名和昆虫翁のこと2010年07月11日 20時00分47秒

今日は参院選の投票日。
私のところは小学校の体育館が投票所で、投票に行くたびに、草むす中に立つ百葉箱を眺めたり、理科室の中をチラリと覗いたりして、言葉にならない感興を催すのが常です。(もちろん投票も真剣にしました。)

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さて、昨日のおまけの話題。
写真は、名和昆虫研究所を写した戦前の絵葉書です。


向って左が、明治40年完成の特別昆虫標本室(現・記念昆虫館)で、右側が大正8年にできた昆虫博物館の建物です。標本室の手前、大樹の根元に立っているのは、同じく大正8年に建てられた昆虫供養のための「昆虫碑」。これらの建物と碑は、いずれも建築界の重鎮・武田五一(後に京都帝大建築学科教授)の設計になるもので、建築史的にも貴重な存在。

博物館の運営母体である 「財団法人・名和昆虫研究所」の創設は、明治29年(1896)ですから、すでに100年以上の歴史と伝統があります。

創設者の名和靖(1857-1926)については、とりあえずウィキペディアを参照してください。
ウィキペディア:名和靖 

彼の名前をいちばん有名にしたのが、明治16年(1883)にギフチョウを発見・命名した事績ですが、同研究所は別に優雅に蝶を追っていたわけではなく、害虫防除・益虫保護を目的とした「応用昆虫学」の振興をその目的としていました。

名和の肖像画は、口髭をたくわえ、クワッと虚空を睨む、いかめしい老人の相。名和その人も、「春の女神」と戯れる、夢みがちな人という雰囲気ではないですね。

(↑画像出典:岐阜県歴史資料館

ただし、こういうのは、本当に本当のところは、なかなか傍からは分かりません。
当時も今も、昆虫学を堂々と仕事にするためには応用昆虫学を標榜するほかはなく、内心は根っからの「虫屋」で、「昆虫ロマン派」だったとしても、対世間的には実学的ポーズをとる必要があったのかもしれません。

名和の昆虫への思いを知るために、その処女作 『昆虫世界 薔薇之一株』 (明治30年)を読んだところ、果たしてその真情がよく出ているようでした(この本は、国会図書館の近代デジタルライブラリーで読むことができます)。

本の内容は、名和がまだ岐阜県農学校に在学していた青年時代の経験が下敷きになっています。郷里で祖父が大事にしていた薔薇の木に、沢山アブラムシ(アリマキ)がつくので困る、何とか駆除できないか、そのためにはまず相手をじっくり観察しよう…ということで、名和青年の観察が始まりました。

アブラムシが無性生殖で増える様子、アリとアブラムシの共生関係、クサカゲロウやナナホシテントウ等の捕食者の暮らしぶり、小さなアブラムシのそのまた体内に寄生するヤドリバチの存在。一本のバラを舞台に展開する虫たちのドラマに、名和は深く打たれます。

「以上述ぶるが如く僅に薔薇の一株に於てすら、斯くの如き種々の事実を見出したり。尚能く注意して観察する時は、更に幾多の面白き事実の潜伏するものあらん。是等の研究より漸次広大なる区域に及び、愈々進んで一般生物界の関係をも詳察せば、如何に愉快に如何に有益なるべきやは、到底想像の及ぶべき事にあらず、予は祖父の培養せる庭前の薔薇を害する虫類を除かんと欲して、其種類並に性質を研究する傍、意外にも他に有益なる事実を発見して、生物界の大体をも想像することを得。始めて薔薇の害虫も一概に悪(にく)むべきものにあらず、却て植物をして、下界より上界に遷し、美花を開くに至らしめし大効あることをも知るに至れり。

爰(ここ)を以て仮令(たとへ)目下は有害虫なるにもせよ、直に之を補殺するの念慮を廃し、遂に其侭(まま)に為し置きて他日研究の材料に供したり。噫(ああ)覆載間の事は深遠幽渺にして容易に窺知すべからず。薔薇の一株は真に大洋の一滴のみ。吾等の耳目に触れ、吾等の脳髄に感ずる所のもの、何物か研究の材料たらざらん。観察の宇宙は広く、研究の余地は多し。豈に努めずして可ならんや。」

彼の態度は博物学的であり、そして生態学的でもあります。
生物の網の目が生みだす絶妙のバランスと、それを可能にした進化の神秘。彼は昆虫を切り口に、そうしたものに強く惹かれていったのでしょう。応用昆虫学を表看板に掲げながらも、その関心の的は、「害」も「益」もなく、昆虫の生き様そのものだったように思います。
その点で、彼は確かに「虫屋」には違いないにしても、単なる昆虫採集趣味の徒とは大きく隔たった、ファーブル気質の人でした。

   ★

小西正泰氏の『昆虫の本棚』(八坂書房)によれば、名和靖については、戦時中に2冊の伝記(いずれも子供向けのもの)が出ているそうです。

○平野威馬雄『名和昆虫翁』(学習社、1943)
○木村小舟『昆虫翁・名和靖』(童話春秋社、1944)

彼はずいぶん昔から「昆虫翁」の尊称で、偉人化・伝説化されていたようですね。その点もファーブルっぽい。

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なんだか「おまけ」の方が本編より長くなりましたが、夏なので昆虫の話題に力を入れてみました。

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【余談1】
 かつてNHKが名和のドキュメンタリードラマを作ったことがあるそうです。奥田瑛二が名和を演じたようですが、これはちょっと見てみたいですね。

【余談2】
 ウィキペディアのリンクをたどったら、浅草の大衆演劇場 「木馬館」 の前身は、「通俗教育昆虫館」 という名の昆虫博物館で、その設立者が名和だと書いてありました(明治40年開館)。「えええ!」とビックリ。

コメント

_ じゃんく王 ― 2010年07月12日 21時13分52秒

名和、昆虫、中部、なにか懐かしい記憶がよみがえりネット検索してみましたら
子供の頃布団の中で自作ゲルマニウムラジオで密かに聞いたミッドナイト東海の
ディスクジョッキーをされていた名和秀雄さんの遠縁にあたるようですね。
こちらのブログにおじゃますると思いもよらぬ糸がつながっているようで
楽しくも、なにか不思議な気持ちにさせられます。

_ 玉青 ― 2010年07月13日 19時53分07秒

名和秀雄さんは、名和昆虫博物館の先代の館長さんですね。
その方が深夜放送のディスクジョッキーをされていたことは、今回初めて知りました。ずいぶん多才な方だったんですねえ。

それにしても、自作ゲルマラジオ+布団の中で密かに…というのが、実にいい風情ですね(笑)。ええ、私にもよく似た思い出があります。あれはオールナイトニッポンだったような…

雑然とした記事から不思議な連想の糸がつながり、そこに感興をもよおしていただけるとは、これぞまさに怪我の功名。ブログ主としては嬉しい限りです。

_ 日本文化昆虫学研究所 ― 2010年07月14日 23時07分47秒

 名和靖は,日本の昆虫思想を語る上で重要な人物です.虫送りや駆虫札にたよっていた害虫の発生をたたりとみなす従来の自然観にかわって,害虫を人間の手によって排除すべき対象とみなす新しい自然観をうえつけようと尽力されました.他にも民間の昆虫学研究所が存在していたようですが,名和昆虫学研究所はとくに社会的地位が高く(民間と言っても,半官半民状態だった)存続したみたいです.ちなみに名和昆虫博物館は,館長が名和家の世襲みたいですね.
 おっしゃるとおり,名和靖の関心は昆虫の生き様そのものだったように思いますが,彼の態度には,博物学的・生態学的感覚に加え,功利主義者的感覚も持ち合わせているところが,すごいですね.

_ 玉青 ― 2010年07月15日 22時03分15秒

一知半解で、ちょっと事実と違うことを書いてしまったなあ…と反省しています。
たぶん上の記事は、虫に一途な人は世俗的なことを考えずに、ひたすら虫への愛にあふれ、虫の目線で考えていてほしいという、私の願望の投影でしょう。

日文昆さんは既にお読みと思いますが、名和靖の名を検索していて、瀬戸口明久氏の『害虫の誕生』のことを知り、私も遅ればせながら読み始めたところです。まだ途中読みですが、これは実に面白い本ですね。大いに視野が広がった気がします。

名和靖は、昆虫の生き様もさることながら、「害虫」という新思想を日本に根付かせるために奮戦していた闘士であり、それこそが彼の先進性だったわけですね。「害虫」自体が当時新奇な概念だった…という事実が、私の知識には欠落していました。

今後も、タイムリーなご教示をどうぞよろしくお願いします。

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