冬のミルキーウェイ2014年12月01日 06時06分59秒



オリオン、おうし、こいぬ、ふたご、ぎょしゃ…
冬の空をゆったりと流れる乳白の川。

いよいよ今日から12月。
せわしない日常の中にも、静かな時間を大事にしたいです。

(写真は少し以前に antique Salon さんで購入した幻灯スライド)

異界百物語2014年12月02日 21時27分26秒

桑原弘明さんのスコープ作品展が今月13日から始まります。


■桑原 弘明 展
〇会期 2014年12月13日(土)~27日(土) (日曜・祝日は休廊)
      11:00~18:30 (公開時間 13:30、15:30、17:30)
〇会場 GALLERY TSUBAKI
     東京都中央区京橋3-3-10 第1下村ビル1F
     MAP http://www.gallery-tsubaki.jp/access.html

以下DMより。
 「今回の展覧会におきましてScope作品が100個となります。記念展といたしまして、新作と2006年以降の作品をご覧いただけます。旧作につきましては、日替わりで限定公開いたします。この機会に是非、桑原弘明のScopeの世界をご堪能ください。」

   ★

氏の作品を前にするとき、人は魔術師めいた技巧に驚き、その幻想性に酔います。
とても人の手が作ったとは思えない極小の世界。
謎をはらんだ、「ここ」とは異なる世界が、美しい匣の奥にどこまで広がっている感覚。
本当にめまいがするようです。

氏の手わざになる驚異の「異界」が、ついに100個に達したと伺い、呆然とするほかありません。形而下のことに限っても、その道程にあったであろう細かな作業を想像するだけで、気が遠くなります。

   ★

私が氏の作品を、自分の目で覗き込んだのはこれまで一度きりです。
しかし、その印象は鮮烈でした。

覗き込む―。そう、氏の作品は眺めるのではなく、覗き込むものなのです。
上の展覧会の案内で、展示時間と別に「公開時間」が設けてあるのもそのためです。
そして、私が氏の作品に惹かれるのは、上で述べたことに加えて、この「覗き込む」という行為に、“何か”を感じるからです。

これを「窃視」と言うと、ただちに犯罪とか、病理を感じさせます。実際、乱歩の「屋根裏の散歩者」は、天井の節穴から他人の生活を覗き込み、ついには一種の好奇心も手伝って、節穴を通して殺人を犯すに至りました。

しかし、犯罪や病理というのは、おしなべて人間の性(さが)に根ざすものであり、「覗き込む」こともまたそうではあるまいか…という気がします。子供の頃の障子穴の思い出、古びた覗きからくり、望遠鏡、顕微鏡、写真機…。端的に言えば、覗き込むことは、それ自体が「快」であり、愉悦をもたらすものではないでしょうか。

覗き穴は「こちらの世界」と「別の世界」をつなぐ装置であり、居ながらにして別の世界を体験することを可能にします。そして、小さな穴を通して別の世界を覗き込むとき、その視界からは自己という存在が消え、そこにあるのは純粋に「目」だけです。いわば身体性の消失。それがまた心地よいのかもしれません。

   ★

「しかし、もし…」と、ここでもういっぺん話を引っくり返しますが、もし、私という存在が、一塊の脳髄に過ぎないのであれば、私は街を歩くときも、書斎でキーを叩くときも、ベランダから星空を眺めるときも、実は虹彩に穿たれたわずか数ミリの穴を通して、異世界を絶えず覗き込んでいるのかもしれません。

「すなわちこの世界そのものが、1個のスコープ作品なのだ!」
…と、あんまり話を膨らませ過ぎると、何だか訳が分からなくなりますが、氏のスコープ作品を前にするとき、我々はヴィジョンとイリュージョンの秘密へと、否応なく誘われるのです。



スパーク3秒前2014年12月03日 20時36分03秒

はやぶさ2、まずは無事に船出できて良かったです。
どうか航海が平穏でありますように。

   ★

一時、古い理科室の絵葉書をよく買っていました。
何せ資料が乏しい分野なので、一次資料として絵葉書は非常に貴重だからです。
とはいえ、無限にバリエーションがある被写体でもないので、ここしばらくは勢いが弱まっていました。

しかし、この絵葉書はパッと目に付きました。


誘導起電機を実際に操作している場面です。

戦前の理科室の王、さらに金・銀・飛車・角に相当するのは、人体模型、骨格模型、ニュートンの七色回転盤、それにこの誘導起電機だ…というようなことを、前に書いた覚えがあります。

後の二つ(七色回転盤と誘導起電機)は、今の理科室では非常に影が薄いですが、昔の理科室絵葉書への登場頻度は目立って多く、当時の人は、この2つを理科室のシンボルと考えていたフシがあります。
しかし、それらはオブジェ的に登場するだけで、実際に操作している場面が絵葉書になっていることは稀です。というか、初めて見ました。



皆真剣ですね。「固唾をのんで見守る」とは、こういうのを言うのでしょう。
先生の手つきも慎重です。

そして、皆さんも子供たちに負けずに、じっと画面を覗き込んでください。
この場面には、もう一つ或る特徴があることに気づかれましたか?

(この項つづく)

スパークは大地を照らし2014年12月04日 21時17分31秒

(昨日のつづき)


昨日の絵葉書の特徴とは何か。
女の子の服装からパッと分かった方もいらっしゃるでしょうが、これは内地の光景ではありません。

絵葉書の裏面を見てみます。



一目見るなり、「ああ満州か…」とつくづく思いました。

満州、幻の帝国。
欲望と憧れが渦巻いた巨大な実験場。


「次代の満州を背負って立つ満系の子供達は、いまたくましい知識欲に眼を輝かし万里の沃野に体を鍛へ、そして建国精神を修め学業にいそしみつゝある。国民学校とは日本の小学校に当る。」

満州の建国宣言は1932年で、日本の小学校が「国民学校」と改称されたのは1941年(昭和16)ですから、この絵葉書はその間のものということになります。

(首都新京にそびえた帝冠様式のビル・三菱康徳会館。
1935年の新築の際に配られた記念品。)

   ★

満州国の存在自体は、日本の国策が生んだ奇態な徒花という他ありません。
また、理科教育がその社会的文脈から完全に自由でいることもできないでしょう。
しかし、物理法則はそれを超えて存在し、条件さえ整えば、静電火花はいついかなる所でもはげしく散り、それを押しとどめることはできません。
「そこにこそ世の真理がある」…と気づいた少年少女は幸いなりと言うべきでしょう。

真理の火花2014年12月05日 19時10分23秒

昨日の記事は論旨が不明瞭だったと思います。
もう一遍表現を整理すると、

起電機からスパークする静電火花は、時空を超えた真理を体現している。
奇怪な国策も、人間の欲望も、その真理の前では、一瞬の火花に過ぎない。
理科教育とて、
国策から自由ではいられないけれども、
それが個人の中で、より大きな真理へと至る契機となってほしい。

…ということで、最後のは、いわば願望ですね。
(そして、大回りしてぐるっと一周してくると、「奇怪な国策」や「人間の欲望」も、やっぱり真理の一断面だったと悟るに至るかもしれませんが、前途ある少年少女が、そこまで急いで枯れる必要もないでしょう。)

さて、ここで「満州もの」を続けて見たい気もしますが、写真が間に合わないので、それは後回しにして、別の記事に続きます。

世界の果てへ2014年12月05日 19時12分14秒

ときどき、人はふっと遠くに行きたくなることがあります。すべての日常を捨て、無限の彼方に消え去りたいような気持になることが。私が…というよりも、一般論として、そういうことはあると思います。

それが夢想にとどまらず、現実に失踪する人もいて、今だと精神医学的枠組みで解釈されることが多いのでしょうが、昔は主に宗教的文脈(回心と遁世)、あるいは超自然的文脈(神隠し)で語られました。

人はなぜ遠い世界を目指すのでしょう。
理由は分かりませんが、そうせねばならぬという、理性を超えた衝動が人の心の中に潜んでいるのは確かです。


1920年代と思われるガラススライド(ドイツ製)。幻燈の種板です。


アルゼンチン南部の海を群れ飛ぶカモメ。
真っ青な空、真っ青な海―。

もうこの先には南極大陸しかありません。
何だか切ない光景だし、寂しい光景でもあります。

でも、これを見ていると、「世界の果てへ…世界の果てへ…」と、微かに気持ちが疼くのをふと感じます。

世界の果てへ(2)2014年12月06日 11時15分59秒

ぐんと底冷えがすると思ったら、とうとう雪が降りだしました。
ずいぶん早い初雪です。

   ★


20世紀初頭の手彩色のガラススライド。
元はストーリーを構成していた1枚でしょうが、今となっては、どんなプロットだったのか全く分かりません。


夜の大氷原を歩く一人の男。
極地探検者のようにも見えますが、それにしては、あまりにも軽装です。
なんだか謎めいた光景ですが、今の私にはひたすら世界の果てを目指して彷徨する姿に見えます。

世界の果てへ(3)2014年12月07日 09時06分32秒

誰もいない海岸。
誰も見上げる者のない星空。
大空をよぎる円弧に日光がきらきらと照り映える壮麗な夜明け(あるいは夕暮れ)。


かつて土星には海があり、山があり、雲があると想像されていました。
19世紀人の脳裏にのみ存在した、哀しいまでに美しいイメージ。

世界の果てを目指した人は、この海岸に至り、波打ち際に腰を下ろしたとき、心底安らぎを覚えたことでしょう。
ここには完璧な静寂があり、絶対的な孤があり、そして永遠がある。

   ★

最近、ガラススライドをちょくちょく買います。


現実と非現実のあわいに広がる別世界。
真の世界の果ては、ひょっとして固く脆く透明なプレートの向こうにあるのかもしれません。

世界の果てへ(おまけ)2014年12月07日 19時53分55秒

世界の果てを目指して、土星まで行きました。
世界はさらにその向こうに、限りもなく続いているので、当然、土星で一服した後、人はさらにその先を目指すのでしょう。でも、どこまで行っても、やっぱり来てみれば さほどでもなし 富士の山」かなあ…という気も一方ではします。

昔、「この宇宙には中心も、果てもない」と本で読みました。
裏返せば、すべての場所が中心であり、果てでもあるのでしょう。
また別の本には、「無限の彼方まで見通せる望遠鏡があれば、自分の後頭部が見えるはずだ」とも書かれていました。

今、この場所が世界の果てなんだ…と考えることは、ちょっと気分がいいものです。

世界の果てを極めた者として言わせてもらえれば、世界の果ては意外に賑やかで、ゴミゴミしているところです。来週には、世界の果てで選挙が行われるそうで、世界の果ての民も、いろいろ忙しそうです。

海の星2014年12月08日 06時19分42秒

ちょうど1年前、ヴァチカンの『禁書目録』の記事を載せたことがあります。


あのときは、特定秘密保護法に対するプロテストの意味合いがありました。
その流れは依然続いていますが、現政権の危うさや綻びについては、だんだん世間の人の口の端に上るようになってきました。人の口に戸は立てられぬものです。

と言って、今日は特に政治向きの話ではなくて、例の本から思い出したことがあるので、ちょっとそのことを書きます。

   ★

海星学園とか、海星高校とか、「海星」を名乗る学校が日本各地にあります。
海星(かいせい)を訓読みすれば「ヒトデ」。


名は体を表す例で、ヒトデはまさに海の星ですね。
でも、「ヒトデ学園」とか「ヒトデ高校」というのは、学問の府の名称としてちょっとどうかなあ…と心の隅に引っかかっていました。

もちろん、これは私の無知によるもので、「海の星」すなわち英語の“Star of the Sea”、あるいはラテン語の“Maris Stella” は、聖母マリアの象徴であり、その異名だということは、検索すればすぐに分かります。したがって、「海星」を名乗るのは、カトリック系の学校ということになります。

上のことを知ったのも1年前で、なぜ知ったかといえば、手元の『禁書目録』の旧蔵者が、スコットランドにあるカトリック教会、聖母海星教会(St. Mary’s Star of the Sea)だったからです。


   ★

下の箱を見て、そのことを思い出しました。


真ん中に鎮座するのは、まごうかたなきヒトデ。
Seestern、英語でいえば Sea Star、すなわち「海の星」で、ドイツ語で「海の星」と言えば、やっぱりヒトデのことなんだなあ…と、何だかちょっと安心しました。

ゼーマン社はライプツィヒにあった写真・幻灯機材のメーカーです。
Seemann」は経営者の姓で、日本ならさしずめ「海士(あま)さん」。そして、会社の所在地が「Sternwartenstrasse シュテルンヴァルテンシュトラッセ」、すなわち「天文台通り42番地」(素敵な場所ですね。きっと近くのライプツィヒ大学に関係するのでしょう)。

ヒトデの周囲には、「ハイデルベルグ賞銀牌」とか、「ライプツィヒ賞銀メダル」とか、その受賞歴がにぎにぎしく掲げられていて、きっとゼーマン社長は陽気で派手好きな人だったんじゃないでしょうか。

「そやなあ、ワシが海で、場所が星にちなむやろ。合体させたらヒトデやがな。よっしゃ、トレードマークはヒトデでいくでえ!」…というわけで、会社のトレードマークはヒトデ(たぶん)。


この「陽気で派手好き」というのは、箱の中身にも感じることで、次回は中身を見てみます。

(この項つづく)