月遅れの七夕に寄せて:七夕和歌集(前編)2017年07月29日 12時46分08秒

アブラゼミに続いてクマゼミも鳴き出し、煮えるような暑さです。

汗を拭きながら出勤する途中、緑の濃いお宮の脇を通るのですが、その境内の片隅に、大きな「忠魂碑」が立っています。その表面につかまる物言わぬ蝉の抜け殻を見ると、もうじき訪れる8月のことをボンヤリと考えます。 (以下、「閑語」につづく)

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7月ももうじき終わりですが、バカンスと称して、記事の方を一服したせいで、今月は七夕に関する話題がひとつもありませんでした。でも、さっき暦を見たら、今年は「閏5月」が挟まったおかげで、旧暦7月の到来も後ろにずれて、8月27日が旧の七夕だそうです。では昨年は…というと、去年は8月9日が旧の七夕でした。

こういう風に、年によって年中行事の日取りが大きく前後にずれてしまうので、「旧暦の方が自然の季節感にフィットしている」というのは、全くの誤解です。

太陽と地球の位置関係(=季節のめぐり)を考えると、毎年ほぼ同日に、夏至や冬至、春分や秋分を迎える太陽暦の方が、よほど季節に忠実です。

ただ、旧暦の日付けで催していた季節行事を、そのまま新暦で強行すると、いろいろ不具合が出て、「新春」の正月行事を、冬の真っ最中に祝ったり、「初秋」の行事である七夕を真夏の、しかも梅雨時明け前に行うというような、いかにも不自然な結果になります。

いっそ、月遅れのお盆(8月15日)のように、旧来の行事は全部月遅れで行うことにすれば、季節感の点では問題ないのでしょうが、「7月7日」のように、“ゾロ目”に有難味がある行事だと、それも難しいかもしれません。

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月遅れの七夕を前に、こういう便利な本があることを知りました。


吉田栄司(編)、『七夕和歌集』(古典文庫 第559冊)、平成5年
(なお、古典文庫という一大叢書については、こちらに解説があります)

七夕を詠んだ古歌のアンソロジーは、『七夕星歌抄』『二十一代集七夕哥寄』をはじめ、江戸時代に繰り返し編纂されており、それらを一書にまとめて翻刻し、さらに索引を付したのが本書です(和歌の他、『新撰七夕狂歌集』のような近世の狂歌集も一部含まれます)。

(口絵および目次)

気になる歌に付箋を貼りながら読んでみたので、そのことをメモ書きしておきます。

(この項つづく)

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▼閑語(ブログ内ブログ)

(冒頭のつづき)
死とは厳粛なものでしょう。しかし、数に還元された死となると…

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  私達は食用蛙です!
  クロツケ
  クロツケ
  泣け! 叫べ!
  〔…〕
  人間の屠殺だ!
  レケロ
  レケロ
  〔…〕
  卓上の噴水! 赤灯! 黄色の円――納棺だ!
  「万歳!」「万歳!」
  「ウラー!」――死人の山だ!

ダダイスト詩人の萩原恭次郎は、かつてこんな激烈な反戦詩を書きました。こうなると、もはや尊厳も何もありはしません。繰り返しますが、死とは厳粛なもののはずです。その意味で、私には「靖国」という、およそ本来の神道とは程遠い、近代国家の発明品が、至極不真面目なものに思えるのです。

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昨日の朝日新聞を開いたら、「平成と天皇―首相経験者に聞く」と題して、鳩山元総理のインタビューが載っていました。その中で、鳩山さんは首相として内奏に臨んだ思い出をこう語っています。

 「陛下が、皇太子時代に美智子さまと訪れたアフガニスタンで自爆テロが頻発していることについて、『自分の命を失うことで天国に召されると信じている人びとに、自爆テロをやめさせるにはどうすればいいんでしょうか』とおっしゃったことがある。『若者を過激なイスラム主義に追いやっている貧困に手立てを講じることが、結果的に自爆テロをなくす道につながるのではないでしょうか』と申し上げたが、難しい問いに言葉に詰まった」

このとき天皇の脳裏には、かつての日本のことも同時に浮かんでいたのではないか…という疑念を私は持ちます。現天皇はまことに肝の据わった人で、そのリベラルな思想と相まって、私は大いに好感を持っていますが、さらに上のような問題意識を常に持っているとしたら、いよいよ立派な人物であり、ここはむしろ天皇自らの答を伺ってみたい気がします。

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8月の空を見上げて、忠魂の「忠」の意味合いを、私は通勤の度に考えるでしょう。

コメント

_ S.U ― 2017年07月29日 18時41分41秒

「戦争責任」や「靖国」を問題にする時、それなら「特攻や玉砕で無くなった兵隊さんは無駄死にだったと言うのか」と反論する人がいます。これらの亡くなった人たちを「無駄死に」とすることも「靖国の神様」とすることもどちらも両極端に過ぎると思います。およそ、意味のある職務命令に忠義によって応え亡くなった方は、特攻であれ、殉職であれ、労災であれ、過労死であっても、無駄死にであろうはずがありません。ただ、その職務命令に失策や違法性がなかったか、道義上の問題がなかったかと厳しく問われることは当然のことで、ここで問題があれば、命令を発した人は罰せられ、徹底的に謝罪しなければなりません。日本では、政府が国民にお詫びらしきことを一度もして来なかった、外国に詫びても日本人には詫びなかった、天皇が終戦の日にお詫びらしい言葉を述べることも禁じていた、という筋の通らないことから、いまだに靖国の神が生き残っているのだと思います。空襲や原爆や沖縄戦で非戦闘員や子どもまで巻き込んだことを考えると、到底詫びて済む問題ではありませんが、とにかく、日本政府が国民に詫びることさえないということに深い罪障を感じます。これでは、本当に日本が戦後から立ち直る日は来ないでしょう。

 今の天皇の気持ちを忖度することは避けたいと思いますが、そもそも天皇とは軍の総帥ではなく民の安寧を祈る立場であり、さらには象徴天皇の新しい存在意義を考えることが、実施されなかった政府のお詫びに代わる戦後の反省と再出発になるとお考えになったことは間違いないと思います。

_ 玉青 ― 2017年07月30日 08時35分18秒

「無駄死にだったと言うのか」「そう、残念ながら。だからこそ、そんな死を強いた者の責任を強く問わねばならないんだ」…と、若い頃の私は考えていました。

でも、そんなふうに「無駄死」とか、「犬死」とか、あるいは「崇高な死」とか、死を何らかの物差しで上下に価値付けること自体、不遜な振舞いなのだと今は思います(「いたましい死」や「穏やかな死」はあると思います)。誰にとっても、死とは厳粛なものです。そして、厳粛さをもてあそぶようなことこそ、非難されねばならないと思います。
私は靖国にもその気配を感じており、あの社殿を見ると、何となく「お為ごかし」という言葉を連想します。

_ S.U ― 2017年07月30日 09時51分26秒

ちょっと脱線しますが、昨日今日の報道で、北朝鮮のICBM?のニュースを見て感じたことがあるので書きます。

 最近の北朝鮮で、核開発とロケット開発がめざましく進んでいるのは、ある意味で、日本でかつて優秀な技術者によってゼロ戦などの戦闘機が開発され、米国など列強を戦慄せしめたのと同様の現象ではないかと思います。現在の北朝鮮では、よほど優れた科学者技術者がいて、指導者による彼らの「待遇」がうまくいっているだと思います。私は、科学技術の成果、特に、原子核核反応やロケットの知識を大量殺戮に用いることは、北朝鮮であれ別の国であれ常に絶対に反対です。しかし、かつての日本が西洋列強による世界の制空を阻止するためにゼロ戦とその軽業的な生命を賭した操縦法を開発したことを評価するのであれば、北朝鮮の核抑止の論理と現実もそれなりに素直に評論すべきではないかと思いました。その核抑止自体、米ソが冷戦時代に考案したアイデアで、日本は被爆国でありながら、現在でもこの考えに固執している骨董品のような国ですので、この点では目くそ鼻くその類です。

 科学技術の進歩を率直に受け止めるならば、NPT体制による核抑止など必ず破綻するものであることは一見明白であると思います。国際的な北朝鮮の非難はけっこうですが、日本のそれは科学史的に見ると説得力がゼロにように思えるのが悲しいです。

_ 玉青 ― 2017年08月01日 20時36分04秒

論理的に貫徹するとそうなりますよね。
そもそも北朝鮮を声高に非難する人の心中はすこぶる分かりにくいです。人権の徹底的な抑圧、個人崇拝に基づく独裁体制、警察国家、覇権主義…もし、そういったものに非を唱えるのであれば、自らはその逆の信条を抱き、態度で示さないとおかしいはずですが、少なくとも政権とそのシンパがやっていることは真逆です。何だか筋が通らないぞと思います。

_ S.U ― 2017年08月02日 07時36分11秒

 そうですね。

 それから、戦争からは離れますが、ふだんから新自由主義経済だの市場競争だのと唱えている政治家と企業経営者が、実は政財界の癒着や補助金行政にすがって身を立てているのも腑に落ちません。

_ 玉青 ― 2017年08月05日 18時21分41秒

まこと筋の通らぬことが多いですね。
たまには蕗でも食って真人間になれ…と言ってやりたいです。

_ S.U ― 2017年08月06日 06時36分50秒

>筋の通らぬ~真人間になれ
 人に「○○をやれ」と言いながらも自分は○○をやっていない、ということ自体はよくあることで、それが意思の弱さによるものであったり、世間のしがらみや諸般の事情によって立場上○○が実施できないというのであれば、他人はそれを残念と感じても、筋が通らないとか真人間でないとかまでは感じないものです。

 これらの人がいかんのは、これらの人はそもそも○○をやる気が始めからなく、それもそもそも○○を目指しているわけですらないのに、○○を支持していないということが明瞭になると社会的信用を落とすので、かけ声だけ○○支持を他人を批判する形でおこなっている、こういうところが真人間から外れているように感じられるのでしょう。

 (今回の例では、上の○○に、「民主主義の推進」とか、「機会均等の自由経済の実現」などを入れてください。「岩盤打破」を目指しているように見せかけて実は「お友達限定」というのもこれの類型です。)

_ 玉青 ― 2017年08月06日 18時05分26秒

老荘の説く「真人」の位は遥か遠けれど、何とか「真人間」に、いや、せめてもうちょっと「まともな人」になってほしいですね。
…とはいえ、七夕からだいぶ遠いところまで来ましたので、この件はひとまずこの辺で収束させましょう。

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