お盆2007年08月10日 22時17分17秒

(夏の主役。さそり座)

いよいよお盆休みに突入です。
その前に仕事をパパっと片付けてきました。
しかし、暑さも厳しく、いささかバテ気味。。。

記事の方はお休みです。

パロマーもの…200インチ鏡のミニレプリカ2007年08月11日 21時32分33秒


パロマーの主鏡を模したこのガラス細工は、「灰皿・兼・コースター」として使える実用的な品です。直径は約8センチ。主鏡の鋳込みを担当した、ニューヨークのコーニング社の土産物です。

主鏡の表面は、当然滑らかな凹面ですが、背面はハニカム状の肋構造を採用しており、このレプリカもそれをデザイン化しています。

 ★  ★  ★  ★

直径200インチ(5メートル)という前人未到の反射鏡を作るためには、その素材から徹底的に吟味する必要がありました。その最終候補がパイレックス・ガラスで、これは熱膨張が極めて小さく、温度変化による鏡の歪み(=像の劣化)をおさえるには打ってつけの素材でした。パイレックスは現在でも耐熱ガラスの代名詞となっていますが、それを最初に商品化したのがコーニング社です。

主鏡の完成は1933年。先日のカーデルさんのページを見ると、この品はその6年後の1939年に、ニューヨーク国際博覧会で売りに出され、当初の品には「1939 NEW YORK WORLD'S FAIR」の文字が入っていて、これはなかなかのレア物らしいです。

私のは当然後の時代のもので、上の表記はありません。またカーデルさんのは4個入りセットですが、私のは1個ずつばら売りされたもので、箱の裏に10セント切手を貼って直接誰かに送れるようになっています。

ともあれ、パロマーゆかりのちょっと面白い品として掲げました。

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さて、明日から3日間、子どもと小旅行に出かけるので、ブログのほうも盆休みに入ります。皆様もしみじみとしたお盆をお過ごしください。

国立科学博物館にて…トロートン望遠鏡2007年08月15日 16時47分11秒


夏の小旅行も終わりました。8月も残り2週間、暑い暑いといいながら、一抹の寂しさを感じる頃です。

さて、今回の旅行は小学生の息子とともに、谷中・全生庵で幽霊画展を見たり、終戦記念日前日の靖国神社を視察したり(*)、なかなか渋い内容でしたが、メインは今春リニューアルオープンした上野の国立科学博物館の探訪でした。

 (*)拍子抜けするほど人も少なく、政治的なアピールも希薄でした。
 マスコミの映像はどうあれ、やはり日本人一般にとってヤスクニは
 既に遠い存在なのだなと納得しました。

とはいえ、我々親子は地球館を見ただけで時間切れ。今回リニューアルした日本館は、1階部分を走り抜けるだけで終わりました。写真はその1階正面にそびえる「トロートン望遠鏡」です。古色のついた鏡筒に風格を感じます。

で、この望遠鏡の素性なのですが、当日はあまりにも慌てていて、肝心の展示パネルを見落としました。公式サイトもまだ「制作中」となっていて確認不能です。ネットで探すと、例えば文化庁のサイトには、この望遠鏡が重文(何と重文なんですね)に指定された際の説明が以下のように書かれています。(1)

 ★   ★   ★

天体望遠鏡(八インチ屈折赤道儀) 一台 国(国立科学博物館保管) 英国製
(法量)全高 三五七・八cm 鏡筒長 二七五・九cm
    鏡筒径 二五・〇cm(最大部) 脚部高 二〇五・四cm

 本機は,当時英国の代表的メーカーであったトロートン&シムズ社の製品で,編暦業務を行っていた内務省地理局の観象台(かんしょうだい)に置かれたが,明治二十一年(一八八八)に天体観測と編暦事業が文部省の所管として統合され,地理局と海軍観象台を併せて帝国大学理科大学所属の東京天文台が設立されたときにその所管となった。その後,同天文台が三鷹市に移転したときにそこに移され,昭和四十二年(一九六七)に国立科学博物館に寄贈された。本機は我が国に輸入された最初の本格的かつ最大の望遠鏡で,近代日本天文学の発展に寄与すると共に,先駆者たちが観測に用いた記念碑的存在である。

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これを読むと、1888年以前に内務省地理局が保有していたことは分るのですが、「いつから」というのがはっきりしません。別の記事を見ると、これは岩倉具視が明治の初め(1871~73)に欧米視察に出かけた際に購入したものだと書かれています。(2)

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 私〔佐治天文台長・香西洋樹氏〕が、東京大学東京天文台に在職中、古びた1台の屈折望遠鏡がありました。口径は8インチ(20cm)。赤道儀の架台に載せられていました。大きな目盛りと重い錘を持つ如何にも古びた機械装置でしたが、そこには「トロートン&スミス」「ロンドン」と記載された銘板が留めつけられていました。この望遠鏡こそ、この岩倉具視欧米視察団が購入し持ち帰ったものでした。1970年代後半まで、この望遠鏡は望遠鏡の光学系は北極の移動を観測する極望遠鏡として、また架台部分は口径30cmの天体写真用レンズを載せて天体写真の撮影に使用されました。しかし、この望遠鏡も観測技術の近代化には付いて行けず、遂にリタイアーして東京上野公園にある国立科学博物館で展示され、往時を偲ぶ文化遺産として残されています。

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これは『米欧回覧実記』あたりに出てくる実話なのか、それとも伝説に類する話なのか、きっと物の本には既に書かれていることだろうと思うのですが、ちょっと情報が見つかりませんでした。ご教示いただければと思います。


【参 考】
(1) 文化庁: http://www.bunka.go.jp/1hogo/main.asp%
7B0fl=show&id=1000007758&clc=1000011213&
cmc=1000007012&cli=1000007707&cmi=1000007721%7B9.html#top
(リンク先URLが長いとレイアウトが崩れるため、途中に改行を入れてあります。改行を外して移動してください。)
(2) 佐治アストロパーク: http://www.saji.city.tottori.tottori.jp/saji103/tayori/tayori154/seminar.htm

国立科学博物館にて…トロートン望遠鏡(フィギュア)2007年08月16日 20時09分48秒


ミュージアムショップでは同館のリニューアルを記念して、ガチャガチャ用フィギュアが売られていました。題して「国立科学博物館カプセルミュージアム」。トロートン望遠鏡の他にも、フタバスズキリュウや、トキ、ヤンバルテナガコガネなど、いずれも日本館の展示に関連した9種のアイテムから構成されています。

販売元は理系グッズショップの THE STUDY ROOM で、原型は老舗の海洋堂が制作しています。

この望遠鏡も、高さは8センチ余りのミニサイズながら、海洋堂ならではの作りこみの細かさに感心させられます(ただし塗装はちょっと雑な感じ)。

人目もはばからずガチャガチャの機械を揺さぶりながら、4回目でやっとゲット。まあそんなに苦労せずとも、ヤフオクに行けばすぐに買えるわけですが、息子と過ごした夏の思い出にと思って、頑張って挑戦しました。結果的に全品重複なしの上々の戦果に親子してニッコリ。

食玩やフィギュアには十分用心しているつもりですが(集め出すときりがないので)、それでも、気のきいたものがあると、つい食指が動きます。(左に写っているのは前に買ったニュートン望遠鏡の食玩です)。

夏の思い出…海藻はがき2007年08月17日 07時23分16秒

(左:標本を貼付した裏面、右:アドレス面)

尋常でない暑さが続いていますが、今日は優美な海藻の押し葉はがきです。

 ○   ○   ○

 実物標本海藻はかき
 相模 三浦半嶋 三崎町 三昧社 製作
 実用新案登録第一三九三七号

 ○   ○   ○

と、古風な書体で書かれています。何ともおっとりしたデザイン。実際、埃っぽい都会を離れて、ひと夏を三浦半島で過ごすことができたのは、戦前にあっては一定以上の階層の人たちだったと思いますが、そうした家の娘さんが、暑中休暇の便りに学友に宛ててこういう葉書を送ったりしたんではないかなあ…とぼんやり想像します。

(この項続く)

夏の思い出…海藻はがき(その2)2007年08月18日 08時06分50秒


優に70年は経っているにもかかわらず、貼付された標本は、どれもかなり鮮明に色が残っています。

 ほそばのとさかもどき 日本特産ナル紅色藻類
  あみぢくさ 褐色藻類 本州普ネクコレヲ産ス
   そぞ 伊予日振島採集 紅色藻ナレト緑色ヲ呈ス

 … … …

説明文の硬質な文体が、目と耳に心地よいリズムを与えます。

眠気を誘う潮騒、磯の香、白砂青松、入道雲。
遠い夏の日の記憶…


■付記■

と、一寸きれいにまとめたところで無粋な話ですが、特許庁のデータベースで過去の実用新案登録を検索できることを知り、さっそく調べてみました(便利な世の中ですね)。それによると、この海藻絵葉書は、明治42年(1909)に東京小石川区在住の江川貞良という人物が出願したものだそうで、70年どころか100年近くも前のものであることが判明。なおのこと時代がしのばれます。

※特許電子図書館(http://www.inpit.go.jp/info/ipdl/service/index.html)から「3.特許実用新案公報DB」に入り、「文献種別=Z、文献番号=13937」を入力し、「文献番号照会」ボタンをクリックしてください。

大正時代の理科少年…『近世科学の宝船』(1)2007年08月19日 17時40分30秒

●高田徳佐(著)『子供達へのプレゼント 近世科学の宝船』
 慶文堂、大正14(1925)、四六版、410頁

これは私が独自に発見したのではなく、ノンフィクション作家の黒岩比佐子さんのブログ↓で教えられた本です。

■古書の森日記/高田徳佐『子供達へのプレゼント 近世科学の宝船』
  http://blog.livedoor.jp/hisako9618/archives/50948562.html
  http://blog.livedoor.jp/hisako9618/archives/50948583.html

見た瞬間「これは!」と思い、さっそく古書検索サイトに当たったら、1冊だけ売りに出ていました。結構な値段だったので、むぅ…と一瞬鼻白みましたが、とにかくこういうものは出会いが肝心。それに何といっても、このタイトルでこの表紙ですから、ここで買わずしていつ買うか!と己を叱咤して購入しました。

黒岩さんの記事を見ると、本来は箱入りで、その箱の一部をくりぬいて窓をうがち、そこから部屋の内が覗かれるという、凝ったブックデザインなのですが、残念ながら私のは箱なしで、表紙絵も擦れて状態は今ひとつでした。

それはともかく、この絵はどうでしょうか。これは大正時代における、理科少年の一種の理想化された部屋だと思いますが、今見ても実に素敵な部屋ですね。薬品壜の並んだ棚からすると、化学好きの少年という設定のようです。

で、内容の方もそれに照応して物理・化学の話が中心で、軍事ネタが妙に多いのも時代を物語っています(生物関係は、同じ「子供達へのプレゼント」シリーズ中の他の巻で、『眼に見えぬ生物の世界』や『生物の発生から進化遺伝まで』というのが、別の作者によって書かれています)。

さて、具体的な内容はまた明日。

(この項つづく)

大正時代の理科少年…『近世科学の宝船』(2)2007年08月20日 20時22分27秒

(扉と口絵-飛行機上から燐火弾攻撃-)

さて、昨日の本の中身です。
著者前書には、対象読者と著者の狙いが以下のように書かれています。

 □   ◆   □

小学五六年乃至中学二三年に学ばれる生気に満ちた子供さん達よ。
〔…〕此の本は、分に秒に進む近世科学の大観を皆さんに紹介しよ
うとする私の随筆であります。僅々二十有八項、もとより近世科学
の宝の一部を載せた一隻の船に過ぎない。併しながら皆さんは此の
一隻の宝船がもたらした科学の知識に興を覚えられて、更に第二、
第三の宝船の入港を待たるゝやうになったならば、これぞやがて我が
国運進展の第一歩であると思ひます。〔…〕

 □   ◆   □

「国運進展」というのが、いわば本書のキーワードで、文中「科学立国のススメ」に類する主張が繰り返し出てきます。ただ、そこはさすが大正時代といいますか、ファナティックな色彩は薄く、素朴かつのどかな空気を感じます。

自身「随筆」と書いているように、内容はかなり雑多です。「化学応用の手品」(コップの水の色を種々変えたり、水の中で炎を燃やしたり…)があるかと思えば、「勇ましき空中戦争」や「水中の魔王、潜水艦」といった軍事技術の発展に目を見張る章もあり、あるいは、この世の秘密を解き明かす「エッキス線」や分光器のまじめな解説の一方に、「原子村の大評定」という戯文(原子村に住む、水銀家、ラジウム家、金家etcの人々が長岡半太郎博士の発見をめぐって議論白熱)がある、といったあんばいです。

そんな中、私が注目したのは「茶目物理君」と「村山正信君」という、二人の理科少年が登場する章節で、その人物造形に、大正期の理科少年のひとつの類型を見ることができるのではないか…と考えています。

(この項さらに続く)

大正時代の理科少年…『近世科学の宝船』(3)2007年08月21日 06時08分49秒

(「講義も聴かずにラッパの口の開いてゐるわけを考へつヾけてゐる」茶目物理君)

昨日の続きです。
この本には「茶目物理君」と「村山正信君」という、二人の理科少年が登場します。二人がどんなふうに描かれているかを見てみます。

 ■   ◇   ■

まず、茶目物理君。彼は「未来の大物理学者を以て自ら任じてゐる 茶目物理君の一日」という章に登場します。その名の通り、茶目っけのある(本人はいたって真面目なのですが、傍から見ると滑稽な)愛すべき少年です。

朝の膳について味噌汁を吹いては、「ウン、これは湯の上の飽和水蒸気を吹き去って比較的乾いた空気の流れを当て湯の蒸発を早める。湯の蒸発を早めるから気化熱が奪れて汁をさますのだナア」と、早速ひとかどの学者を気取って見ます。

その後も、女中のお秋や、旧弊な叔父さんを物理学の知識でやりこめたり(やりこめたと思っているのは当人のみ)、日常些事をことごとく物理的に解釈しては自ら得意になっています。

ところが、この物理君、学校では意外に活躍しません。図のごとく算術の講義も上の空ですし、あまつさえ「理科の時間には大半居眠をしてゐて、実験でも見せられると初めて我に帰ることは帰るが、其の時それが何の実験であるかさへもさっぱり分らずに終わるという塩梅」。

何だか矛盾したような少年ですが、一方的に授けられる知識と、自ら関心を持って学ぶことの違いを、作者はよく知っていたのでしょう。作者は物理君のことを評して、「一体生徒といふものは好奇心の強いもので、物に熱しかけると、つひ馬鹿だと言はれる位に研究的態度を取るものだ」と書いており、モチベーションというものを重視していたことがうかがえます。

 ■   ◇   ■

それに対して村山正信君の方は、名前からして堅物そうで、実際先生からも瞠目される利発さをもった少年です。

遠足に行った先で池に石を放り込んだら波ができた、そこから彼は考えます。「どうも僕には一寸わからん、波の出来るわけが」。そこで幾たびも石を放り、波の動きをじっと観察し、彼は波の基本性質を帰納するに至ります。

水に石を放れば波ができる、では空気中で手を振ったときはどうか。先生に質すと、それは空気に疎密波ができるのだと教わります。彼はさらに琴の糸の振動を観察することで、空気の疎密波は音を生むのではないかと気づきます。ではなぜ手を振ったときは音が出ないのか…?

「成程君は偉い。まだ物理を教はるにだいぶ間があるのによくも気がついたね」。先生は「村山正信が自然界に起る現象を一つ捕へれば一の真理を発見して、尚且十の応用をと試みる彼の非凡な頭脳にすっかり感心」します。

しかし、そんな彼にもやっぱり変人じみたところがあって、仲間からは「理科気違いの綽名を貰って」いましたし、未曾有の関東大震災に遭遇した際には、「六十年を略(ほぼ)一周期として東京を見舞ふ大地震〔…〕が愈々来たわい」と思いつつ、発震時刻と振動方向を観察し、冷静に震源地を推測します。避難の途中、建物が倒壊するのを見ても、「直ぐ運動の定律に思ひを致してこんな時に重い屋根や、重い塀の傷み易いのは当然の事」と、あくまでも科学的態度を失いません。この辺の超然ぶりが、いかにも奇人めいて感じられます。(その科学知識の量からすると、地震に出くわしたのは、音波を考究していた頃よりやや後のことでしょう。)

 ■   ◇   ■

で、この二人の大正時代の理科少年ですが、いずれも単純な優等生(出木杉くんタイプ)というよりは、理科に淫したエキセントリックな少年、一種の「理科馬鹿」として描かれているのが特徴。

そして作者はそれを是として、あくまでも温かい目で描写しています。作者が評価したのは、二人が現象の背後にある法則を理解しようとする態度で貫かれている点で、それこそが理科的態度だとする思想があったのだと思います。この点は、同時代に出た『理科趣味の友』という本のところで書いたこととも一致します。(http://mononoke.asablo.jp/blog/2006/04/29/346744


一昨日紹介した黒岩氏の記事へのコメント(※)によると、著者の高田徳佐は1882年(明治15)の生まれ。東京高等師範学校を出た後、1911年(明治44)から38年間にわたって東京府立一中(現日比谷高校)の先生を務めた人だそうです。

(※)「神保町のオタ」氏による。典拠は『理科教育史資料』第6巻(東京法令出版、昭和62年2月)。

現役の理科の先生が描いた理科少年というわけで、物理君と正信君は、現実に作者の周りにいた生徒たちから発想されたのか、あるいはかつての自分自身をモデルにしたのか、いずれにしてもそこに作者の実体験が反映しているのではないかと思います。

夏の思い出…海藻はがき(おまけ)2007年08月22日 22時00分02秒


あれ?前と同じ記事―と思われたかもしれませんが、よく見ると違います。違うけれどもよく似ている。(http://mononoke.asablo.jp/blog/2007/08/18/1733266


こちらは明治ではなく、平成に作られた海藻はがきで、家の近くの某水族館のショップで買いました。表面がビニールコーティングされているので、10年以上経っても保存状態は非常に良好です。紫外線を避ければ、植物の色合いというのも意外にもつようです。

両者を見比べると、人間の考えることや趣味嗜好は100年やそこらでは変わらんなあ、いや、むしろ変わらな過ぎるほどだ…と、妙な感慨を覚えます。