メアリー・プロクター『天空の本』 ― 2026年02月15日 08時21分01秒
円安の影響もあって、海外から天文古書を買う機会がずいぶん減りました。それでも先日、「あ、これは」と思って発注した本があります。
■Mary Proctor
The Book of the Heavens.
Harper(London)、1926. 268p.
The Book of the Heavens.
Harper(London)、1926. 268p.
著者のメアリー・プロクター(1862-1957)については、本書の2年前に出た『Evenings with the Stars』(1924)を以前紹介しました。【LINK】
(画像再掲)
そちらはアールデコの美しいブックデザインでしたが、今日の本は前代のビクトリアンな雰囲気を引きずった装丁です。
私が買ったのはジャケット(日本で言うカバー)付きが評価されて、ちょっと高かったのですが、カバー無しの状態でも、ご覧のとおり美しい造本です。
見返しには、1932年にこれを買ったペック氏と、1992年にそれを古書店で購入したゴッドフリー氏のサインが入っています。本が出てちょうど100年、私は少なくとも3代目の所有者ということになるのですが、本というのはこうして受け継がれていくのだなあ…としみじみします。
(パラパラめくったら、アンカットの頁がありました。きっと前の持ち主も通読しなかったのでしょう。そんなところにも親近感を覚えます。)
本書の内容は、言ってみれば「普通の天文入門書」です。
「第1章 太陽の話」「第2章 月の話」から始まって、惑星、彗星、流星、太陽の固有運動、著名な星座、天の川の話が続き、最後は「第21章 ウィルソン山天文台と分光器」で終わっています。
類書には事欠かないので、屋上屋を架すことになると思いましたが、それでもあえて本書を買ったのは、イヴリン・ポール(Evelyn Maude Blanche Paul、1883-1963)の描く4枚の原色挿画が入っていたからです。
(「孤独な空の番人」)
彼女はラファエル前派の影響を強く受けた、中世画風の挿絵画家として有名な人だそうですが、ここで彼女が描くのは、抒情的な美しい天文画です。
(「パリで見られたハレー彗星」
そして何よりも上の1枚。
時系列で言うと、私は上の絵がバラで切り売りされているのを見て、「ああ、なんて美しい絵だろう」と思ったのが最初の出会いでした。でも、バラものにしてはやけに高かったので、購入を断念。それでもやっぱり諦めきれず、タイトルと作者の名前から検索して、本書の存在を知りました。結果的にこれは一冊まるごと買って正解です。
まあ、もう少し時代が早ければ、この絵は繊細な多色石版で刷られたはずで、その方が一層良かったと思いますが、そこは絵自体の魅力に免じて目をつぶることにします。
明治の望遠鏡についてのメモ ― 2026年02月17日 06時04分20秒
これまでぼんやりと疑問を感じながら、知識が空白のままになっていたことがあります。
まあ私の場合、そういう空白はたくさんあるのですが、その一つが明治の望遠鏡事情です。すなわち明治時代の日本には、望遠鏡を製造していたメーカーが果たしてあったのか、なかったのか。もちろん事情通の方は先刻ご承知かもしれませんが、私はそれをはっきり知らずにいました。
★
江戸時代の日本では、盛んに遠眼鏡が作られ、浮世絵にも描かれました。
(葛飾北斎、連作「風流無くてなゝくせ」のうち『遠眼鏡』。出典:ウィキペディア「遠眼鏡」の項)
ですから、望遠鏡製作の基礎はすでに十分あったわけで、文明開化とともに、そこに新来の技術が加わり、新しい望遠鏡づくりの職人が生まれ…というのも、十分ありうるストーリーではあります。ただ、それは頭の中で想像するばかりで、実態は杳として知れませんでした。
★
私の蒙を啓いてくれたのは、1冊の小冊子です。
(財)科学博物館後援会(発行)、『わが国の望遠鏡の歩み』(全57頁)。
昭和39年(1964)、ガリレオの生誕400年にちなんで、特別展「わが国の望遠鏡の歩み」が科博で開催された折に作られたものです(各項の執筆者は無署名で、「あとがき」を村山定男氏が書かれています)。
(目次と冒頭)
何せ60年以上前の資料ですから、情報としては古いのですが、少なくとも私の知識の空白を埋めてくれる役は十分果たしてくれました。
★
問題の記述は、「3.日本の望遠鏡の歴史(2) ―明治以降―」(pp.21-28)に出てきます。いくつか記述を書き抜いてみます(太字は引用者)。
「江戸時代からの伝習による一閑張の望遠鏡なども初期にはまだいくらか作られていたようであるが、やがて舶来の新式望遠鏡が続々と入ってきた。後にはそれらを模倣して国産品をつくりだす努力がはじめられたが、しばらくは舶来万能であった」(p.21)
つまり、日本の望遠鏡製造史は、江戸と明治の間に大きな断絶があり、「遠眼鏡時代」と「国産望遠鏡普及時代」の間に「舶来万能時代」がはさまっている…というのが大まかな構図です。ですから、上で述べた私の想像は端的に言って間違いです。
ただし望遠鏡はそうであっても、レンズ研磨に関しては部分的に合っていた点もあります。引用を続けます。
「掛け眼鏡の玉も、昔は一つ一つ手工業的にみがかれていたが、明治6年オーストリヤのウィーンに開催された万国博覧会に参加した人達によって、他のいろいろな技術と共に西洋流のレンズ研磨法も持ちかえられた。眼鏡研磨法を伝習して帰ったのは朝倉松五郎という人で、レンズ研磨機もこの時はじめて持ちかえられ、また研磨に紅殻を用いたのもこのときがはじめてであったという。
この朝倉は明治9年わずか34才で没したが、その弟子たちによって、眼鏡玉の製造をはじめ、わが国のレンズ工業のもとがきずかれた。」(pp.21-22)
この朝倉は明治9年わずか34才で没したが、その弟子たちによって、眼鏡玉の製造をはじめ、わが国のレンズ工業のもとがきずかれた。」(pp.21-22)
なるほど、望遠鏡よりは眼鏡の方が圧倒的に需要も多かったわけですから、そちらの国産化の方が先行したのは至極当然です。
★
では肝心の国産望遠鏡はいつからか?といえば、それは明治も最末期のことです。
明治42年(1909)に、元海軍技師の藤井竜蔵が「藤井レンズ製造所」を設立し、明治44年(1911)に「ビクター双眼鏡第1号」を完成。
(藤井竜蔵に関する記述(部分))
その後の歴史は広く知られるとおり、大正6年(1917)に、藤井レンズ製造所と東京計器製作所の光学部門、岩城硝子製作所の探照灯製造部門が合併して、「日本光学工業株式会社」(現ニコン)が創設され、日本の光学機器製造に画期がもたらされました。といっても、この頃はまだ「舶来品」も幅を利かせていたのですが、光学製品の国産化はその後着実に進展していくことになります。
そして、大正15年(1926)には、同社から独立した五藤斉三が「五藤光学研究所」を創設し、アマチュア向け望遠鏡の本格供給も始まりました。
★
明治41年(1908)に日本天文学会が、大正9年(1920)に東亜天文協会が設立されたのは、こうした国産望遠鏡製造のタイミングとぴたりと重なりますが、望遠鏡の供給体制と天文趣味の興隆は、いわば「ニワトリと卵」の関係かもしれません。
さらに明治の遠眼鏡について ― 2026年02月21日 12時57分02秒
(明治の錦絵に登場する遠眼鏡。月岡芳年作「東京開化狂画名所/芝愛宕山 茶屋女 遠眼鏡を見る」(部分)、明治14年 (1881))
前回の続きです。
日本望遠鏡史を概観すると、江戸の「遠眼鏡時代」と明治末期(実質的には大正)に始まる「国産望遠鏡時代」の間は、「舶来品万能時代」で、国産望遠鏡は影を潜めていた…ということを、前回書きました。これは基本的に正しい理解だと思うんですが、ここには再考を要すべき点もあります。
まず一つは、機材の完成度や用途を考えると、「国産望遠鏡時代」のプロトタイプと呼ぶべきは、岩橋善兵衛の「窺天鏡」や、国友藤兵衛のグレゴリー式反射望遠鏡クラスであって、浮世絵美人が手慰みに覗く遠眼鏡を並列するのは、ちょっと違うんじゃないかという点。
(岩橋善兵衛の窺天鏡の図。『わが国の望遠鏡の歩み』より)
(国友藤兵衛の望遠鏡の見取り図。同)
もう一つは、そういう玩具めいた遠眼鏡は、明治になっても国産が続いていたんじゃないかという点です。
★
前回引用した『わが国の望遠鏡の歩み』から、関連記述を再度引きます。
「江戸時代からの伝習による一閑張の望遠鏡なども初期にはまだいくらか作られていたようであるが、やがて舶来の新式望遠鏡が続々と入ってきた。後にはそれらを模倣して国産品をつくりだす努力がはじめられたが、しばらくは舶来万能であった」(p.21)
これを読むと、一閑張、すなわち漆で仕上げた紙筒製の望遠鏡は、明治初期でいったん伝統が絶えたように読めます。しかし、試みに明治20年代(1887~1896)の文献で「遠眼鏡」の用例を探すと、結構ぞろぞろ出てきます(例によって国会図書館デジタルコレクションの力を借りました)。
以下はその一例(太字は引用者、原文の振り仮名は一部省略)。
○「〔…〕英敏(さかしき)は女。早くも艶書(ふみ)とは見てとれど、悲しき事にハ何が何やわからねバ、遠眼鏡に霞がくれの舟を見るほどもどかしく〔…〕」 (尾崎紅葉 著『風流京人形』、明治22/1889)
○「嘆息も仕始めると果(はた)しなひ訳(わけ)〔…〕遠眼鏡を見る節ハ、偏目(かため)に生附(むまれつか)ぬを嘆息し〔…〕」 (井村佐平 著『十人十種目下の歎息』、明治23/1890)
○「ヨク見やしやんせ十二階富士や筑波は目の前に分りますぞへェヽ遠眼鏡」 (戯笑散人 編『柳の誉 : 音曲笑譚』、明治24/1891)
○「手に乗せて富士の雪見る遠眼鏡」 (加藤福次郎 編『俳諧手挑灯』、明治26/1893)
また、以下は文友舎発行の雑誌「花たら誌」第4号(明治21年(1888)10月)の都々逸投稿欄に出てくる遠眼鏡です。当該号のお題は「網」「眼鏡」「蛇」で、選者は仮名垣魯文と神垣茂文(魯文の変名か?)。その中から遠眼鏡を詠み込んだ作品を書き抜いてみます。
●五点の部
主を帰してお宅(うち)の首尾を爰(ここ)で見度(みたい)よ遠眼鏡 親釜連 山の家天狗
●十点の部
そつと覗いて人目を兼てぬしの姿を遠眼鏡 米沢 吾雪羨粋史
離(はなれ)ちや居(いれ)ども変らぬ心主に見せたい遠眼鏡 よし町 扇家かなめ
●十五点の部
先の景色が変つたらしい此頃便りも遠眼鏡 信松本 四海菴雄左丸
迷ひの俤(おもか)げ目にちらつけど主の姿ハ遠眼鏡 武入間 柳屋猫八
主を帰してお宅(うち)の首尾を爰(ここ)で見度(みたい)よ遠眼鏡 親釜連 山の家天狗
●十点の部
そつと覗いて人目を兼てぬしの姿を遠眼鏡 米沢 吾雪羨粋史
離(はなれ)ちや居(いれ)ども変らぬ心主に見せたい遠眼鏡 よし町 扇家かなめ
●十五点の部
先の景色が変つたらしい此頃便りも遠眼鏡 信松本 四海菴雄左丸
迷ひの俤(おもか)げ目にちらつけど主の姿ハ遠眼鏡 武入間 柳屋猫八
比喩的な用例もありますが、こんなふうに「遠眼鏡」が軽文学や月並俳諧、都々逸・俗謡の類にまで登場するということは、遠眼鏡が当時、庶民に近しい存在だった証拠でしょう。そして、それらがすべて舶来品だったとは思えませんし、皆が皆、江戸時代の古ぼけた品を手にしていたとも思えません。
当時、天体観測用・軍用・測量用といったプロユースの望遠鏡は、前述のとおり舶来品で占められていたでしょうが、景色を覗いて愉しむ安価な玩具的望遠鏡の需要は常にあったし、そんなものまで舶来万能だったはずはないので、一閑張をブリキや真鍮の筒に置き換えた「明治版遠眼鏡」と、それを作るメーカーがきっとあったはずだ…と想像されるのです。
★
あとはモノが見つかれば万々歳ですが、こういうのは粗悪な品ほど残りにくく、見つかりにくいという逆説があるので、見つけるのはなかなか大変です。
でも、ヤフオクとかでメーカー名の記載がない古い望遠鏡で、舶来品とはちょっと肌合いの違うものがあれば、とりあえず候補にはなるでしょう。
★
ちなみに、山田美妙 (武太郎) 編、『日本大辞書』(明治26/1893)には「ほしめがね」という項目があって、遠眼鏡の中でも特に天文学用のものを「星眼鏡、観星鏡」と呼んで区別しています。両者はやはりグレードが違うという認識があったのでしょう。

そして同書には、もう一か所「遠眼鏡」が出てきます。

双眼鏡の説明として、「両眼に当たるように造った遠眼鏡」とあります。遠眼鏡は、当時、望遠鏡と双眼鏡の両方を指して使ったようです。
★
とはいえ、上の推測はすべてハズレで、当時は海外にも安価なスパイグラスがあふれていたので、それらが「粗悪な舶来品」として幅を利かせていた可能性もなくはないです。
昔は双眼鏡のことも遠眼鏡と呼んだ…ということから思い出すのは、江戸川乱歩の「押絵と旅する男」(1929)で、そこにも双眼鏡のことを遠眼鏡と呼ぶ老人が出てきます。
「老人は〔…〕肩から下げていた、黒革のケースを、叮嚀に鍵で開いて、その中から、いとも古風な双眼鏡を取り出してそれを私の方へ差出すのであった。
「コレ、この遠眼鏡で一度御覧下さいませ。イエ、そこからでは近すぎます。失礼ですが、もう少しあちらの方から。左様丁度その辺がようございましょう」
〔…〕
遠眼鏡と云うのは、恐らく二三十年も以前の舶来品であろうか、私達が子供の時分、よく眼鏡屋の看板で見かけた様な、異様な形のプリズム双眼鏡であったが、それが手摺れの為に、黒い覆皮がはげて、所々真鍮の生地が現われているという、持主の洋服と同様に、如何にも古風な、物懐かしい品物であった。
〔…〕
すると、老人は〔…〕次の様な世にも不思議な物語を始めたのであった。
「〔…〕明治二十八年の四月の、兄があんなに〔…〕なりましたのが、二十七日の夕方のことでござりました。〔…〕兄は妙に異国物が好きで、新しがり屋でござんしたからね。この遠眼鏡にしろ、やっぱりそれで、兄が外国船の船長の持物だったという奴を、横浜の支那人町の、変てこな道具屋の店先で、めっけて来ましてね。当時にしちゃあ、随分高いお金を払ったと申して居りましたっけ」
「コレ、この遠眼鏡で一度御覧下さいませ。イエ、そこからでは近すぎます。失礼ですが、もう少しあちらの方から。左様丁度その辺がようございましょう」
〔…〕
遠眼鏡と云うのは、恐らく二三十年も以前の舶来品であろうか、私達が子供の時分、よく眼鏡屋の看板で見かけた様な、異様な形のプリズム双眼鏡であったが、それが手摺れの為に、黒い覆皮がはげて、所々真鍮の生地が現われているという、持主の洋服と同様に、如何にも古風な、物懐かしい品物であった。
〔…〕
すると、老人は〔…〕次の様な世にも不思議な物語を始めたのであった。
「〔…〕明治二十八年の四月の、兄があんなに〔…〕なりましたのが、二十七日の夕方のことでござりました。〔…〕兄は妙に異国物が好きで、新しがり屋でござんしたからね。この遠眼鏡にしろ、やっぱりそれで、兄が外国船の船長の持物だったという奴を、横浜の支那人町の、変てこな道具屋の店先で、めっけて来ましてね。当時にしちゃあ、随分高いお金を払ったと申して居りましたっけ」
明治の半ば、双眼鏡はやっぱり舶来品がメインであり、眼鏡屋の看板を飾ったり、中古品が横浜の道具屋で売買されたりして、新しがり屋の好奇心をそそった…というのです。そうなると、一般の人が手にした望遠鏡も、やっぱり舶来中心だったのかな…と思い直したり。
話が二転三転して恐縮ですが、材料が乏しいまま書いても結論は出ないので、とりあえず今回はここまでにします。
花の粉、鼻の水 ― 2026年02月28日 13時51分38秒
世の中に絶えて花粉のなかりせば
春の心はのどけからまし
冗談抜きでそう思っている方も大勢いらっしゃることでしょう。
スギ花粉は、昔の学習顕微鏡に付属するプレパラートセットの中では定番でした。
…と思いつつ、よく考えたら定番はマツの花粉だったかもしれませんが、とりあえずスギも準定番ということにして、話を進めます。
私が子供のころは、花粉症がまだほとんど話題になってなかったので(公害問題の方がよほど深刻でした)、スギ花粉を見ても「ふーん」で終わっていましたが、今の目で見ると、そこに複雑な思いが重なります。
こんな小さな相手に、なぜこれほど苦しまなければならないのか。
まあ、小さな相手だからこそ厄介なわけで、花粉がゴルフボールぐらいの大きさだったら、もうちょっと対策の仕方もあるでしょう。
とはいえ、私自身はくしゃみが出たり、目がムズムズしたり、花粉に反応はするものの、幸い未だ重篤な症状はないので、春の心はわりあいのどかです。でも、この先どうなるか。齢をとれば免疫力が低下し、花粉症も軽症化する…という説に期待したいですが、仮にそれが正しいとしても、それを手放しで喜べるかというと微妙です。
★
秋の心と書いて愁(うれ)い。
「春愁」という言葉もありますが、今後はずばり春の心と書いて「うれい」と読む新字ができてもいいですね。
…と思ったら、「憃」という漢字はちゃんとあって、「おろか」「みだれる」と読むんだそうです。まあ愚かかどうかはさておき、春になると心が乱れるのは確かですね。
★
年度末の片付け仕事でアップアップしているのと、来週木曜日に人前で話す機会があり、その準備に追われています。それを勘定に入れると、やっぱりあんまりのどかではなくて、記事の方はしばらく開店休業です。




















最近のコメント