図鑑史逍遥(5)…『普通植物図譜』と『有毒植物図譜』2013年10月11日 20時53分49秒

村越の仕事の変化を見るために、明治39年(1906)、彼が最初に出した『普通植物図譜』の第1巻から、さらにいくつか図を掲げます。
 
(サンシキスミレ 第1集)
 
(ヒマワリとタンポポ、第6集)
 
(ミヤマスズメノヒエとヌカボシソウ、第12集)
 
(ゼニゴケとジャゴケ、第12集)
 
(同拡大)
 
(ゲジゲジシダとトラノオシダ、同)
 
(マツヨイグサとオオマツヨイグサ、第2集)
 
(同拡大)

(ソラマメとヤブマメ、第12集)

下手とは言いません。むしろ上手いと感じる絵もあります。しかし、立体感の乏しさ、絵の平板さという点では共通しています。

   ★

次に、明治41年(1908)に出た『有毒植物図譜』を見てみます。
こちらは1冊こっきりのものですが、体裁はB5版で共通。
発行は、『普通植物図譜』の方が「京橋区北槇町2番地 参文舎」になっていましたが、『有毒植物図譜』では「篠崎純吉」という個人名になっています。ただし、住所は同じなので、発行元もこれまた同じなのでしょう。
 
(ヤツデ、サツマフジ、コショウノキ、オニシバリ)
 
(同拡大)
 
(シュロソウ、ヒガンバナ、キツネノカミソリ、ツクバネソウ、スイセン)
 
(ミズバショウ、ユキモチソウ、マムシグサ、テンナンショウ、ムサシアブミ)

どうでしょう。こちらはちゃんと「図鑑の絵」に見えます。色彩や葉の光沢表現も自然ですし、立体感にも富んでいます。
さらに分かりやすいところで、植物の「根」の表現を比べてみます。
 
(『普通植物図譜』第1集より、タネツケバナの部分拡大)
 
(『有毒植物図譜』から、ナベワリの部分拡大)

これが同じ作者の絵かと疑うほどですが、その多くは印刷技術の進歩に負っているのでしょう。現物を見てないので断言はできませんが、同じ時期に並行して出ていた『普通植物図譜』の後期の巻も、同様の水準に達していたのではないでしょうか。

『普通植物図譜』刊行当時の状況を、俵氏は前掲の『牧野植物図鑑の謎』で、こう書いています。
 「東京に出てきた村越は、植物図鑑を発行してくれそうな出版社を探したが見つからないので、自費出版を考え「東京博物学研究会」という組織をつくり、京橋の木挽町に家内工業のような石版印刷工場を設けた。そして植物図鑑の解説文を書くことは埼玉師範の同級生で親友の高柳悦三郎(後年の昭和初期には埼玉県久喜高等女学校長)にも依頼し、村越は野山をかけめぐりながら植物標本を採集し、石版工場の二階を写生室として植物画の制作にあたった。」(p.79)

ほとんどゼロから手探りで始めた<原色図鑑>の刊行事業でしたが、それが誕生からごくわずかの間に、長足の進歩を遂げたという事実は、当時の印刷事情を考える上でも興味深く思います。