離見の見(りけんのけん)2018年05月16日 20時44分07秒

最近、とみにブログが書きにくくなっていて、記事の更新もままなりません。
以前は、こんな理由でブログが書けなくなるとは、想像もしていなかったので、本当にビックリです。

それほどまでに自分を苦しめている、意外な伏兵とは何か?
――それは「老眼」です。

こうしてディスプレイの前でシャカシャカやっていますが、実はディスプレイ上の文字は、ボンヤリとしか見えていません。近視と老眼が同時に来ると、本当に厄介です。先日、眼鏡を作り替えたとき、「遠近両用はどうですか?」と店員さんに勧められたのですが、そのときはまだ普通に見えていたので、あっさり断わりました。でも、それから3か月も経たぬうちに、これほど症状が進行するとは、かえすがえすもビックリです。

   ★

これは視力の低下という、自覚しやすい現象だから、自分でもはっきり分かりますけれど、それ以外にも、自分では気づかない衰えが、今もいろいろ同時進行しているのだろうなあ…と思うと、その先にある<生の終末>を、嫌でも意識しないわけにはいきません。

それにしても、歩行とか、記憶とか、思考とかも、こんな風にガクンとくるものなんでしょうか? 

   ★

まあ、老眼ぐらいで、こんな風に死ぬの生きるのと騒ぎ立てるのも、みっともない話で、さっさと老眼鏡を買いに走ればいいのですが、それまでちょっと記事のほうは間遠になります。




コメント

_ S.U ― 2018年05月17日 06時46分14秒

玉青さんは、遠近「両視」ですか。ご不便でしょうね。
 私は、例の3D訓練本のおかげで遠視は進みましたが近視は治りました(←くどいことに、まだそう信じている)。老眼を治す訓練があってもよさそうなものですが、そうはいかないのでしょうね。ビデオゲームのやり過ぎとか老眼が治るならいいのですが、できれば実験してみたいと思っています(笑)。

>歩行とか、記憶とか、思考
 いちど膝や腰を痛めて、半年くらい力を込めて歩けなくなると、足の筋力がガクッと落ちますね。でも、これは歩かなくても行えるリハビリや筋トレで何歳になっても復活可能です。記憶についてもそうなのでしょう。
 思考についてはよくわかりませんが、もういっぽうのコメントのほうで関係ありそうなことに触れてみたいと思います。

_ Nakamori ― 2018年05月17日 17時28分05秒

目が弱ってこられたとのこと、よく理解できます。私も同じだから
です。また、弱ってきたと感じるのは目だけに止まらないのでは、
と推察いたします。私は視野がボケるのと比例して脳みそまでボケ
てきたように感じています。

仕事柄パソコン作業が多く、今春に中近両用眼鏡を導入しましたが、
焦点が合う範囲が狭く、使いこなすのは結構難しいですよ。個人差
があると思いますが、使わなくなってしまう人も多いかもしれません。

昨秋、知らない土地をバイクで旅行するのに合わせて携帯をガラ系
からスマホに替えたのですが、夜、スマホの地図で現在地を確認し
ようとしたところ画面が見えませんでした。もちろん老眼なのですが、
夜目が利かなくなっていたのです。初めて、自分の居場所が確認で
きない不安に襲われました。

つい先週、白内障を疑い、眼科にて調べてもらいました。先生は
「白内障はならない人はいないんだよね」と言いつつ診察。…で結
果は「年相応ですね」とのこと。「見えにくくなったらメガネ掛けて。
それでも見えなくなってきたら手術ですね」、とのこと。「加齢で当然
の経過」のように診断され、「もうちょっと優しく説明して下さいね」、
と心の中で愚痴りました。

昔は肉眼で6等星は軽く見えていたのですが、さて今はどうでしょうか。
玉青もお大事になさってください。

_ 玉青 ― 2018年05月18日 06時48分01秒

○S.Uさま

いやあ、やっぱり無視はしていただけませんでしたね(笑)。
もう一つのコメントへのお返事もこちらで兼ねさせていただきますが、「小利口に付ける薬はない」というのは、たいへんよく分かります。さすがは梅園先生、現象の奥にある真理を鋭くえぐってきますね。

例によって抹香臭い話に持って行きますが、仏教は何でも相対化するのが好きなので、「存在の階梯」もはなはだ細かく、悟りを得るには、まず人間を不自由ならしめている欲望を捨て、次いで物質的相互作用からも自由になり、純粋な精神のみの世界へと至り、さらにあらゆる認識作用を滅却し、認識がないという認識すらも失って、完璧な無の境地へと達する…というあたりが、まずは入門編だそうです。実際には、これでもまだ六道輪廻の中ではかろうじて最高位に位置する「天界」の頂上に立ったに過ぎず、そこから菩薩の慈悲心を知り、如来の悟りの境地に達するには、まだまだ無限の距離があるのだとか。

まあ、そんなことを考えるのは、昔のお坊さんが暇だったからでしょうが、そこまで突き詰めて考えると、馬鹿と利口の区別もあまり大したことはないのかなあ…と思ってみたり。

いずれにしても、自分の利口ぶりを誇るようではどうしようもないです。自分の馬鹿ぶりを恥じるほうが、はるかに上等です。

○Nakamoriさま

お気遣いありがとうございます。

まあ不便は不便なのですが、自分の精神と肉体に生じる変化を観察するのは、なかなか興味深いですね。これまで先輩に旅の自慢話をさんざん聞かされてウンザリしていたところに、ようやく自分も出かける機会が与えられ、「なるほど先輩の自慢話もまんざら大袈裟じゃなかったなあ…」と得心したような気分と言いますか、やっぱり百聞は一見に如かず、です。(^J^)

ともあれ、避けようのない変化は、楽しむしかないと思って付き合うことにします。
Nakamoriさまも、どうかご自愛のほどを。

_ S.U ― 2018年05月18日 19時12分31秒

 この仏教の「悟りをひらく」というのがどういうことなのか、子供の時からなかなか理解できませんでした。今でもよくわかりません。でも、世に仏陀、菩薩という人たちは、自分たちは確かに悟りをjひらいたという確信の上のことでしょうから、それに疑いを差し挟むことはできません。しかし、仮に私が悟りをひらくようなことが万一あったら、自分はそれを確信できるかどうかわかりません。
 
 今回、お教えいただいたことによると、悟りというのは勉強をしてひらくわけではなく、知識も感覚も捨て去ることによってひらくということなのですね。それだったら、単に魂が抜けて死んでいるのと同じでは無いかという気がしますが、それでも生きているという何らかの状態が残っているのが悟りなのでしょうか。

 逆に賢いほうも、とことん努力して勉強してホーキング博士のようになれば、死ぬときには悟りがひらけるのではないかなという気もします。

 脱線が甚だしいので無視してください。

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