再び理科室の歴史について(5)2006年10月05日 00時14分27秒


(京都市淳風尋常高等小学校の理科教室。昭和6年頃の絵葉書)

今日も青木正夫著 『建築計画学8(学校Ⅰ)』 の続きです。今日は短いので全文引用です。

■大正末年~昭和戦前■

「その後、理科教育は自然科学の精密な究明へと向かっていく傾向をもち、生活経験をはなれた科学の体系に沈むようになったため、もっぱら分科化の方向をたどっていった。

これが小学校の理科教室のとられ方にも影響し、経済的に余力のある学校では、理化室と博物室あるいは物理室と化学室とを分けてとるようになった。

大正14年に発表された東京市訓導協議会の手になる特別教室の仮想設計にも、この傾向がうかがわれ、また当時建った東京市のいくつかの小学校にも分化してとっている。

昭和期に入ると、理科教育を生活化しようとする General Science の思想が起こったが、満洲事変を経るとともに日本精神運動が隆盛に向かい、自然科学軽視の風潮となって理科教育は沈滞していった。

この傾向の反省が戦局が進むとともに起こり、昭和16年国定理科書の全面的改訂を行ない、模倣を排し創意を重んじ、実験と観察を強調し、理科教育の進歩においてかなり本質的なものを合んでいたが、一面では、西欧文明に対する極端な排他主義で神がかり的な日本理科が提唱された。しかも物資不足に悩まされていた時期ゆえ、理科教室はむしろ滅少の方向をたどり終戦へと至った。」

大正末年から昭和にかけては、理科室の「爛熟と衰退の時代」だったと言えるでしょう。

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以上、青木氏の文章に拠って、終戦までの理科室の歴史をたどりました。理科室は戦後も、理科教育振興法の制定や、学習指導要領の改正などを受けて、独自の展開を遂げたはずですが、その辺は今後の宿題とします。(先回りして名づければ、戦後は「復興と画一化の時代」と呼べるような気がします。)

とりあえず、モヤモヤしていた霧が晴れて、胸がスッとしました。
理科室の「見巧者」にまた一歩近づけたような気分です…