もろもろ作業中 ― 2007年08月23日 23時26分12秒
もろもろ作業が押しているため、記事は臨時休載です。
コワント天文台 ― 2007年08月24日 21時40分41秒
このあいだはパロマーの巨人を載せたので、今日は目先を変えてちょっと小作りな天文台です。
写真はベルギーにある、コワント天文台(Observatoire de Cointe)。
まるで中世のお城のようですが、できたのは1880年代と意外に新しく、しかも現役で使われている建物だそうです。現在はリエージュ大学の天体・地球物理学研究所に付属します。
この絵葉書は、裏面区画のない古いタイプのもので、1905年の消印が押されています。一見、リアルなカラー写真のように見えますが、もちろん手彩色です。ベルギーはフランスと並んで手彩色絵葉書の本場で、機械印刷が台頭してくる1930年頃まで、こうした質の高い製品を世界中に供給しました。
■参考■
○STRUCTURAE
http://en.structurae.de/structures/data/index.cfm?ID=s0020219
○Belgian research in astrophysics:
http://www.astro.ulb.ac.be/BNCA/MainPage_files/Astronomy_Belgium.pdf
コワント天文台(2) ― 2007年08月25日 17時39分08秒
同天文台の別テイクの絵葉書です。
昨日の構図のさらに左側に、もう一つドームを載せた建物が見えます。
一連の建物は、中世回帰をスローガンとした、いわゆるゴシック・リヴァイバル運動の好例です。ゴシック好きとは、すなわち塔好きということで、塔上の謎めいたドームは、いろいろな意味で人々の想像を誘ったことでしょう。
私もこんな建物に住んで、ちょっと「星の伯爵」を気取ってみたいような気がします。
天文台建築は、その時代その時代の嗜好を受けて、いろいろな様式が試みられてきましたが、この愛すべき建物も、天文台建築史において特筆されてよい建物だと思います。
★ ★ ★
ところで、この絵葉書は裏面区画のあるタイプで、時代的には昨日の絵葉書より新しいもの(1910年前後)なんですが、木の繁茂の仕方を見ると、どうも昨日の写真より以前に撮影されたような気がします。
で、画像拡大をつけたのでご覧頂きたいのですが、画面の左・中央・右側の3箇所にピタッと焦点の合ったところがあり、あとはところどころぼやけています。しかも手前の芝地には、妙なギザギザ模様があって、結局この写真は何枚か(3枚以上)の写真を継ぎはぎしたものだと分ります。
写真史に詳しくないのでよく分りませんが、これは広角の写真を撮るのが難しかった時代の産物なのでしょうか。それとも何か他に現実的な理由があったのでしょうか?
ガリレオ温度計 ― 2007年08月26日 21時58分48秒
私がこれを買ったのは、平成の初めころです。その頃、東急ハンズが電車内に目立つ広告を出していたのを覚えています。当時はまだ国内で販売されて間もない頃だったのでしょう。
改めて聞いてみれば、動作原理は至極単純(↓)ですが、ただそれを商品として安定的に生産するまでが一苦労だったと、何かで読んだような記憶があります。
■ガリレオ温度計について考える
http://homepage3.nifty.com/kuebiko/science/freestdy/G_Thermo.htm
(目にした中では、これがいちばん詳しい解説でした。)
当時は非常に新鮮な、理科室趣味の香りがプンプンする道具でしたが、いつの間にかすっかりポピュラーな存在となったようで、
紫陽花褪せ ピンクの芙蓉咲き初めぬ
浮子(うき)すべて沈む ガリレオ温度計 (諏訪兼位)
という短歌が、先日の「朝日歌壇」に載っていました(8月12日付け朝日新聞、馬場あき子氏選)。もはや科学というよりも、文学的な景物となったのだなあ…と、ちょっとした感動がありました。
○ ○ ○
ツクツクボウシが鳴き、気配は少しずつ秋めいてきましたが、まだわが家の浮子は沈みっぱなしです。最初の球が浮き上がるのは気温26度。夏好きとしては、浮いて欲しいような、欲しくないような…。
改めて聞いてみれば、動作原理は至極単純(↓)ですが、ただそれを商品として安定的に生産するまでが一苦労だったと、何かで読んだような記憶があります。
■ガリレオ温度計について考える
http://homepage3.nifty.com/kuebiko/science/freestdy/G_Thermo.htm
(目にした中では、これがいちばん詳しい解説でした。)
当時は非常に新鮮な、理科室趣味の香りがプンプンする道具でしたが、いつの間にかすっかりポピュラーな存在となったようで、
紫陽花褪せ ピンクの芙蓉咲き初めぬ
浮子(うき)すべて沈む ガリレオ温度計 (諏訪兼位)
という短歌が、先日の「朝日歌壇」に載っていました(8月12日付け朝日新聞、馬場あき子氏選)。もはや科学というよりも、文学的な景物となったのだなあ…と、ちょっとした感動がありました。
○ ○ ○
ツクツクボウシが鳴き、気配は少しずつ秋めいてきましたが、まだわが家の浮子は沈みっぱなしです。最初の球が浮き上がるのは気温26度。夏好きとしては、浮いて欲しいような、欲しくないような…。
まだ間に合う!夏休みの自由研究 ― 2007年08月27日 21時10分32秒
(下記サイトより)
今日は珍しく実用記事といいますか、まあこれも季節ネタの1つということで…
▽ ■ △ ■ ▽
ALMA計画(※)のサイトのキッズコーナーに、望遠鏡のペーパークラフトの型紙が載っていました。
★動く! 望遠鏡のペーパークラフト
http://www.nro.nao.ac.jp/alma/J/outreach/papermodel.html
岡山の188センチ反射望遠鏡といったベテランから、すばる望遠鏡やALMA用アンテナなど最新鋭の望遠鏡まで、いろいろ揃っています。
で、このペーパークラフトをパパッと作って、スケール比較用に人間や民家などの模型を添え、さらに望遠鏡のデータ(型紙と一緒に表示されます)を書き写して並べたら、自由研究の一丁出来上がり!という至極お手軽な案を思いつきました。
子供にせがまれたら、このアイデアを提供しようと思ったのですが、彼はすでにオリジナルのフォトフレーム作りに取り組んでいて、しかもそれは仏壇をモチーフにしたものだそうです。むぅ、発想が豊かですな。。。
(※)南米チリのアタカマに、短波長用の電波望遠鏡を80台設置して深宇宙を探査する、日・米・欧共同の国際大型プロジェクト。Atacama Large Millimeter/submillimeter Array(アタカマ大型ミリ波サブミリ波干渉計)の頭文字をとって、アルマと呼ばれます。
今日は珍しく実用記事といいますか、まあこれも季節ネタの1つということで…
▽ ■ △ ■ ▽
ALMA計画(※)のサイトのキッズコーナーに、望遠鏡のペーパークラフトの型紙が載っていました。
★動く! 望遠鏡のペーパークラフト
http://www.nro.nao.ac.jp/alma/J/outreach/papermodel.html
岡山の188センチ反射望遠鏡といったベテランから、すばる望遠鏡やALMA用アンテナなど最新鋭の望遠鏡まで、いろいろ揃っています。
で、このペーパークラフトをパパッと作って、スケール比較用に人間や民家などの模型を添え、さらに望遠鏡のデータ(型紙と一緒に表示されます)を書き写して並べたら、自由研究の一丁出来上がり!という至極お手軽な案を思いつきました。
子供にせがまれたら、このアイデアを提供しようと思ったのですが、彼はすでにオリジナルのフォトフレーム作りに取り組んでいて、しかもそれは仏壇をモチーフにしたものだそうです。むぅ、発想が豊かですな。。。
(※)南米チリのアタカマに、短波長用の電波望遠鏡を80台設置して深宇宙を探査する、日・米・欧共同の国際大型プロジェクト。Atacama Large Millimeter/submillimeter Array(アタカマ大型ミリ波サブミリ波干渉計)の頭文字をとって、アルマと呼ばれます。
賢治の星座早見 ― 2007年08月28日 20時44分47秒
1896年8月27日、宮澤賢治出生―。
昨日は、賢治の111回目の誕生日でした。
生きていれば川寿の賀。ちょっと「天の川」を連想させます。
1日おくれですが、今日は賢治の誕生を祝って、彼にちなんだ星座早見盤を載せます。
★星座早見 上製版
日本天文学会(編)、平山信(監修)、三省堂(発行)
昭和20年第77版(明治40年第一版発行)
賢治の在世時、国内で唯一市販されていたのが、この三省堂の早見盤で、彼はこれを中学生のとき手に入れ、飽かず眺めていたと言います。間違いなく「銀河鉄道の夜」の発想源の1つだったろうと推定される品。私の手元にあるのはずっと後の版ですが、基本的なデザインは明治の頃からから殆んど変りません。
この早見盤については、天体写真家の藤井旭さんも著書で取り上げていました。
■8月29日付記■
「藤井旭さん‘も’」ではなくて、上の記述は藤井氏の受け売りです。失礼しました。
(この項つづく)
賢治の星座早見(2) ― 2007年08月29日 22時39分12秒
〔…〕そのまん中に円い黒い星座早見が青いアスパラガスの葉で飾ってありました。
ジョバンニはわれを忘れて、その星座の図に見入りました。
それはひる学校で見たあの図よりはずうっと小さかったのですが、その日と時間に合せて盤をまわすと、そのとき出ているそらがそのまま楕円形のなかにめぐってあらわれるようになって居り、やはりそのまん中には上から下へかけて銀河がぼうとけむったような帯になってその下の方ではかすかに爆発して湯気でもあげているように見えるのでした。
★ ★ ★ ★
『銀河鉄道の夜』から「ケンタウル祭の夜」の一節。星祭りの宵、時計屋のショーウィンドウに飾られた星座早見盤の描写です。
上の写真は、例の早見盤の中央を拡大したところで、こうした図像を念頭において、賢治は上の文章を書いたのでしょう。黒々とした空。白くけぶる銀河。1羽の白鳥がその星の大河を越えていきます。
さて、説明が前後しますが、藤井旭氏の『賢治の見た星空』(http://mononoke.asablo.jp/blog/2006/11/30/977064)を読むと、賢治とこの早見盤の関係が、以下のように書かれています(153ページ)。
□ □ □ □
星座早見については、弟の宮沢清六さんが『虫と星と』で語られた賢治の思い出話もある。
「丸いボール紙で作られた星座図を兄はこの頃見ていたものですが、それはまっ黒い天空にいっぱいの白い星座が印刷されていて、ぐるぐる廻せばその晩の位置がわかるようになっているものでした」
「印刷されていた」とあるから、賢治が自作したものではなく市販の星座早見だとわかる。それなら話は簡単だ。当時、市販されていた星座早見は三省堂のものが唯一のものだったからである。これは東京天文台内天文学会編になるもので、1907年(明治40年)9月に発売されたものだった。
東京から遠く離れた岩手県に住む当時の中学生が、わずか二年後に手に入れて使っていたとは驚きだが、黒い地に白ぬきのこの星座早見はデザインもよくしっかりしたつくりだったので、賢治が手に入れた1910年ごろには修正第7版が刊行されるほどの人気ぶりだったという。
□ □ □ □
昨日も書いたように、私の手元にあるのは昭和20年10月に出た第77版です。明治、大正、昭和と版を重ねた、大変なロングセラーです。それにしても、食べ物にも事欠くような時代でも(あるいは、だったからこそ?)、星の世界にあこがれる人々がいたというのは、何とも嬉しくかつ頼もしい話!
トロートン望遠鏡…追加情報 ― 2007年08月30日 23時38分31秒
(上野の国立科学博物館に鈍く光るトロートン望遠鏡)
この望遠鏡の由緒来歴がどうもはっきりしない…ということを先日書いたのですが、虎ノ門天文会館でお世話になっている野地一樹さんから、『東京天文台90周年記念誌』という資料を教えていただきました。
で、結論からいうと、この望遠鏡は岩倉使節団と直接の関係はなさそうだということが見えてきました。
以下、多少不得要領ながら、虎ノ門のメーリングリストに書き送ったことを再録します。
★ ★ ★
野地様
たいへん貴重な資料をありがとうございました。
しかしどうも固有名詞が入り乱れて、混乱しそうです。
改めて時間を追って自分なりに整理してみました(〔 〕内はウィ
キペディア等による追加事項)。
●明治の初め、複数の関係者が、編暦業務を遂行するため、新式天
文台の建設を提案していた。
●最初に編暦を担当したのは、文部省星学局(大学内に設置)で、
この星学局を中心とした一派が6,000ドルの予算で赤道儀の購入を
計画した。
●1870年閏10月、星学局は、鮫島少務弁使〔鮫島尚信〕のヨーロッ
パ赴任に合わせて5,000両を託し、赤道儀他の天文機器の購入を委嘱
した。(注:原文では主語がはっきりしません。文脈からは上のよ
うに読めます。)
●〔1871年、鮫島がロンドン着。以後、主にパリにあって外交任務
に当った。〕
●〔1871年11月 岩倉使節団出発。〕
●1872年10月、星学局は、天文機器購入費用の追加として、洋銀
5,000ドルを鮫島あて送金。(注:同上)
●〔1872年末~1873年はじめ、鮫島、パリで岩倉使節団を迎え入れ
る。〕
●〔1873年9月、岩倉使節団帰国。〕
●〔1875年、鮫島、体調を崩し帰国。〕
●1876年2月、編暦業務が文部省から内務省に移管。
●1876年4月、内務省のお雇い外国人、ヘンリー・シャボーが20セ
ンチ赤道儀の購入を建議(見積もり価格900ポンド)。
●〔1878年、鮫島再度ヨーロッパに派遣。1880年、鮫島パリで客
死。〕
●1888年、東京天文台設立。
●1889年4月1日、トロートン望遠鏡が内務省地理局から東京天文台
に移管される(備品台帳上は「購入」と記載)。
■以上から分ること■
①望遠鏡の購入を委嘱されたのは現地の外務官僚であり、岩倉使節
団は同時期に滞欧していたものの、直接の関係はなさそう。
②上記委嘱は1870年の時点で行われたが、その後すぐに望遠鏡が購
入された形跡はない。
③内務省地理局では1876年の時点で、改めて20センチ望遠鏡の購入
を計画している。(即ちトロートン望遠鏡購入の上限は1876年。)
④その結果購入された望遠鏡が、1889年の時点で東京天文台に移管
された。
■依然分らないこと■
①1870年、72年に鮫島宛送られた天文機器購入費用はどうなったの
か?そのまま後のトロートン望遠鏡購入費用に当てられたのか?
②1876年~1889年の、いつの時点で望遠鏡は購入されたのか?その
とき、現地で購入に当ったのは誰なのか?
…といったところでしょうか。 (この項つづく)
この望遠鏡の由緒来歴がどうもはっきりしない…ということを先日書いたのですが、虎ノ門天文会館でお世話になっている野地一樹さんから、『東京天文台90周年記念誌』という資料を教えていただきました。
で、結論からいうと、この望遠鏡は岩倉使節団と直接の関係はなさそうだということが見えてきました。
以下、多少不得要領ながら、虎ノ門のメーリングリストに書き送ったことを再録します。
★ ★ ★
野地様
たいへん貴重な資料をありがとうございました。
しかしどうも固有名詞が入り乱れて、混乱しそうです。
改めて時間を追って自分なりに整理してみました(〔 〕内はウィ
キペディア等による追加事項)。
●明治の初め、複数の関係者が、編暦業務を遂行するため、新式天
文台の建設を提案していた。
●最初に編暦を担当したのは、文部省星学局(大学内に設置)で、
この星学局を中心とした一派が6,000ドルの予算で赤道儀の購入を
計画した。
●1870年閏10月、星学局は、鮫島少務弁使〔鮫島尚信〕のヨーロッ
パ赴任に合わせて5,000両を託し、赤道儀他の天文機器の購入を委嘱
した。(注:原文では主語がはっきりしません。文脈からは上のよ
うに読めます。)
●〔1871年、鮫島がロンドン着。以後、主にパリにあって外交任務
に当った。〕
●〔1871年11月 岩倉使節団出発。〕
●1872年10月、星学局は、天文機器購入費用の追加として、洋銀
5,000ドルを鮫島あて送金。(注:同上)
●〔1872年末~1873年はじめ、鮫島、パリで岩倉使節団を迎え入れ
る。〕
●〔1873年9月、岩倉使節団帰国。〕
●〔1875年、鮫島、体調を崩し帰国。〕
●1876年2月、編暦業務が文部省から内務省に移管。
●1876年4月、内務省のお雇い外国人、ヘンリー・シャボーが20セ
ンチ赤道儀の購入を建議(見積もり価格900ポンド)。
●〔1878年、鮫島再度ヨーロッパに派遣。1880年、鮫島パリで客
死。〕
●1888年、東京天文台設立。
●1889年4月1日、トロートン望遠鏡が内務省地理局から東京天文台
に移管される(備品台帳上は「購入」と記載)。
■以上から分ること■
①望遠鏡の購入を委嘱されたのは現地の外務官僚であり、岩倉使節
団は同時期に滞欧していたものの、直接の関係はなさそう。
②上記委嘱は1870年の時点で行われたが、その後すぐに望遠鏡が購
入された形跡はない。
③内務省地理局では1876年の時点で、改めて20センチ望遠鏡の購入
を計画している。(即ちトロートン望遠鏡購入の上限は1876年。)
④その結果購入された望遠鏡が、1889年の時点で東京天文台に移管
された。
■依然分らないこと■
①1870年、72年に鮫島宛送られた天文機器購入費用はどうなったの
か?そのまま後のトロートン望遠鏡購入費用に当てられたのか?
②1876年~1889年の、いつの時点で望遠鏡は購入されたのか?その
とき、現地で購入に当ったのは誰なのか?
…といったところでしょうか。 (この項つづく)
トロートン望遠鏡…追加情報(さらにおまけ) ― 2007年08月31日 23時05分38秒
(国立科学博物館の威容)
昨日、「この項つづく」と書きましたが、特に続きません(汗)。
現時点では、あれ以上の細かい文献考証はちょっと難しいと思います。
野地さんからは、「この頃日本に来た外国船の積荷台帳が残っていると、案外絞れそうな気もします」というご示唆をいただきましたが、どなたか、その方面に詳しい方のご教示を待ちます。
なお、『東京天文台90周年記念誌』には、引用参考文献は特にあげられていないそうです。
(今回はいささか竜頭蛇尾です。)
昨日、「この項つづく」と書きましたが、特に続きません(汗)。
現時点では、あれ以上の細かい文献考証はちょっと難しいと思います。
野地さんからは、「この頃日本に来た外国船の積荷台帳が残っていると、案外絞れそうな気もします」というご示唆をいただきましたが、どなたか、その方面に詳しい方のご教示を待ちます。
なお、『東京天文台90周年記念誌』には、引用参考文献は特にあげられていないそうです。
(今回はいささか竜頭蛇尾です。)
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