北の大地に太陽は黒く輝いた(3)2025年06月28日 11時36分53秒

北海道日食のつづき。

北海道で皆既日食があった1896年と1936年、明治と昭和の間の40年間で大きく変わったものがある…と書きましたが、それは私の創見ではなく、1936年の日食観測報告書にそう書いてあるのを見て、「なるほど」と思ったのでした。

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連載の2回目で書いたように、このときは大学関係をはじめ、気象台や逓信省等、多数の観測隊が北海道入りをしましたが、その中にあって純然たる民間の立場で参加したのが、五藤光学研究所の遠征隊であり、それを率いたのが所長の五藤齊三(ごとうせいぞう、1891-1982)です。

(興部〔おこっぺ〕の観測地に立つ五藤齊三。『北海道日食観測報告書』より。以下同じ)

(五藤隊が見た日食)

(五藤隊が布陣した興部の位置)

五藤隊は、帰京後『北海道日食観測報告書』という冊子を公刊しています(奥付がなく、正確な刊年は不明)。

(まだらになっているのは染みではなく、そういう模様の紙を使っているため)

ただし、これは独立した報告書ではなく、既に公刊済みの以下の3編の報文を一冊にまとめたものです。

■五藤齊三、「北海道興部皆既日食観測に於ける眼視観測と撮影装置」
 「科学知識」昭和11年8月号
■平山清次、「日食後記」
 「改造」昭和11年8月号
■S. GOTO  & M. YAMASAKI, 
 Cinematographic Observations of the Total Solar Eclipse of June 19, 1936.
 Popular Astronomy, vol. XLV, No.5, May, 1937.

2番目の「日食後記」の筆者、平山清次(ひらやまきよつぐ、1874-1943)は、五藤隊に加わっていたわけではありませんが、文中で五藤隊の業績を好意的に取り上げているので、特に載せたものと思います(平山は前年に東京天文台を定年退官しており、自ら隊を率いることはありませんでしたが、東京天文台あるいは東大隊のどれかに随行していたのでしょう)。

平山はこう書きます(引用にあたり旧字体を新字体に改めました。〔 〕内は引用者)。

 「朝日新聞社の援助で五藤、三木〔新興キネマ会社技術部の三木茂〕両氏が興部で日食の活動撮影を試みた。コロナの方は別に珍しいもので無いがフラッシ〔フラッシュ〕の変化を撮ったのは稀で、しかもそれを無電の秒の信号と合せてトーキーで撮ったのは恐らく最初であらう。此の映画は朝日新聞社主催の日食座談会で見せて貰ったが予期以上の好成績である。〔…〕とにかく此観測では玄人連が顔負けをした形で、学術の進歩の為めに誠に喜ばしい事である。」

(左:活動写真トーキーの成果)

五藤隊の面目躍如。そして平山は続けてこうも書きます。

 「是迄の日本の日食観測は殆ど全部、外国から輸入した器械で行ったのであるが、今度の日食には国産品が大部用ひられた。小清水で松隈博士が用ひたコロナ写真器、興部で村上理学士が用ひたコロナ写真器、稚内で鈴木理学士が用ひたフラッシ・スペクトル写真器は其主なるもので何れも相当の成績を挙げて居る。光学工業は言ふ迄もなく精密工業の基礎で、それが出来ないでは一流の工業国たる資格が無い。写真工業に就いても同じ事である。其等が日食観測に使用し得べき程度に運んだのは真に国家の為に喜びに耐えぬ事である。」

そう、これこそ私が「なるほど」と思った大きな変化です。

ニコンの前身、日本光学が設立されたのが大正6年(1917)。その日本光学を飛び出し、五藤齊三が廉価な望遠鏡の製作販売を目指して五藤光学研究所を創設したのが大正15年(1926)。明治と昭和の間にはさまった大正時代に、日本の光学工業は画期を迎え、長足の進歩を遂げたのでした。

(冊子の裏表紙と、冊子に挟まっていた案内文。「弊社製品の型録〔カタログ〕御入用有之候はゞ左記へ御申越被下度候」。時代は進んでも、まだ完全な候文であるのがいかにも戦前)

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ときにまったくの余談ですが、五藤光学のロゴマーク。


同社のサイト【LINK】を拝見すると、現在は下のデザインに変わっていて、「創業者 五藤齊三は富士山がとても好きでした。弊社の社章は、世界中の人がひと目でそれとわかるように、日本を代表する富士山と、光学技術の象徴であるレンズが組み合わされています」との説明があります。


公式がそうアナウンスしている以上、まあその通りなのでしょうけれど、同社はウラノス号、アポロン号、ダイアナ号、エロス号のように、ギリシャ・ローマ神話にちなむ製品名を多用したので、このマークも「ギリシャ神話の主神ゼウスと霊峰オリンポス山を組み合わせたもの」という“裏解釈”が当時なかったかどうか、そこがちょっと気になります。

北の大地に太陽は黒く輝いた(2)2025年06月22日 06時21分03秒

前回の記事に掲げた表を見ると、北海道は日食の名産地のように思えますが、1936年(昭和11)以前に同地で見られた皆既日食は、さらに40年前の1896年(明治29)までさかのぼります(しかもこの時は悪天候に祟られて、ほとんど観測不能でした)。

のみならず、範囲を日本全土に広げても、この間皆既日食は見られませんでしたから(注1)、この1936年の日食は、列島の住人にとって40年ぶり、あるいはそれ以上に久しぶりの天文ショーだったわけです。

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当時発行された小冊子が手元にあります。


■東京朝日新聞社北海道販売局(編集・発行)
 『日食を見る―北海道観測記念』
 昭和11年7月7日印刷、同7月12日発行

写真主体のグラフ誌の体裁をとった、全16頁の薄い冊子です。
表紙のレタリングがいかにも洒落ていますね。


冒頭の「北海道日食観測陣」の紹介は、なかなか壮観です。

この日食には、東京天文台の7班を筆頭に、京都花山天文台(3班)、東京文理大(3班)、海軍水路部(2班)がそれぞれ複数の隊を派遣したほか、東大天文学教室、同・物理学教室、京大宇宙物理学教室、同・地球物理学教室、東北大天文学教室、同・物理学教室、東京工業大、広島文理大、北大医学部、海軍技術研究所、理化学研究所、海洋気象台、中央気象台、東京科学博物館、逓信省無線課、逓信省電気試験所、水沢緯度観測所、そして五藤光学研究所から各1隊が参加していました。

(当日の日食帯。北海道東北部、オホーツク海沿岸をなぞるように延びていました)

さらに海外に目を転ずれば、アメリカ、イギリス、オーストリア、ポーランド、チェコスロバキア、および中国の南京中山天文台と北平大学の観測隊がそれぞれ来日し、北の大地で黒い太陽を待ち設けたのでした。

「上斜里〔かみしゃり〕に於ける外人部隊の記念撮影」

(右上「雄武〔おうむ〕小学校の京大日食観測班」、右下「東北帝大班の松隈博士(小清水にて)」、他)

(右下「女満別〔めまんべつ〕で機械を点検する東京天文台の吉田技師」、左「女満別の早乙女班〔東京天文台〕大望遠鏡と田助手」、他)

この日、イギリス隊とポーランド隊を除き、各隊はおおむね観測に成功し、それぞれ詳細な報告書をまとめたはずですが、ここでは日食の学理面のことは割愛し、冊子を眺めて感じたことをメモしておきます。

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表紙をめくると、その裏は北海道の酒造メーカー「北の誉」の広告で、


裏表紙は、翌年、小樽で開催が予定されていた「北海道大博覧会」の予告、


そしてその裏(=裏表紙の裏)は「札幌三越」の広告になっています。

これを見て気づくのは、この1936年の時点では、日食イベントが商業主義としっかり結びついていたという事実です。もちろん科学的探究心や自然への畏怖心も、そこには当然あったわけですが、それに加えて皆既日食が、メディアが企業と組んで仕掛ける「お楽しみイベント」化した…というのが、前代とは異なる20世紀の特色ではないかと思います(巻末「付記」参照)。

まあ「お楽しみイベント」とはいっても、旅行会社の日食パックツアーはまだなかったと思いますが、冊子には女生徒の日食観測隊というのが紹介されています。

「京大山本一清博士夫人に引率された自由学園生徒の日食観測隊」

これなんかは日食ツアーのいわば「はしり」で、きっとリベラルで裕福な家庭のお嬢さんが、好奇心から参加したのでしょう(好奇心は大いに伸ばすべきですが、少なくともこの観測隊は学術研究を目的とはしていなかったはずです)。また下の「女満別小学校々庭のアマチュア観測陣」として紹介されている、学生・紳士の一団のうちにも、道外からの客がまじっていたと想像します。


と同時に、この間、北海道という土地も「秘境」の性格を薄めて、いわば急速に「世俗化」しつつあったんだろうなあ…とも思います。

今の北海道では鉄道がどんどん廃止されていますが、その総延長が最大に達したのは1966年(昭和41)で、その長さは4218.1kmでした。これを基準にすると、前回日食があった1896年の時点では、総延長333.6kmで、開通率は8%に過ぎません。しかしこの1936年になると、総延長は3732.7kmで、開通率はすでに88%に達しています(注2)。これによって人と物資の大量輸送が可能となり、北海道開拓は急速に進んだのです。

そうしたことを背景に、アイヌ習俗にも新たに「観光」のまなざしが注がれるようになったのでしょう。

「アイヌの日食祭」

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というようなことをつらつら思いつつ、でも1896年と1936年、明治と昭和の間の40年間で大きく変わったのはそれだけではないぞ…と思うので、そのことにも触れておきます。

(この項つづく)

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(注1) 過去に日本で見られた日食 http://star.gs/njkako/njkako.htm
(注2) 中岡良司 「建設期間年表による北海道の鉄道の発展過程」

(※)【2025.7.1付記】  6月28日の記事で採り上げた平山清次の文章には次の一節があり、私の印象を裏付けています。

 「今度の日食観測には幾分、御祭騒ぎといった気分もあった。殊に各新聞社が多数の記者を現地に派遣して、あらん限りの材料を集め、惜気もなく其為めに紙面を割いた事、沿線各町村が競ふて観測者を迎へ、出来る限りの好意と便宜とを尽したのは殆んど前代未聞の事であった。」

 ただし、平山は上の一文に続けて、「私は四年前にアメリカの日食観測に参加して其時の彼地の状況にも接したが、これ程の事はなかった。」とも書いているので、日食イベントの商業主義化は、当時の日本において一層著しかったかもしれません。

続・乙女の星空2025年03月10日 06時00分31秒

その後もいろいろ考えていて、この話はかなり「大きい話」だということが、徐々に分かってきました。単に小冊子を一瞥して、それで終わりということではなく、明治~大正の文芸思潮と天文趣味の絡み合いみたいなものところに、話が発展していきそうな気がするからです。でも、あまり話を大きくすると収拾がつかなくなるので、とりあえず冊子の中身を見てみます。

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冊子の冒頭は、前回の口絵に続き、次のような口絵で飾られています。


生贄となったアンドロメダ姫と、ペガサスにまたがり姫の救出に向かう英雄ペルセウス。西洋では伝統的な画題でしょうが、このアンドロメダ姫のハイ頭身と、肉感性を排した、か細い身体表現は、西洋画の伝統を離れ、むしろ後の少女漫画的表現に接近しているようにも見えます。


口絵のあとは、季節ごとの星図が挿入されていて、さらにその後に本文が続きます。

本文は二部構成になっていて、第一部が「星座の手引き」、第二部が「星の神話」と銘打たれています。ここで第一部の冒頭、本冊子の序文に当る一文に注目してみます(原文改段落は改行で表示。太字は引用者)。


「涼み台に坐って、星を数へたりする夏の夜が近づいてまゐりました。

あの美しい星たちの鏤(ちりば)められた夜の空を仰いで、あなた方は宇宙の神秘と壮麗さとに心を打たれたことはありませんか。さうしてあなた方は御存知でせうか。夜の星空の殆ど全天がロマンチックな神話と伝説に満ち満ちてゐるといふ事を。

それはどんな神話と伝説なのか、とあなたはお訊ねになるのですね。それを聞きたいとおっしゃるのですね。でも、さう一と口にお話しできる物語でもなく、物語の数も多いのですから、おい、それと直ぐにお聞かせするわけにもいきません。

そこでこのやうな可愛らしい「星の本」を作って、あなた方の夜のために捧げやうとするのですが、さてその星と星座との物語をお聞かせすれば、その次には、その星と星座はどれであらう?と云ふ興味をあなた方は屹度(きっと)お持ちになる筈です。で、つまりそれ等(ら)のロマンチックな星の話をお聞かせするためと、そして実際にそれ等の星々を夜空に指摘するために役立たせやうとしたのがこの「星の本」の目的です。」

文中、「ロマンチック」という語が2回使われています。
この冊子の書き手が伝えようとするもの、そして読み手が期待するものは、「夜空のロマンチシズム」だというのです。

ただし、こういう文脈で使われる「ロマンチシズム」は、芸術分野でいうところの「ロマン主義」とは少なからず意味合いが異なり、おそらく「センチメンタリズム」と同義だと思います。うっとりと夜空を見上げ、ときに甘く、ときにやるせない思いを星に託す態度こそ、女学生文化における星空受容の基調だったのでしょう。

(冊子の表紙。画像再掲)

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第一部は、冒頭の「ロマンチシズム宣言」に続いて、星の数(肉眼で5,388個、22等星まで数えるとおよそ1,000億個)、星の種類(恒星、遊星、衛星の区別)、太陽系の各遊星の説明、星と星の距離、季節による星座の移動…といった簡単な天文学の基礎が説かれます。


続く第二部は、大熊座・小熊座(以下、星座名は冊子に従います)、龍座、髪座、乙女座、獅子座、蝎座、射手座、蛇遣座・蛇座、鷲座、琴座、冠座、白鳥座、ケフェウス座、山羊座、カシオペイア座、アンドロメダ座、ペルセウス座、鯨座、南魚座、ペガサス座、魚座、牡牛座、オリオン座、大犬座、小犬座、双子座、エリダヌス座、アルゴ座、馭者座、蟹座…以上32の星座について、主にギリシャ・ローマの星座神話を、易しい言葉で再話しています。(なお、それぞれの項目中、関連する星座に触れている箇所があるので、登場する星座はこれよりも多いです。たとえばアルゴ座が、今では5つの星座に分割されていることなどは、当然言及されています。)

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「序文」で著者自身が述べるように、本冊子が提示する「夜空のロマンチシズム」の中身とは、ギリシャ・ローマの星座神話の世界に他ならず、それは本冊子の口絵からも明らかです。

それは昭和の女学生にとって、時間的にも空間的にも遠く隔たった「お伽の世界」であり、だからこそ夢を託すにふさわしい対象たりえたわけですが、アンドロメダ姫の絵画表現に滲み出ているように、そこには微妙な日本的アレンジも加わっており、言うなれば「宝塚的異国憧憬」に近いものが、そこにはあったんじゃないか…と想像されるのです。

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上で述べたことは、何となく当たり前のことを述べているように受け取られるかもしれませんが、でも、それは決して当たり前のことではありません。

なぜなら、「夜空のロマン」イコール「星座神話の夢幻性」である必然性は薄くて、むしろ「夜空のロマン」イコール「科学的宇宙像がもたらす驚異」である方が、19世紀以降は普遍的な在り様だったと思うからです。

これは換言すれば、センチメンタリズム(主情主義)的宇宙ロマンが、インテレクチュアリズム(主知主義)的宇宙ロマンを圧倒していたのが、日本の女学生文化における天文趣味の特質だということです。さらに、「異国憧憬とその日本的変容」という、過去本邦で何度も繰り返されてきたパターンが、ここにもまた見られる点も見逃せません。

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そして、上のことは実は女学生文化に限らず、野尻抱影や山本一清以降の日本の天文趣味全般に濃い影を落としているんじゃないか…というのが、私の常々考えていることです、そもそも、この冊子は無名の著者のオリジナルではなく、当時の一般向け天文書を切り貼りしたものでしょうから、往時の天文趣味の雛型に他なりません。でも、そこまで話を広げるとなかなか大変だ…というところで、今日の記事の冒頭につながるのです。

(この項、続くかもしれず、続かないかもしれません)

乙女の星空2025年03月03日 18時31分52秒



こういう小さな冊子を手にしました。

(奥付頁)

雑誌「少女の友」昭和10年(1935)7月号付録『星の本』
この7月号の本誌表紙を飾ったのは、中原淳一の「星の宵」と題された絵で【LINK】、この付録もおそらく七夕にちなむものでしょう。


この冊子は表紙に工夫があって、単なる平面的な絵ではなく、窓ガラスにあたる部分を抜いて、窓越しに巻頭口絵の星空が覗いているという、なかなか凝った造本です。


その巻頭口絵がこちら。


あるいはこんなイラストも挿入されていて、レトロな「乙女チック」ムード全開です。

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『少女の友』(実業之日本社)は、1908年(明治41年)から1955年(昭和30年)まで続いた少女雑誌。戦前だと、ほぼ今の中・高生に当たる“女学生”、すなわち高等女学校の生徒らが愛読した雑誌です。国会図書館の第 148 回常設展示「女學生らいふ」(平成 19 年)の展示解説【LINK】は、この辺の事情を以下のように述べています(太字は引用者)。

 「多くの少女雑誌が発売される中、二大人気雑誌は『少女倶楽部』と『少女の友』でした。発行部数で群を抜いていた『少女倶楽部』は、主に小学校高学年から女学校低学年を対象とし、地方の女学生が多く購読しました。少女小説や童話の他、受験の心得や時代物など内容は多彩でした。一方『少女の友』は、女学校高学年までを視野に入れ、同じ少女小説でもよりロマンティックなものを掲載し、少女歌劇の特集をするなど、抒情性豊かで繊細な誌面構成となっており、都市部の女学生に強い支持を受けました。」

(これまた乙女チックな裏表紙)

(同上 一部拡大)

この冊子の元の持ち主も山口高等女学校の女学生のようです。

その下に、この冊子の装丁・挿絵を担当した人の名前が「TSUYUJI」と見えますが、これは長谷川露二のことでしょう。

国立国会図書館典拠データ検索・提供サービス【LINK】によれば、長谷川露二は本名を長谷川忠勝といい、1904年の生まれ。国会図書館の蔵書検索に当たると、1927年に雑誌「少女の友」「日本少年」「少女倶楽部」等にその名が見えるのが初出で、戦後はもっぱら幼児向け絵本や児童書の挿絵画家として活躍した方です。その最後の作品は1974年に出ているので、この前後に引退されたか、亡くなられたのでしょう。


ちなみに文中のカットをしげしげ見ると「TSUYUJI・E」とサインされていて、「あれ?TSUYUJI・H じゃないの?」と、最初首をかしげましたが、これはどうやら「露二・絵」の意味のようです。

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この冊子を手掛かりに、戦前の「乙女チシズム」ないし女学生文化と天文趣味の関連につい考えてみたいと思います(…といって、現時点では何の結論もないので、少し時間がかかるかもしれません)。

(この項つづく)

ギンガリッチ氏の書斎へ2025年01月31日 12時36分46秒

(前回のつづき)

去年の暮れに書いた記事の末尾で、自分は「古典籍でなくてもいいので、ギンガリッチ氏の蔵書票が貼られた旧蔵書が1冊手に入れば、私は氏の書斎に足を踏み入れたも同然ではなかろうか…」と書き、そのための算段をしているとも書きました。

有言実行、その後、ギンガリッチ氏の地元・マサチューセッツの古書店で1冊の本を見つけ、さっそく送ってもらいました。


■Paul Kunitzsch,
 『Arabische Sternnamen in Europa(ヨーロッパにおけるアラビア語星名)』. 
 Otto Harrassowitz (Wiesebaden, Germany), 1959. 240p.

パウル・クーニチュ氏(1930-2020)は、オーウェン・ギンガリッチ氏(1930-2023)に劣らぬ碩学で、生れた年も同じなら、長命を保ったことも同じです。…といっても、私は無知なので、恥ずかしながらクーニチュ博士のことを知らずにいたのですが、ウィキペディアの該当項目を走り読みしただけでも、氏は相当すごい人であることが伝わってきます。

氏はアラビア学というか、アラビアの知識・学問が中世を通じてヨーロッパにどう流入したかが専門で、その初期の代表作が、氏がまだ20代のとき世に問うた『ヨーロッパにおけるアラビア語星名』です。これは氏の博士論文を元に、それを発展させたものだそうで、氏の本領はアラビア科学の中でも、特に天文学だったことが分かります。

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手元の一冊には、著者の献辞があります。


「オーウェン・ギンガリッチに敬意を表して。ディブナー会議でのわれわれ二人の出会いの折に。1998年11月8日 パウル・クーニチュ」

ディブナー会議というのは、MITにかつてあった「ディブナー科学技術史研究所」(1992年開設、2006年閉鎖)が主催した会議のひとつだと思いますが、このときクーニチュ氏も来米し、両雄は(ひょっとしたら初めて)顔を合わせたのでしょう。

ただ、いくら代表作とはいえ、クーニチュ氏が40年近く前の自著を献呈するのは変ですから、おそらくクーニチュ氏の来訪を知ったギンガリッチ氏が、自分の書棚からこの本を持参し、記念のメッセージを頼んだ…ということではないでしょうか。クーニチュ氏はメッセージの中で、ギンガリッチ氏を敬称抜きの「呼び捨て」にしていますから、仮に初対面だったにしても、両者は旧知の親しい間柄だったと想像します。
その場面を想像すると、まさに「英雄は英雄を知る」を地で行く感があります。

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そして問題の蔵書票が以下です。


クリスティーズのオークションで見た、繊細な青緑の蔵書票(↓)でなかったのは残念ですが、これはギンガリッチ氏がもっと若い頃に使っていた蔵書票かもしれません。


ギンガリッチ氏の書斎の空気をまとった存在として、また両大家の友情と学識をしのぶよすがとして、これは又とない宝である…と自分としては思っています。このドイツ語の本を読みこなすのは相当大変でしょうが、スマホの自動翻訳の精度も上がっているし、文明の力を借りれば、あながち宝の持ち腐れにはならないもしれません。

(本書の内容イメージ。「アルデバラン」の項より)

3億3300万円2025年01月29日 19時10分29秒

昨年の暮れに、天文学史の大家・故オーウェン・ギンガリッチ博士(1930-2023)の旧蔵書の売り立てがあるという記事を書きました。

■碩学の書斎から

クリスティーズが主催するこのオークションが昨日、無事終了。
出品されたギンガリッチ博士ゆかりの品74点(古典籍73冊とアストロラーベ1点)のうち、10点は入札がなく、オークション不成立でしたが、それ以外は概ね好調で、落札額の合計額は214万8400ドル、1ドル155円で換算すると、3億3300万円ちょっきりという、まことに天晴れな数字になりました。

これはクリスティーズが事前に公表していた、74点の最高評価額(評価額は、例えば「5千ドル~8千ドル」のように幅を持たせてあります)の合計である、160万5500ドルをも大きく上回る結果で、手数料で稼ぐクリスティーズにとってはホクホクでしょう。

もちろん私には無縁の世界の出来事ですし、他人の懐具合を気にするのも下世話な話ですが、やっぱりこういうのは気になるもので、今回の結果を改めてレビューしておきます。その盛会ぶりを知ることは、ギンガリッチ博士の遺徳を偲ぶよすがともなるでしょう。

以下、タイトルと書誌はクリスティーズによる表示のままで、落札額には日本円(1ドル155円で換算)も添えておきます。タイトルから元ページにリンクを張ったので、本の詳細はそちらでご確認ください。

<落札額ベスト10>

   327,600ドル(5,077万円)

277,200ドル(4,296万円)

   163,800ドル(2,538万円)

   100,800ドル(1,562万円)

   56,700ドル(878万円)

   52,920ドル(820万円)

   37,800ドル(585万円)

   37,800ドル(585万円)

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ちなみに、クリスティーズの最高評価額を大きく超えて、意外な高値を呼んだのは、
最高評価額2,500ドルのところ、5.54倍の13,860ドルで落札された


Mechanism of the Heavens, inscribed (Mary Somerville, 1831)や、同じく5万ドルのところ、3.53倍の176,400ドルで落札された、Stellarum Fixarum Catologus Britannicus (John Flamsteed, 1712-1716)〔これは高額落札の第3位に既出〕、あるいは同じく3,000ドルのところ、3.36倍の10,080ドルで落札された




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これまたちなみに、19~20世紀に作られた旅行客用のお土産品らしいアストロラーベは、最高評価額6,000ドルのところ、10,800ドル(167万円)とかなりの健闘です。


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これらの高価な品々を落札したのが誰かはまったく分かりません。

もちろん個人コレクターもいるんでしょうけれど、多くは名のある博物館とか図書館とかに収まることになるんでしょうか。こういうものは当然お金のあるところに吸い寄せられるので、以前記事にした上海天文館あたりにひょっこり登場する可能性もあるかな…と想像しています。

■ある天文コレクションの芽吹き

ポスト・アポカリプスに希望の灯あり2025年01月14日 05時58分21秒

文明社会が滅び、荒廃した地球。
あのカタストロフを辛くも生き延び、荒野をさまようひとりの男。
男はある日、彼と同じように災厄を生き延びた人々が小さなコミュニティを作り、ささやかな「文明の灯」を守り続けているのを見い出した。信じられない思いでゲートを叩く男の前に、おごそかに現れたコミュニティの長(おさ)。それはかつて男が「師」と仰いだ人物だった…

   ★

そんなSFチックな場面が現実にあるとは!!

いつものようにネット空間を徘徊していたとき、ふとFacebook上に「Vintage Astronomy Books」というグループが存在するのを見つけました。以下はその冒頭に書かれたグループ紹介。

 「ここは、天文古書とその著者、天文エフェメラや思い出の品にまつわるストーリー・情報・画像を共有し、これら過去の魅力的な品々の収集と保存について語り合うことに特化したフォーラムです。興味深い天文古書がオークションにかけられたり、売りに出ている場合、メンバーが該当ページにリンクを張ることもありますが、このグループは売買の場ではないことに留意してください。また上述のとおり、(天文古書と関連がある場合を除いて)新刊書や、このグループの趣旨とは関係のない、一般的な天文学の話題について投稿する場所でもありません。」

なんと天文古玩的な場所でしょう!
このグループが作られたのは2019年2月、現在のメンバーは2,656人です。
そして、このグループのモデレーター(管理者)の名前を見たとき、私は「嗚呼!」と深く嘆息したのでした。

その名は Richard Sanderson 氏
氏は以前、米マサチューセッツのスプリングフィールド博物館で学芸員をされていた方ですが、必ずしも天文の世界で有名な方とは言えません。しかし、サンダーソン氏は紛れもなく私の「師」であり、この「天文古玩」の生みの親なのです。

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このブログがスタートしたのは、2006年1月23日。
その開設直後に、私は「天文古玩の世界への招待」という連載記事を書きました。いや、書いたというか、別の方が書いたコラムを要約して翻訳しました。

それこそサンダーソン氏の文章であり、原題を『Relics of Astronomy's Past(過ぎ去りし天文学の形見)』といいます(以下、画像は過去記事より再掲)。


■天文古玩の世界への招待(1)
■天文古玩の世界への招待(2)…望遠鏡
■天文古玩の世界への招待(3)…オーラリー、天球儀
■天文古玩の世界への招待(4)…古書
■天文古玩の世界への招待(5)…星座早見盤、絵葉書、シガレットカード
■天文古玩の世界への招待(6)


連載を終えるにあたり、自分はこうも書きました。

 「以上、リチャード・サンダーソン氏の天文コラムをご紹介しました。
 真鍮製の望遠鏡、オーラリー、天球儀、アストロラーベ、古書、星座早見盤、絵葉書、シガレットカードなど、何とも魅力的なアイテムの数々です。
 観望機材にかけるお金の一部でも、こうしたモノに回せば、天文趣味もまた別の滋味を発揮するのではないでしょうか?」

私のその後の営みは、サンダーソン氏の描いた海図に従った航海に他なりません。私はサンダーソン氏という巨人の肩に乗った小人に過ぎず、このブログもサンダーソン氏のミミックに過ぎないのです。ですから、上で書いた「なんと天文古玩的な場所でしょう!」というのは真逆で、この天文古玩こそ「なんとサンダーソン氏的な場所でしょう!」と言わないといけないのでした。

   ★

その後、サンダーソン氏とネット上で再会したのは2014年のことで、その折のことは以下の記事に書きました。

■天文古書の黄昏(1)
■天文古書の黄昏(2)


天文古書で有名な名物本屋の廃業に関して、サンダーソン氏が天文学史のメーリングリストに投稿した内容を紹介するものでしたが、天文古書の世界に弔鐘が鳴らされたようで、私もひどく暗い気持ちになったものです。

サンダーソン氏が件のMLにその後も投稿されることがあったのかどうか、少なくとも私は見た記憶がないので、氏のその後の動向はまったく分からず、おそらくサンダーソン氏の趣味の世界にも黄昏がやってきたのだろう…と勝手に思い込んでいました。

   ★

そうした長い時の流れを経て、冒頭の出来事に戻るわけです。
最初に書いたことが決して戯言でないことが、これでお分かりいただけるでしょう。

私はFacebookを使ったことがなくて、使い方もよく分らないんですが、何はさておきグループメンバーに加えていただきました。このコミュニティが永く安住の地になるのか、再び荒野にさまよい出ることになるのか、映画のプロット的には後者ということになるのですが、これは現実世界の出来事なので、そうはならないかもしれません。

碩学の書斎から2024年12月26日 05時51分32秒

「なんたること…なんたること!」と、2回心の中でつぶやきました。
いや、1回は心の中だけではなく、たしかに声に出しました。

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クリスティーズの主催する古書・手稿の売り立てが、来年1月、オンラインで開催されると聞きました。会期は1月14日から28日までの2週間です。


出品品目は全部で231点。それだけならたぶん「ふーん」でしょうが、今回心に響いたのは、天文学史の泰斗、故オーウェン・ギンガリッチ氏(Owen Jay Gingerich、1930-2023)の蔵書がそこに含まれていると聞いたからです。

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ギンガリッチ氏のことは、その訃に接した直後、昨年6月1日の記事で採り上げ、さらに3日、4日、5日と4回連続で話題にしており、そのときの自分がどれほど動揺していたか分かります。以下がその一連の記事。


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今回の売り立てのうち、ギンガリッチ氏の蔵書に由来するのは74点で、以下のページにその内容が詳述されています。もちろんこれがギンガリッチ氏の蔵書の全貌ではなくて、今回出品されるのは、そのハイライトたる古典籍だけです。



冒頭のアストロラーベは何だかフェイク臭いぞ…と思いましたが、そこはクリスティーズで、フェイクとこそ書いてないものの、「19世紀以降、インドかイランで旅行者向けのお土産用として作られたものだろう」と正直に書いています。それでも4千~6千ドルと結構な評価額なのは、ギンガリッチ氏旧蔵品という有難みが上乗せされているからでしょう。

まあ、アストロラーベはご愛嬌として(ギンガリッチ氏も誰かにお土産でもらったのかもしれません)、今回の目玉である古典籍を見ると、コペルニクス前夜からティコ、ケプラー、ガリレオに至る15~17世紀の稀覯本がずらりで、さすが碩学の書斎はすごいなあ…と驚き、さらにその評価額を見て再び驚くことになります。

ギンガリッチ氏のお父さんは、アメリカの地方大学で歴史を教えた先生で、教養はあったでしょうが、格別財産があったとも思えないので、ギンガリッチ氏の蔵書も刻苦勉励の末、一代で築かれたもののはずで、そのことも大いに尊敬の念を掻き立てます。

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ギンガリッチ氏は天文学史を研究し、その分野の古典籍のコレクターでした。
そして、私がさらに氏を敬仰するのは、氏は一方で博物趣味の徒でもあり、貝類の一大コレクターだったからです。その素晴らしいコレクションは、亡くなる直前に自身が教鞭をとったハーバード大学の比較動物学博物館・軟体動物部門に寄贈されたそうです。

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以下は「Astronomy」誌のWEB版に載ったギンガリッチ氏の追悼記事。
その写真から、在りし日のギンガリッチ氏の書斎の様子が偲ばれます。


Owen Gingerich, historian of astronomy, passes away
 Copernicus, Pluto, and many, many books: Astronomical 
 research loses a legend.
 By Samantha Hill (2023年6月19日)

氏のデスクのすぐ背後に飾られているのは、ティコが領したフヴェン島の古地図(※)で、同じものが私の書斎にも飾られていることは、何の衒(てら)いもなく自慢できることです。


そして、古典籍でなくてもいいので、ギンガリッチ氏の蔵書票が貼られた旧蔵書が1冊手に入れば、私は氏の書斎に足を踏み入れたも同然ではなかろうか…と、無駄なようでいて、私にとって決して無駄ではない次の算段もしています(今回の古典籍はちょっとどうにもならないですね)。

(上記クリスティーズのページより)


(※)1572年から1617年にかけて全6巻で出た、Georg Braun とFranz Hogenberg の『Civitates Orbis Terrarum(世界の諸都市)』からの一枚。

羊飼いの暦2024年12月19日 05時57分51秒

「羊飼いの暦」という言葉をネットで検索すると、真っ先に出てくるのがシェイクスピアと同時代の英国の詩人、エドマンド・スペンサー(c.1552-1599)の 詩集『羊飼いの暦』(1579)です。

しかし、今回話題にするのは、それとは別の本です。
学匠印刷家のひとり、ギー・マルシャン(Guy Marchant、活動期1483-1505/6)が、1490年代にパリで出版し、その後、英訳もされて版を重ねた書物のことで、英題でいうとスペンサーの詩集は『The Shepheardes Calender』で、後者は『The Kalender of Shepherdes』または『The Kalender and Compost of Shepherds』という表記になります(仏題は『Le Compost et Kalendrier de Bergiers』)。

マルシャンの『羊飼いの暦』は、文字通り暦の本です。
当時の常として、暦にはキリスト教の祝日や聖人の縁日などが細かく書かれ、さらには宗教的教訓詩や、星占い、健康情報なども盛り込んだ便利本…のようです。想定読者は文字の読み書きができる人ですから、その名から想像されるような「農民暦」とはちょっと違います(この「羊飼い」はキリスト教でいうところの司牧、迷える民の導き手の意味と思います)。

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暦や占星への興味から、マルシャンの『羊飼いの暦』を手にしました。

(1493年パリ版)

もちろん本物ではなく、1926年にパリで作られた複製本ですが、複製でも100年近く時を経て、だいぶ古色が付いてきました。


一般民衆向けの本なので、言葉はラテン語ではなく、日常のフランス語です。…といっても、どっちにしろ読めないので、挿絵を眺めて楽しむぐらいしかできません。我ながら意味の薄い行為だと思いますが、何でもお手軽に流れる世情に抗う、これぞ良い意味でのスノビズムではなかろうか…という負け惜しみの気持ちもちょっとまじります。


さて、これが本書の眼目である「暦」のページ。
読めないなりに読むと、左側は10月、右側は11月の暦です。冒頭の「RE」のように見える囲み文字は、実際には「KL」で、各月の朔日(ついたち)を意味する「kalendae」の略。そこから暦を意味するKalender(calendar)という言葉も生まれました。

(12月の暦よりXXV(25)日のクリスマスの挿絵。こういうのは分かりやすいですね)


これは月食の時刻と食分の予測図でしょう。


星を読む男。


占星学の基礎知識もいろいろ書かれていて、ここでは各惑星が司る事柄が絵入りで説かれています。左は太陽(Sol)、右は金星(Venus)。


何だか謎めいていますが、たぶん天象占い的な記事じゃないでしょうか。


身体各部位を支配する星座を示す「獣帯人間」の図。


これも健康情報に係る内容でしょう。


恐るべき責め苦を受ける罪人たち。最後の審判かなにかの教誨図かもしれません。

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印刷術の登場により情報の流通革命が生じ、世の中が劇的に変化しつつあった15世紀後半の世界。

それでも庶民の精神生活は、キリスト教一色だったように見えますが、庶民が暦を手にしたことで、教会を通さず自ら時間管理をするようになり、そして星の世界と己の肉体を―すなわちマクロコスモスとミクロコスモスを―自らの力で理解するツールを手にしたことの意味は甚だ大きかったと想像します。

その先に「自立した個の時代」と「市民社会」の到来も又あったわけです。

いつもの例の話2024年11月10日 14時26分53秒

うーむ…と思いました。
いつもの天文学史のメーリングリストに今日投稿された1通のメッセージ。

 「私は 1955 年 9 月号から 「S&T(スカイ・アンド・テレスコープ)」誌を定期購読しており、「S&T DVD コレクション」に収録されている 2010 年以前の号(厚さにして12フィート分)は、紙の雑誌の方はもはや不要なので、送料さえ負担してもらえれば、すべて寄付したい思います。どこかでお役に立てていただけないでしょうか?」

今やどこにでもある話で、その反応もある程度予想されるものです。

A氏 「あなたのS&Tに早く安住の地が見つかりますように。私の手元にある某誌もずっと寄贈先を探しているのですが、うまくいきません。」

B氏 「数年前、私は S&T やその他の天文雑誌を、すべて UNC の学部生に譲りました。私は天文学部の教授である隣人を通じて彼と知り合いましたが、何でもオンラインでアクセスできる今の時代、そのようなもののハードコピーを欲しがる人を見つけるのは本当に大変です。幸運を祈ります!」

C氏 「私が退職したときは、ケニアで教えていた同僚が、私の歴史ジャーナルのコレクションを、自分が教鞭をとっていた大学に送ってくれました。海外とご縁があるなら、同じことを試してみてもいいかもしれませんね。」

D氏 「数年前、私もS&T について同様の状況に直面し、ずっと受け入れ先が見つからなかったため、結局、観測関連の記事だけは切り抜いて、将来の観測に備えてバインダーに保存することにしました。残念ながら、それ以外のものは一切合切、地元の古紙回収ステーションに出さざるをえませんでした。」

そう、表現はさまざまですが、要するに皆さん異口同音に言うのは、「それはもうただのゴミだ!」という冷厳な事実です。まあ、私は決してゴミとは思わないんですが、世間一般はもちろん、天文学史に関心のある人にとっても既にそうなのです。それに、かく言う私にしたって、「じゃあ送料はタダでいいから、あなたのところに送りましょう」と仮に言われたら、やっぱり困ると思います。

(eBayでも大量に売られているS&Tのバックナンバー)

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ただ一つのポジティブなメッセージは、アマチュア天文家にして天文学史に造詣の深いロバート・ガーフィンクル氏(Robert〔Bob〕Garfinkle)が寄せたものでした。

 「私の S&T 誌のコレクションは、前身である「The Sky」と「The Telescope」誌にまで遡ります。私も会員になっているイーストベイ天文協会の友人から、シャボット・スペース&サイエンスセンターが、製本済みのS&Tを処分すると聞いたとき、私の手元には、ほぼ完全な未製本雑誌のコレクションがありました。シャボット から譲られたのは第 1 巻から第 67-68 巻 (1984 年) までで、その間の未製本雑誌はすべて箱詰めしてあります。製本済みの方は、約 7,000 冊の天文学の本、いくつかの天文学の学術誌の全巻、数十枚の月面地図、1800 年代から今日に至るまでの数百枚の月写真、そしてローブ古典文庫の約 3 分の 1 の巻とともに、今も私の書庫の棚に並んでいます。
 なぜこんなにたくさんの本を持っているのかと何度も尋ねられました。その答は、私が原稿を書くのは夜間であり、ほとんどの図書館は夜には閉まっているからです。それに私の手元には、どの図書館も持ってない珍しい本が何冊かあります。そのうちの1冊は、これまで2冊しか存在が知られておらず、私の手元にあるのは、まさにそのうちの1冊なのです。」

いくら夜間に執筆するからといって、DVD版も出ている今、紙の雑誌を手元に置く理由にはならないですが、ガーフィンクル氏がこう言われるからには、氏にとって紙の雑誌には、デジタルメディアで置き換えることのできない価値が確かにあるのでしょう。

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遠い将来、人間の思念が物質に影響を及ぼすことが証明され、さらに物質上に残された過去の人々の思念の痕跡を読み取ることができるようになったら、そのとき紙の本はたとえようもない貴重な遺産となるかもしれません。

しかし、そんな遠い未来を空想しなくても、私は古い紙の本を手にすると、ただちに元の持ち主の思いを想像するし、それが読み取れるような気がすることさえあります、そのことに価値を感じる限り、紙の本はこれからも私の身辺にあり続けるはずです。