さらに明治の遠眼鏡について ― 2026年02月21日 12時57分02秒
(明治の錦絵に登場する遠眼鏡。月岡芳年作「東京開化狂画名所/芝愛宕山 茶屋女 遠眼鏡を見る」(部分)、明治14年 (1881))
前回の続きです。
日本望遠鏡史を概観すると、江戸の「遠眼鏡時代」と明治末期(実質的には大正)に始まる「国産望遠鏡時代」の間は、「舶来品万能時代」で、国産望遠鏡は影を潜めていた…ということを、前回書きました。これは基本的に正しい理解だと思うんですが、ここには再考を要すべき点もあります。
まず一つは、機材の完成度や用途を考えると、「国産望遠鏡時代」のプロトタイプと呼ぶべきは、岩橋善兵衛の「窺天鏡」や、国友藤兵衛のグレゴリー式反射望遠鏡クラスであって、浮世絵美人が手慰みに覗く遠眼鏡を並列するのは、ちょっと違うんじゃないかという点。
(岩橋善兵衛の窺天鏡の図。『わが国の望遠鏡の歩み』より)
(国友藤兵衛の望遠鏡の見取り図。同)
もう一つは、そういう玩具めいた遠眼鏡は、明治になっても国産が続いていたんじゃないかという点です。
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前回引用した『わが国の望遠鏡の歩み』から、関連記述を再度引きます。
「江戸時代からの伝習による一閑張の望遠鏡なども初期にはまだいくらか作られていたようであるが、やがて舶来の新式望遠鏡が続々と入ってきた。後にはそれらを模倣して国産品をつくりだす努力がはじめられたが、しばらくは舶来万能であった」(p.21)
これを読むと、一閑張、すなわち漆で仕上げた紙筒製の望遠鏡は、明治初期でいったん伝統が絶えたように読めます。しかし、試みに明治20年代(1887~1896)の文献で「遠眼鏡」の用例を探すと、結構ぞろぞろ出てきます(例によって国会図書館デジタルコレクションの力を借りました)。
以下はその一例(太字は引用者、原文の振り仮名は一部省略)。
○「〔…〕英敏(さかしき)は女。早くも艶書(ふみ)とは見てとれど、悲しき事にハ何が何やわからねバ、遠眼鏡に霞がくれの舟を見るほどもどかしく〔…〕」 (尾崎紅葉 著『風流京人形』、明治22/1889)
○「嘆息も仕始めると果(はた)しなひ訳(わけ)〔…〕遠眼鏡を見る節ハ、偏目(かため)に生附(むまれつか)ぬを嘆息し〔…〕」 (井村佐平 著『十人十種目下の歎息』、明治23/1890)
○「ヨク見やしやんせ十二階富士や筑波は目の前に分りますぞへェヽ遠眼鏡」 (戯笑散人 編『柳の誉 : 音曲笑譚』、明治24/1891)
○「手に乗せて富士の雪見る遠眼鏡」 (加藤福次郎 編『俳諧手挑灯』、明治26/1893)
また、以下は文友舎発行の雑誌「花たら誌」第4号(明治21年(1888)10月)の都々逸投稿欄に出てくる遠眼鏡です。当該号のお題は「網」「眼鏡」「蛇」で、選者は仮名垣魯文と神垣茂文(魯文の変名か?)。その中から遠眼鏡を詠み込んだ作品を書き抜いてみます。
●五点の部
主を帰してお宅(うち)の首尾を爰(ここ)で見度(みたい)よ遠眼鏡 親釜連 山の家天狗
●十点の部
そつと覗いて人目を兼てぬしの姿を遠眼鏡 米沢 吾雪羨粋史
離(はなれ)ちや居(いれ)ども変らぬ心主に見せたい遠眼鏡 よし町 扇家かなめ
●十五点の部
先の景色が変つたらしい此頃便りも遠眼鏡 信松本 四海菴雄左丸
迷ひの俤(おもか)げ目にちらつけど主の姿ハ遠眼鏡 武入間 柳屋猫八
主を帰してお宅(うち)の首尾を爰(ここ)で見度(みたい)よ遠眼鏡 親釜連 山の家天狗
●十点の部
そつと覗いて人目を兼てぬしの姿を遠眼鏡 米沢 吾雪羨粋史
離(はなれ)ちや居(いれ)ども変らぬ心主に見せたい遠眼鏡 よし町 扇家かなめ
●十五点の部
先の景色が変つたらしい此頃便りも遠眼鏡 信松本 四海菴雄左丸
迷ひの俤(おもか)げ目にちらつけど主の姿ハ遠眼鏡 武入間 柳屋猫八
比喩的な用例もありますが、こんなふうに「遠眼鏡」が軽文学や月並俳諧、都々逸・俗謡の類にまで登場するということは、遠眼鏡が当時、庶民に近しい存在だった証拠でしょう。そして、それらがすべて舶来品だったとは思えませんし、皆が皆、江戸時代の古ぼけた品を手にしていたとも思えません。
当時、天体観測用・軍用・測量用といったプロユースの望遠鏡は、前述のとおり舶来品で占められていたでしょうが、景色を覗いて愉しむ安価な玩具的望遠鏡の需要は常にあったし、そんなものまで舶来万能だったはずはないので、一閑張をブリキや真鍮の筒に置き換えた「明治版遠眼鏡」と、それを作るメーカーがきっとあったはずだ…と想像されるのです。
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あとはモノが見つかれば万々歳ですが、こういうのは粗悪な品ほど残りにくく、見つかりにくいという逆説があるので、見つけるのはなかなか大変です。
でも、ヤフオクとかでメーカー名の記載がない古い望遠鏡で、舶来品とはちょっと肌合いの違うものがあれば、とりあえず候補にはなるでしょう。
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ちなみに、山田美妙 (武太郎) 編、『日本大辞書』(明治26/1893)には「ほしめがね」という項目があって、遠眼鏡の中でも特に天文学用のものを「星眼鏡、観星鏡」と呼んで区別しています。両者はやはりグレードが違うという認識があったのでしょう。

そして同書には、もう一か所「遠眼鏡」が出てきます。

双眼鏡の説明として、「両眼に当たるように造った遠眼鏡」とあります。遠眼鏡は、当時、望遠鏡と双眼鏡の両方を指して使ったようです。
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とはいえ、上の推測はすべてハズレで、当時は海外にも安価なスパイグラスがあふれていたので、それらが「粗悪な舶来品」として幅を利かせていた可能性もなくはないです。
昔は双眼鏡のことも遠眼鏡と呼んだ…ということから思い出すのは、江戸川乱歩の「押絵と旅する男」(1929)で、そこにも双眼鏡のことを遠眼鏡と呼ぶ老人が出てきます。
「老人は〔…〕肩から下げていた、黒革のケースを、叮嚀に鍵で開いて、その中から、いとも古風な双眼鏡を取り出してそれを私の方へ差出すのであった。
「コレ、この遠眼鏡で一度御覧下さいませ。イエ、そこからでは近すぎます。失礼ですが、もう少しあちらの方から。左様丁度その辺がようございましょう」
〔…〕
遠眼鏡と云うのは、恐らく二三十年も以前の舶来品であろうか、私達が子供の時分、よく眼鏡屋の看板で見かけた様な、異様な形のプリズム双眼鏡であったが、それが手摺れの為に、黒い覆皮がはげて、所々真鍮の生地が現われているという、持主の洋服と同様に、如何にも古風な、物懐かしい品物であった。
〔…〕
すると、老人は〔…〕次の様な世にも不思議な物語を始めたのであった。
「〔…〕明治二十八年の四月の、兄があんなに〔…〕なりましたのが、二十七日の夕方のことでござりました。〔…〕兄は妙に異国物が好きで、新しがり屋でござんしたからね。この遠眼鏡にしろ、やっぱりそれで、兄が外国船の船長の持物だったという奴を、横浜の支那人町の、変てこな道具屋の店先で、めっけて来ましてね。当時にしちゃあ、随分高いお金を払ったと申して居りましたっけ」
「コレ、この遠眼鏡で一度御覧下さいませ。イエ、そこからでは近すぎます。失礼ですが、もう少しあちらの方から。左様丁度その辺がようございましょう」
〔…〕
遠眼鏡と云うのは、恐らく二三十年も以前の舶来品であろうか、私達が子供の時分、よく眼鏡屋の看板で見かけた様な、異様な形のプリズム双眼鏡であったが、それが手摺れの為に、黒い覆皮がはげて、所々真鍮の生地が現われているという、持主の洋服と同様に、如何にも古風な、物懐かしい品物であった。
〔…〕
すると、老人は〔…〕次の様な世にも不思議な物語を始めたのであった。
「〔…〕明治二十八年の四月の、兄があんなに〔…〕なりましたのが、二十七日の夕方のことでござりました。〔…〕兄は妙に異国物が好きで、新しがり屋でござんしたからね。この遠眼鏡にしろ、やっぱりそれで、兄が外国船の船長の持物だったという奴を、横浜の支那人町の、変てこな道具屋の店先で、めっけて来ましてね。当時にしちゃあ、随分高いお金を払ったと申して居りましたっけ」
明治の半ば、双眼鏡はやっぱり舶来品がメインであり、眼鏡屋の看板を飾ったり、中古品が横浜の道具屋で売買されたりして、新しがり屋の好奇心をそそった…というのです。そうなると、一般の人が手にした望遠鏡も、やっぱり舶来中心だったのかな…と思い直したり。
話が二転三転して恐縮ですが、材料が乏しいまま書いても結論は出ないので、とりあえず今回はここまでにします。





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