余滴…硬骨 vs. 変節2020年10月03日 19時53分25秒

以下の文章は、自分が感じた疑問に、自分で答えるためのメモです。
メモにしては冗長ですが、自分なりに一生懸命考えたことなので、載せておきます。

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まずは昨日の宿題の答。

「もし将来、私が支持するリベラル政権が成立したとして、その政権が学術会議の会員を任命するに際して、極右的であったり、全体主義的であったり、差別主義的であったりする人を拒否したら、私はそれに対してどういう態度をとるだろうか?」

これはあまり難しい問題ではありません。

学問への政治の介入という点では、政府に抗議するし、学問の価値を蝕む要素を自ら認めたという点では、学術会議に抗議するという、それだけのことです。事と内容によって抗議先が変わるというのは、まあ、当たり前のことですね。

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そのこととは別に、先日、私が寝床で考えたのは以下のようなことです。

話を単純化するために、「右翼」と「左翼」という軸を考えます。
言葉の内実として、それを右翼・左翼という言葉で呼ぶのが、本当にふさわしいかどうかは不問とします。ここでは大雑把に、自民党ないし現政権を支持する人と、批判する人という意味合いで使います。

もちろん、「俺は自民党を支持するが、菅は(二階は、石破は、公明党は)大っ嫌いだ」という人もいるし、野党を支持するといっても、立憲、共産、れいわでは反目し合う(ときに蛇蝎のごとく嫌う)層が入り混じっているので、話は込み入っていますけれど、だからこそ単純化するわけで、ここはお互い大同団結してもらうことにします。

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学者の世界にも、当然「右」と「左」の人がいます。
その色合いは様々です。ウルトラ級の「右」や「左」の論客もいるし、真ん中付近に固まっている、中道リベラルや、穏健保守の人も大勢います。

私は現政権を批判する立場なので、当然「左」の人にシンパシーを感じ、「右」の人に反発を覚えます。攻守ところを替えれば、「右」の人でも、自然と同じことになるでしょう。でも、それは人を「敵・味方」に峻別する態度であり、国民を分断することに、容易につながります。ポピュリストの術中に、自らはまりに行くようなものです。

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自らを省みて、なぜそうなりがちなのかを考えてみます。

どうも私の中には、「右」の学者は「曲学阿世の徒」であり、その議論はすべて「為にする論」であり、かたや「左」の学者は「反骨の正義漢」で、常に「真摯な意見」を述べていると、無意識にみなす傾向があるから…のような気がします。

その人の主張と、人格水準を重ねて見てしまう…これがそもそも間違いのもとです。

もちろん体制に近い学者の中には、文字通り曲学阿世の徒――つまり、地位や権力、物質的誘惑に負けて、権力者にこびへつらう人も少なくないでしょう。いわゆる風見鶏というやつです。でも、自らの本懐として、真剣に保守的論陣を張っている人もいるはずです。

似た事情は「左」にもあると思います。権力に重用される旨味はなくとも、大向こう受けを狙って、威勢のいいことを放言すれば、世間の喝采を浴びるし、そのこと自体に無上の喜びを感じる人もいれば(そういう人は「右」にもいます)、そこに何らかの実利が伴う場合も、なくはないでしょう。それもまた「学を曲げて世に阿(おもね)る」姿だと思います。

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雑な議論が横行する今の世で、世間知として知っておくべきことは、相手の立場を単純に右と左に振り分けて、はやしたり、くさしたりすることで終わらず、その人の真率さに目を向けることの重要性です。言うなれば、硬骨漢と変節漢の軸を立てることです。


「右」にしろ、「左」にしろ、変節漢の主張には、耳を傾ける価値がそもそもありません。それは文字通り「為にする論」であり、鴻毛よりも軽いからです。

反対に、自分と主義主張は異なろうとも、「硬骨右翼」の話ならば、聞く価値があるし、聞いてみたいです。(「硬骨右翼」と言っても、別に旭日旗を振り回す「極右」という意味ではありません。右寄りの程度によらず、己の学問的良心に従って、それのみに従って、保守的意見を述べる人のことです。)

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「なるほど。でも、その『硬骨右翼』と『変節右翼』、あるいは『硬骨左翼』と『変節左翼』を見分ける方法はあるの?」と思われるかもしれません。その方法がなければ、私の言っていることは、単に新しいレッテルを考案し、一部の人を排斥するだけで終わってしまうでしょう。

硬骨漢と変節漢を見分けるには?
寝床の中で腕組みをして見つけた答は、「事実関係の誤りを指摘されたとき、それを素直に受け入れ、すみやかに訂正に応じるかどうか」というものです。

変節漢は、信念や確たる根拠があって論じているわけではないので、自分の誤りをひとつ認めると、その虚ろな論の全てが崩壊するような恐怖と不安を覚えるようです。そのため、反論をされると、急に依怙地な態度になって、言を左右し、言い訳やら相手の揚げ足取りに終始し、はたから見て妙に自信がない態度に見えます。

反対に硬骨漢は、己のしっかりとした城を築いているので、誤りのひとつふたつ認めても、その自信がゆらぐことはないし、あっさり非を認めることができます。その態度は、おおむね落ち着いており、沈着です。

(ツイッターの言論空間だと、相手が非を認めると、鬼の首でもとったかのように振る舞う人がいますが、議論というものへの理解が、いかにも皮相だと思います。)

もちろん、ある人にとっての「誤り」が、別の人にとって「誤りでも何でもない」ことは多いので、そこからさらに議論が起ることはしょっちゅうです。それはむしろ健全な議論であり、大いに戦わせればよいのです。あるいは、性格的に他者からの評価に敏感な人とか、喧嘩っ早い人もいるので、そうした要素は、「硬骨-変節」の軸と分けて考えないといけないかもしれません。

それでも、やりとりの流れを見ていれば、「自らの誤りを認める」という切り口から、その人の学問的良心や、付け焼刃の程度は、おのずと露呈するものです。

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「敵-味方」思考に染まって、何かあると「パヨク」や「ネトウヨ」というレッテルを安易に貼って済ますことで、いったい何が明らかになるのか。おそらく明らかになるよりも、隠れてしまう部分の方が多いと思います。

その人の心底に注目し、談ずるに足る人か、耳を傾けるに足る人か、それを知ろうとすること。そういう構えを持つことが、現在の分断政治に抗い、まっとうな社会を取り戻す第一歩だと、私は信じます。

(何だか、昔のエライ人が言ったことを繰り返しているだけのような気もしますが、自分なりに考えて、エライ人と同じ結論になったのであれば、大いに自信を持って良いんじゃないかと、我ながら思います。)