出版されたことがあります。
■Bernard Lovell
『The Story of Jodrell Bank』
Oxford University Press, 1968.
『The Story of Jodrell Bank』
Oxford University Press, 1968.
著者のバーナード・ラヴェルは、正式な名乗りをサー・アルフレッド・チャールズ・バーナード・ラヴェル(Sir Alfred Charles Bernard Lovell、1913-2012)といい、ジョドレルバンクを一から作り上げた電波天文学者です。したがってジョドレルバンクの電波望遠鏡も、彼の名をとって「ラヴェル望遠鏡」というのが、その正式な名称です。
(上掲書より。左はラヴェル、右はソ連の天文学者アラ・マセヴィッチ、1960年)
(手元の本には著者の献辞が入っています。「To Dr Keller, on the occasion of his visit to Jodrell Bank 14 November 1970 Barnard Lovell」。ラヴェルはかなり奔放な字を書く人ですね。なおケラー博士は未詳)
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例によって、私はラヴェルのこの本も買っただけで満足して、積ん読のままになっていました。それをこの機会にパラパラしてみたわけですが、そこで強烈な印象を受けたのは、この本にしょっちゅう「お金の話」が出てくることです。
章題だけ見ても「最初の財政的危機」に始まり、「25万ポンドの負債」とか、「財務省と公会計委員会」とか、「財務問題解決に向けて」とかいった具合。私は勘違いしていたのですが、ジョドレルバンクは国費を投入した事業ではなく、ラヴェルの熱誠に支えられえた、文字通り徒手空拳のプロジェクトで、一部の熱心なサポーターがいたおかげで、ようやく日の目を見た存在だったのです。
(上掲書より。Papas画、ガーディアン紙掲載の一コマ漫画)
しかし、イギリスの人々はラヴェルの壮挙を支持しました。上の絵はラヴェルを皮肉るものではなく、むしろ三軍には気前よく予算を配分するのに、ジョドレルバンクは放置している政府を批判する趣旨の絵です。
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瀕死のジョドレルバンクが突如息を吹き返したのは、当時の宇宙開発競争のおかげです。ジョドレルバンクの電波望遠鏡を使えば、人工天体の位置を正確に観測追尾できることが証明され、途端に「有用の長物」となったからです。そして上記のような大衆の支持もあり、ついにジョドレルバンクはイギリスの誇りとされるまでになったのでした。
まあ、人工天体の件はジョドレルバンク建設の本来の目的では全然なかったので、偶然の賜物といえばそうですが、「天は自ら助くる者を助く」で、ここはラヴェルの熱意が天に通じたのだと考えたいです。
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(上掲書見返しより)
Jodrell Bank、すなわち「ジョドレルの丘」とは、エドワード黒太子とともに百年戦争を戦った弓兵、William Jauderellの名に由来し、かつてその所領だった場所だそうです。ラヴェル望遠鏡は、古の弓の射手よろしく、今後もその地で天空をにらみ、パラボラの弧を構え続けることでしょう。
てんとう虫の夜空 ― 2025年08月10日 16時17分25秒
イギリスで長い歴史を持つ児童書レーベル、「Ladybird Book(てんとう虫の本)」シリーズ中の一冊、『ザ・ナイト・スカイ』。
■Mary Brück(文)、Robert Ayton(絵)
『The Night Sky』
Wills & Hepworth (Loughborough, Leicestershire), 1965
『The Night Sky』
Wills & Hepworth (Loughborough, Leicestershire), 1965
版元のウィルズ&ヘプワース社は、19世紀以来の老舗書店で、20世紀はじめから「てんとう虫の本」シリーズの出版を始め、その後、社名も「レディバード・ブックス」に変更(1971年)、現在はペンギンブックスの傘下にある…といった趣旨のことが、Wikipediaの同社の項には書かれています。
著者のメアリー・ブラック(1925-2008)はアイルランド出身の天文学者。最初はアイルランドのダンシンク天文台、その後、エディンバラ王立天文台に転じて、長く研究生活を送った人です。50代以降は天文学史の研究にも打ち込み、英国とアイルランドの女性天文学者の評伝等を発表しています。
(1954年6月30日の皆既日食観測のため、スウェーデンに遠征した折のブラック博士。Journal of Astronomical History and Heritage, Vol. 12, No. 1, p. 81 - 83 (2009) 掲載の追悼記事より)
ブラック博士が児童書を任されたのは、彼女が1950~60年代に、天文学の子供向けラジオ番組を担当した実績を買われれたのだと思いますが、本書『ザ・ナイト・スカイ』は、結果的に彼女の最初の単行本になりました。
一方、挿絵を描いたのはロンドン生まれのロバート・エイトン(1915–1985)で、彼は本書ばかりでなく、「てんとう虫の本」シリーズで広く活躍した画家です。
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ちょっと前置きが長くなりましたが、この本、しみじみいいんですよね。
仮に私が「美しい天文古書100選」を編むとしたら、夜空を詩情豊かに描いた佳作として、このささやかな本もぜひ加えたいです。
何といっても青の使い方がいいです。
実際の夜空がこんな色を呈することは稀だと思いますが、夜空の澄んだイメージを色に託すとなると、こんな色合いになるのでしょう。見ているうちに、だんだんこちらの心の中まで青く染まってくるようです。
本書の対象読者は、この年代の少年少女。
“小さな望遠鏡や双眼鏡があれば、夜空を眺める楽しみはいっそう増すでしょう。昼間のうちから遠くの山や建物を見て、操作に慣れておきなさい”…と、実践的なアドバイスも著者は忘れません。
太陽黒点を観測する際は投影法を用いなさい…という、これまた実践的なアドバイス。
遥かな宇宙へのあこがれ。
パロマー山の巨人望遠鏡(下)と並んで、あるいはそれ以上に、ジョドレルバンクの大電波望遠鏡(上)を大きく扱っているのが、いかにもイギリスの児童書。
本書が出た1965年には、未曽有の好景気によってイギリス人の生活も、ずいぶん豊かになっていたと思いますが、第2次大戦終結後、経済的困窮に苦しんだイギリス国民にとって、1957年に完成したジョドレルバンクの雄姿は、その威信回復のシンボルであり、時のヒーローでした。1965年当時も、その気分は依然濃厚だったことが窺えます。
星空浪漫、明治から大正へ(3) ― 2025年08月05日 05時52分32秒
前回書いたことは、別に早稲田の英文科に学んだ抱影だから…というわけではありません。
京大の物理学科に学んだ、プロの天文学者である山本一清(1889-1959)にしても、その第一主著『星座の親しみ』(初版・大正10/1921、引用は大正11/1922・第13版)の「まへおき」の中で、カーライルを引き、テニスンを引き、ホメロスを引き、タゴールを引き、要するに文学的色眼鏡をもって星空を眺めることの趣深きことを熱弁して止みません。
(『星座の親しみ』口絵)
「純潔と崇高とは、星の光の持つ魂である。見る人の心を、之によって浄化せずには止まない。こゝに真の美が生れる。――美とは客観のみでない。又、主観のみでない。主と客と、(心と星と、)相結んでこそ、美の精を産むものと言はねばならぬ。エマソンの言に
若し星が、千年に一夜だけ現はれるものならば、
こゝに表はされた神の都の記憶(おもひで)を如何に人々は信じ、
あこがれ、又、後の世の代々まで伝へることであろ〔ママ〕う
とある。毎夜、見得るが故に美を感じないとしたならば、そは人の心のゆるみである。文人は之れを「神を瀆(けが)すもの」と言ふのであろう。」(pp.6-7)
若し星が、千年に一夜だけ現はれるものならば、
こゝに表はされた神の都の記憶(おもひで)を如何に人々は信じ、
あこがれ、又、後の世の代々まで伝へることであろ〔ママ〕う
とある。毎夜、見得るが故に美を感じないとしたならば、そは人の心のゆるみである。文人は之れを「神を瀆(けが)すもの」と言ふのであろう。」(pp.6-7)
その力みっぷりが可笑しくもありますが、御大・山本博士にしても、まだ30歳を超えたばかりの少壮期ですから、これは純情一途な思いの発露に他ならないでしょう。そしてまた、明治の後半に青春期を送った世代に、浪漫派の思潮がいかに広汎な影響を及ぼしたかの証左でもあると思います。
★
「星菫趣味」というのがあります。
文学史の用語でいうならば「星菫派」。これは雑誌『明星』に拠って、ロマンチックな恋愛をうたった詩人たちのことです。もっとも彼らが自ら星菫派と称したわけではなく、「星やら菫やら、甘ったるい言葉で色恋を語る連中」というュアンスで、周りの人間が蔑んで使った言葉のようです。
私のいう「星菫趣味」は、もうちょっと広い意味で、いわば「星菫派」が固有名詞なのに対して、「星菫趣味」の方は一般名詞です。すなわち菫の花を抱きしめて「お星さま」をうっとりと見上げる…まあ現実にそんな人はいないでしょうけれど、要はいくぶんステロタイプなロマンチシズムの色眼鏡をかけて、星空を眺める人たちや態度のことです。
改めて明治期の出版物から。
左は明治43年(1910)に日本天文学会が出した『恒星解説』、右は明治34年(1901)に出た与謝野晶子の『みだれ髪』です。
多くの人は、そのデザイン感覚に共通するものを感じると思いますが、こうした浪漫の情調は、すでに明治末年、オフィシャルな天文界にもにじみ出ていたことが分かります。
そして、それがはっきり文字になったものこそ、かつて若年の頃、星菫趣味にそまった(or かぶれた)人々の手になる大正期の天文書であり、それが昭和の「乙女文化」にも影響したし、戦後も長く「日本的天文趣味」の根幹にあり続けた…というのが、私の中の大まかな見取り図です。(さらに、「日本的天文趣味」に及ぼした賢治や足穂の影響については、別のところで述べた記憶があります。)
★
以上のことは、こんな資料のつまみ食いではなく、もっと系統立ててしっかり論じるべき事柄だと思いますが、浅学の身には荷が重いので、ざっくりしたメモ書きだけで筆をおきます(一種の作業仮説とお考えください)。
(この項おわり)
星空浪漫、明治から大正へ(2) ― 2025年08月04日 06時56分58秒
ここで時計の針を14年ばかり進めます。
以下、古川龍城(著)『星のローマンス』(大正13/1924)の「はしがき」より。
「夜こそ我が世界なれ」と、かく一言したゞけで、何人もその中には一切の歓びと、憧れとの残りなく包まれてあることを、自分自身で忽ち直感するであらう。
著者は右の一言で人々が直感した、その通り寸分違はない心持で、夕陽、山のあなたに寂滅して、満天の星高く冴え、満都の灯(ともしび)賑やかに閃く、夜の世界を何物にかへても愛着しようとする。
春宵一刻価千金、更け行く夜の空気の生温(なまぬる)さ、しんと静まった一室に恋人と語った春の夜、数行過雁月三更、明月を仰いで再嘆三嘆した秋の夜、げに思ひ出は尽けども尽きず、帰れども止まらない。」
著者は右の一言で人々が直感した、その通り寸分違はない心持で、夕陽、山のあなたに寂滅して、満天の星高く冴え、満都の灯(ともしび)賑やかに閃く、夜の世界を何物にかへても愛着しようとする。
春宵一刻価千金、更け行く夜の空気の生温(なまぬる)さ、しんと静まった一室に恋人と語った春の夜、数行過雁月三更、明月を仰いで再嘆三嘆した秋の夜、げに思ひ出は尽けども尽きず、帰れども止まらない。」
一読して分かるように、大正期の天文書では、星空は明瞭に情緒的・感覚的な“ローマンス”の対象となっています。ひょっとしたら明治の学者だって、そうした思いを胸に秘めていたのかもしれませんが、それをあからさまに語ることに一種の含羞があって、そこに「科学のロマン」の衣を着せていたのかもしれません。しかし、大正時代になると、そのためらいが消えます。
(星座神話を主体にした本書の内容を象徴するタイトルページ)
★
続いて、野尻抱影(1885-1977)のデビュー作、『星座巡礼』(初版・大正14/1925、引用は昭和6/1931第7版)の「序」より。
「花が植物学者の専有で無く、また宝玉が鉱物学者の専有でも無いやうに、天上の花であり宝玉である星も天文学者の専有ではありません。毎夜僅かの時間に僅か目を常の高さより挙げるだけで、吾々は思ふまゝに彼等の美を楽むことが出来るのです。〔…〕
素人の天文家には難しい学理や、学者自身さへ実感の無い長々しい数字などは当面の事ではありません。花を味ふのにも宝玉を楽むのにも多少の知識は要る、あの程度の知識を星に就いて得れば、星は其の人に漸次(しだい)に微妙なる魅力を加へて来るのです。〔…〕
しかも更に進んで星座を知るに及んで、吾々は宝玉を以て描かれた天図が夜々周ってゐることに驚喜します。希臘へ、伊太利へ、スカンディナヴィアへ、――地上の美しい国々へは旅したいと思っても、事情によって一生そこを訪れる事が出来ないかも知れない。然るに天界の八十八座は吾々が安座してゐる頭の上を毎夜ぢりぢりと動いて、次々に優麗荘厳なる天図を展開して行くのです。」
素人の天文家には難しい学理や、学者自身さへ実感の無い長々しい数字などは当面の事ではありません。花を味ふのにも宝玉を楽むのにも多少の知識は要る、あの程度の知識を星に就いて得れば、星は其の人に漸次(しだい)に微妙なる魅力を加へて来るのです。〔…〕
しかも更に進んで星座を知るに及んで、吾々は宝玉を以て描かれた天図が夜々周ってゐることに驚喜します。希臘へ、伊太利へ、スカンディナヴィアへ、――地上の美しい国々へは旅したいと思っても、事情によって一生そこを訪れる事が出来ないかも知れない。然るに天界の八十八座は吾々が安座してゐる頭の上を毎夜ぢりぢりと動いて、次々に優麗荘厳なる天図を展開して行くのです。」
これぞ天文学の王国から天文趣味が独立を果たした、力強い「独立宣言」です。
星の美を味わうのに天文学は不要だ…とまでは言わないにしても、それが無くとも星の美は十分味わえると、抱影は言うのです。
★
抱影は天文趣味を自然科学から文学へと大きく接近させましたが、そこには抱影の青年期の体験が色濃く影響しています。『星座巡礼』には、著者・抱影による「序」とは別に、友人・相馬御風(1883-1950)による「序文」が寄せられています。
「〔…〕僕は今大兄からおくられた其の懐しい書物の一部を手にして、二十一二年も遠い過去の涙ぐましい追憶に耽られずにはゐられませんでした。
二十余年前、早稲田の学窓で始〔ママ〕めて大兄と不思議な深い交りを結ぶやうになったあの頃のことを憶ひ起すと、僕は今でもたまらない懐しさを覚えます。あの頃は日本の文壇の趨勢もさうであったが、とりわけ僕たちの仲間は若くして清い夢見る人のあつまりであったやうな気がします。そしてあの頃既に星と神話とにかけては驚くべく深く且広い造詣のあった大兄は、僕たちの夢見る者にとりては最も華やかな先達の一人でした。ワーズワース、コーリッヂ、スコット等の湖畔詩人を始めとして、ブレーク、シェリー、キーツ、ロセチ等のイギリス浪漫派の詩人達の生活とにとりわけ熱烈な思慕を寄せてゐた僕たちの美しい純な心に、大兄の星と神話との誘ひがどんなに強い魅力を持ってゐたかは、今でもはっきりと思ひ出すことが出来ます。〔…〕
あれからもう二十幾年かの歳月がいつの間にか過ぎてしまひました。その二十幾年かの間に僕の心も実にさまざまの変遷を経て来ました。世間の思潮も、文芸界の思潮も、むろんその間には複雑極まる変転を閲してゐます。しかし僕は自分の過去を顧みて、自分らの貴い青春期をロマンチシズムの思潮に浸潤されてゐた時代のうちに過し得た事を。恵まれたる一つの幸運として感謝してゐます。」
二十余年前、早稲田の学窓で始〔ママ〕めて大兄と不思議な深い交りを結ぶやうになったあの頃のことを憶ひ起すと、僕は今でもたまらない懐しさを覚えます。あの頃は日本の文壇の趨勢もさうであったが、とりわけ僕たちの仲間は若くして清い夢見る人のあつまりであったやうな気がします。そしてあの頃既に星と神話とにかけては驚くべく深く且広い造詣のあった大兄は、僕たちの夢見る者にとりては最も華やかな先達の一人でした。ワーズワース、コーリッヂ、スコット等の湖畔詩人を始めとして、ブレーク、シェリー、キーツ、ロセチ等のイギリス浪漫派の詩人達の生活とにとりわけ熱烈な思慕を寄せてゐた僕たちの美しい純な心に、大兄の星と神話との誘ひがどんなに強い魅力を持ってゐたかは、今でもはっきりと思ひ出すことが出来ます。〔…〕
あれからもう二十幾年かの歳月がいつの間にか過ぎてしまひました。その二十幾年かの間に僕の心も実にさまざまの変遷を経て来ました。世間の思潮も、文芸界の思潮も、むろんその間には複雑極まる変転を閲してゐます。しかし僕は自分の過去を顧みて、自分らの貴い青春期をロマンチシズムの思潮に浸潤されてゐた時代のうちに過し得た事を。恵まれたる一つの幸運として感謝してゐます。」
抱影が早稲田で学んだのは、明治35年(1902)から39年(1906)までです。
世はまさに与謝野鉄幹・晶子夫妻の文芸誌、『明星』(明治33/1900創刊~明治41/1908終刊)の全盛期。抱影自身、早稲田在学中に『明星』の亜流といえる『白百合』の発刊に関わり、ハイカラで甘やかな明治浪漫思潮にどっぷりつかっていた…というのが、上の御風の文章の背景にあります。
(この項つづく)
星空浪漫、明治から大正へ(1) ― 2025年08月03日 16時22分38秒
10年前、20年前と言わず、もっと最近の話ですが、5か月ばかり前に書きかけのまま、ずっと筆が止まっていたテーマがあります。
下の記事を皮切りに、「乙女チックな天文趣味」の話題から、更に星空とロマンチシズムやセンチメンタリズムの結び付きを考えよう…という話題です。
■乙女の星空
■続・乙女の星空
結論からいうと、この“センチメンタリゼーション”は大正時代に一気に表面化した気配があって、そのことを跡付けようと古い本を眺めていたのですが、他に気がそれて自然沙汰止みになっていました。でも中途半端は良くないので、この辺で改めて文字にしておきます。
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上で、“センチメンタリゼーション”は大正時代に一気に表面化したと書きました。そう考えるわけは、単純に明治時代の一般向け天文書と、大正時代のそれを比べたとき、その手触りがあまりにも違うからです。一言でいうと、明治の天文書はお堅く、大正の天文書はおセンチです。もちろん大正時代の天文書といっても、学術書はお堅かったでしょうが、一般読書人向けの本はひどくセンチメンタルです。
その変化は明治40年代から大正10年代にかけて、西暦でいえば1910年前後から1920年前後という、驚くほど短いスパンで生じました。
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たとえば明治の例として、横山又次郎の『天文講話』(初版・明治35年/1902;引用は第5版・明治41年/1908)を見てみます。その「緒言」に曰く(以下、引用はすべて新字体・旧仮名遣いとし、カナ書きの文章は平仮名書きとします)、
「天文学は一名星学とも称〔とな〕へ、日月星辰地球等の、所謂天体と称するものの学問で、其の形状運動等より、如何なる物質より成れるかまでも併せて研究するものである、随〔したが〕って其の実益も極めて大で、正確に時刻を知り、暦を製して時を分ち、吾人日常の生活に時日を誤らしめず、又地球の形を精査して正確なる地図海図等の基礎を拵〔こしら〕ゆる等の事は、其の応用の直接なるものである」(p.1)
ここで強調されるのは、天体の研究が大きな「実益」(報時、編暦、地図作成の便)を伴うということです。まあ著者・横山は、本書が早稲田大学の史学科の学生を対象にした講義録であることから、「数学上に関する事項は、成るべく之を省き、天体に就て何人が読でも解し易く且面白さうに考へらるる事のみを説く積りである」と述べてはいますが(p.2)、それは一種の便法で、天文学が無条件に面白いものだ…とは言わないし、ましてや夜空の美観については、一言も触れていません。
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次に見るのは、本田親二(著)『最新天文講話(全)』(明治43/1910)です。冒頭の「第一篇 緒論-第一章 天文学の目的」を読んでみます。
「天文学は普通の人が必ずしも閑却して差支ないといふやうなものではない。寧ろ社会の総ての方面に於て必要を感じなければならぬものであらうと思はれる。そこで本書は古今の学者の研究した結果を通俗的に一般の人に伝へ天文学の趣味と実用との方面の幾分を紹介したいといふ目的で書くのである。」(p.2)
本田がいう「実用の方面」というのは、横山とまったく同じです。すなわち報時業務、暦の作成、測地学・航海術等への応用です。では「趣味の方面」は何か。
「天文学は常に実用の方面許〔ばか〕りを研究して居るのではない。時には実用にもならぬやうな、普通素人が考へると全然空想のやうなものを頗る精密に研究して居ることもあるのである。〔…〕吾人が宇宙の中に棲息して居る以上は、自分の住家として宇宙を研究したいといふ事は誰でも起すべき欲望でなければならぬ。其智識欲の要求によって天文学の最大なる而〔しこう〕して最終の目的が定るのである。即宇宙全体の構造及び過去将来を詳しく知り尽くすといふ、総ての空間及総ての時間を包含する大問題である。それは吾々の心中に於ける智識の統一の欲望の最大なる発現であると言っても宜〔よ〕いのである。」(pp.5-6)
本田がいう「趣味の方面」とは、要するに宇宙の成り立ちに関する「科学的探究ロマン」です。実際、その思いに突き動かされて、我々は100年余りの間に長足の進歩を遂げ、今もその歩みを止めていないわけで、これが壮大なロマンであることは間違いないでしょう。
本田は「星座ロマン」や「星空の美」こそ説きませんでしたが、そこには確かなロマンチシズムの萌芽があり、それが大正時代になると一気に噴き出してくることになります。
(この項つづく)
































































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