彗星と飛行機と幻の祖国と2021年11月15日 21時28分05秒

…という題名の本を目にして、「あ、タルホ」と思いました。
でもそれは勘違いで、この本は稲垣足穂とは関係のない或る人物の伝記でした。
その人物とは、ミラン・ラスチスラウ・シチェファーニク(1880-1919)


■ヤーン・ユリーチェク(著)、長與 進(訳)
 彗星と飛行機と幻の祖国と―ミラン・ラスチスラウ・シチェファーニクの生涯
 成文社、2015. 334頁

334頁とかなり束(つか)のある本ですが、本文は265頁で、あとの70頁は訳者あとがきと詳細な註と索引が占めています。

本の帯に書かれた文句は、

「天文学者として世界中を訪れ 第一次大戦時には勇敢なパイロット
そして、献身的にチェコスロヴァキア建国運動に携わった、
スロヴァキアの「ナショナル・ヒーロー」の生涯」。

シチェファーニクのことは、5年前にも一度取り上げたことがあります。
過去の記事では「シュテファーニク」と書きましたが、上掲書に従い以下「シチェファーニク」と呼びます。

飛行機乗りと天文台

(シチェファーニクの肖像。上記記事で引用した画像の再掲)

天文学者で、飛行機乗りで、チェコスロヴァキア独立運動を率いた国民的ヒーローで…と聞くと、何だかスーパーマン的な人を想像します。たしかに彼は、才能と情熱に満ち、人間的魅力に富んだ人でしたが、詳細な伝記を読むと、彼が単なる冒険活劇の主人公ではなく、もっと陰影に富む人物だったことがよくわかります。

たとえば、彼はその肖像から想像されるような、鋼の肉体を持った人ではなくて、むしろ病弱な人でした。彼は重い胃潰瘍を患っており、それを押して研究活動と祖国独立運動にのめり込んでいたので、晩年はほとんどフラフラの状態でした。

(シチェファーニクの足跡・ヨーロッパ編)

(同・世界編)

本書の巻頭には折り込み地図が付いていて、シチェファーニクの生涯にわたる足跡が朱線で書かれています。その多くは独立運動のために東奔西走した跡であり、また少なからぬ部分が観測遠征の旅の跡です。病弱だったにもかかわらず、彼は実によく動きました。肉体はともかく、その精神はたしかに鋼でした。

彼は死の前年、1918年には日本にも来て、4週間滞在しています。そればかりでなく、原敬首相を始めとする時の要人に会い、大正天皇にも謁見しています。日本のシベリア出兵を促すためです。

シチェファーニクの独立へのシナリオは、第1次大戦で英・仏・露の「三国協商」に肩入れして、チェコ人とスロヴァキア人を支配してきたドイツとオーストリアを打ち破り、列国によるチェコスロヴァキアの独立承認を勝ち取ることでした。

ただし、ロシアでは革命で帝政が倒れた後、左派のボリシェビキと右派諸勢力の抗争が勃発し、在露同胞により組織されたチェコスロヴァキア国民軍とボリシェビキが対立する事態となったため、ボリシェビキを牽制するために、日本の力を借りる必要がある…と、シチェファーニクは判断したわけです。(そのため第二次大戦後、チェコスロヴァキアがソ連の衛星国だった時代には、シチェファーニクについて語ることがタブー視された時期があります。)

当時の複雑怪奇な欧州情勢の中で、シチェファーニクの情熱と言葉がいかに人々の心を動かしたか、その人間ドラマと政治ドラマが本書の肝です。そして、もちろん天文学への貢献についても十分紙幅を割いています。

   ★

1919年5月4日、彼が乗ったカプローニ450型機はイタリアを飛び立ち、故国スロヴァキアに着地する寸前で墜落し、彼は劇的な最期を遂げました。「カプローニ機は整備不良で事故が心配だから、鉄道で帰国してはどうか」と周囲はいさめたのですが、「自分はオーストリアの土地を踏みたくない」という理由で、強引に搭乗した末の悲劇でした。

(墜落事故の現場。本書より)

そして彼の遺骸から発見された、愛する女性への手紙を引用して本書は終わっています。

   ★

最後に蛇足ですが、チェコスロヴァキア建国運動の歴史的背景を、簡単に述べておきます(私もよく分かっていませんでした)。

チェコ人もスロヴァキア人も同じスラブ系の民族であり、チェコ語とスロヴァキア語は互いに方言程度の違いしかないそうですが、両民族のたどった歴史はだいぶ違います。すなわち、ドイツ人を支配層に戴きながらも、ボヘミア王国として独立の地位を長く保ち、近世になってからハプスブルク家の統治下に入ったチェコに対して、スロヴァキアは11世紀以降マジャール人(ハンガリー王国)にずっと支配されたまま、自らの国家を持ちませんでした。

それが19世紀になると、民族意識の高揚により、チェコ人とスロヴァキア人の同胞意識が芽生え、ドイツへの対抗意識が生まれ、オーストリア=ハンガリー二重帝国からの独立運動が熱を帯び、ついには「チェコスロヴァキア」という新たなスラブ国家創設へと結びついたのです。

その中心にいたのがシチェファーニクであり、彼はほとんど徒手空拳で中欧の歴史を書き換えた傑物です。

コメント

_ S.U ― 2021年11月18日 15時35分52秒

ネタバレの質問ですみませんが、シチェファーニクと「彗星」は何らかの関係があるのでしょうか。コメット・タルホかポン彗星のような・・・

 チェコスロヴァキアで彗星と言えば、ムルコス、パイドゥシャーコヴァー、ベクバル(ベチュヴァーシュ)、コホーテク と思い浮かぶ人は多いですが、時代が違うので、シチェファーニクとは関係ないですよね。

_ Matthew M ― 2021年11月18日 17時49分25秒

Hello, my name is Matthew. I am a researcher at the University of Tokyo. I would like to discuss some of your photographs. If you could e-mail me, I would very much appreciate it.

Best,

Matthew

_ 玉青 ― 2021年11月18日 23時34分41秒

いやあ、私も大いに気になったんですが、本書に彗星のことはほとんど…というか、全く出てきません。シチェファーニクの天文学者としての研究対象は、太陽(日食)のスペクトル観測で、彗星のスペクトル観測ぐらいはやったかもしれませんが、それも本書には出てきません。実は本書の原題(の直訳)は、『ミラン・ラスチスラウ・シチェファーニク 学者・政治家・外交官・飛行士・将軍・大臣・人間』というもので、「彗星」は邦題のみに登場します。たぶんこれは訳者の方の趣味か、あるいはもっとありそうなのは、担当編集者の「より売れる題名を」というリクエストに応えたものじゃないでしょうか。

_ Tamao 玉青 ― 2021年11月18日 23時36分16秒

Mathew, I have just sent a message to your address. Please check it.

_ S.U ― 2021年11月19日 13時16分29秒

>本書に彗星のことはほとんど…というか、全く出てきません。
>担当編集者の「より売れる題名を」
 ネタバレの質問に対して懇切なご回答ありがとうございます。

 こういう商魂的事情のみに『彗星』という「言葉のロマン」を利用することは、普段の私なら痛烈に批判申すところですが、チェコスロバキアは1943年のスカレナテ・プレソ天文台建設後(ナチス・ドイツの時代でその背景を調べる要はあると思いますが私は不詳です)、アマチュア天文・彗星ファンにとっては彗星天文学の王国あるいは聖地というべきところなので、シチェファーニクにもその先駆的貢献があれば、大いにその明を高く評価したいと思います。

 それで、何とか関係があってほしいと、ベチュヴァーシュ(同天文台設立者)とシチェファーニクに関係があるかに絞って調べてみました。

 まず、スカルナテ・プレソ天文台の項目のWikipediaの業績を見ていただければ、「彗星の聖地」という私の評価が過大ではないことが証明されると思います。
https://ja.wikipedia.org/wiki/スカルナテ・プレソ天文台#業績

 次に、NASA/ADSで論文検索をして見ましたが、シチェファーニクの論文とおぼしきものは、↓1編だけでした。
https://ui.adsabs.harvard.edu/abs/1906ApJ....24...42M/abstract
PDFが右のほうにあるので、お読みいただけます。

 また、彗星、および、天文台建設との関係で述べている科学史の文献が一つ見つかりました。
V Rušin 他著 · 2002 — ASTRONOMY AND ASTROPHYSICS. IN THE SLOVAK REPUBLIC.
https://link.springer.com/content/pdf/10.1007/978-94-010-0606-4_15.pdf

 これの2ページ目に、そのへんの時代のことが書かれていますが、シチェファーニクとベチュヴァーシュの仕事は関連づけられておらず、また、ハリー彗星の観測は素人でもしたものですので、やはり、特に彗星との関連はないようです。

_ 玉青 ― 2021年11月19日 19時04分14秒

早速ですが訂正です。本書にはシチェファーニクと彗星の接点がちゃんと記述されていました。それは1910年のハレー彗星接近のときで、彼は地球が彗星の尾に入った瞬間を観測すべく入念な準備を整えてタヒチ島に渡ったのですが、曇天に阻まれてがっかりしたことが書かれています。彗星との関わりは、たぶんそれが唯一のものと思います。

シチェファーニクの論文についてお知らせいただきありがとうございます。
彼の論文はフランス科学アカデミーに提出されたものが大半で、もちろん言語はフランス語なので、ADSだと引っ掛かりにくいということがあるんでしょうかね。

彼の最初の論文は1905年にやっぱり同アカデミーへの報文として出た、同年スペインで観測された日食の分光観測に関するものだそうで、1906年のAstrophysical Journal誌掲載の論文は、彼の論文としてはかなり初期のもののようです。ちょうどそれに関連する記述が、本書p.69に出てきます。

「六か月足らずのあいだにジャンサンはアカデミーに、シチェファーニクの学術論文を五編提出した。最初の「スぺクトロヘリオグラフ〔太陽分光写真儀〕の新しい装置について」はミロショと共同執筆だった。それは太陽調査協力国際連合の大会(一九〇七年五月、ムードン)の出席者の注目を集め、シカゴの『宇宙物理学雑誌』も書評した。」

何となく時系列が合わないような気もしますが、同誌掲載のものはフランス語原著の英訳なのかもしれません。

_ S.U ― 2021年11月20日 09時51分38秒

ありがとうございます。
 彗星を観測するために新しい装置を開発しタヒチに渡ったのなら、やはりプロの仕事ですので、まったく関係ないことはありませんね。

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