貧窮スターゲイザー、草場修(9)…カテゴリー縦覧:天文趣味史編2015年04月10日 06時58分47秒

放浪の草場が流れ着いたのは大阪でした。
府庁前広場で寝ていたところを、警察に浮浪罪で逮捕され…というのは、以前の新聞記事にも書かれていたエピソードです。そして、勾留を解かれ、警察に紹介されたのが大阪職業紹介所でした。

 「やがて彼は「恵比須町衛生組合」と襟に染め抜いた半天を着て、空脛に地下足袋をはいて、毎日溝(どぶ)のそばへこごむようになった。紹介所理事の八浜徳三郎氏などの世話で、同組合の溝さらいになったのであった。」

ここに出てくる、八浜徳三郎(はちはまとくさぶろう)という人を、私は知りませんでしたが、どうもなかなか偉い人で、検索すると「コトバンク」に次のように出てきます。

1871-1951 明治-昭和時代前期の社会事業家。〔…〕「基督(キリスト)教新聞」の編集に従事したのち、関西でまずしい人々に伝道。明治44年開設の大阪職業紹介所の主事、大正10年所長となり、失業者の救済につとめた。〔…〕著作に「下層社会研究」。

草場はその後も、放浪を続けようと思えば、できたはずです。
にもかかわらず、縁のない大阪に根を下ろし、溝さらい人夫という、世間的にはあまりかんばしくない仕事を続けたのは、八浜の徳化が非常に大きかったのではないでしょうか。八浜は、草場が花山天文台に職を得る際も尽力しており、この間交流は続いていたようです。

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その大阪で、彼は1冊の本に出会います。

 「身の振方が落着くと共に「星の名を知りたい」という願望は次第に育って行ったが、或晩夜店で不図目についたのは「山本一清著。星座のしたしみ」という一冊。
 矢も楯も堪らず、ガマ口の底を叩いて早速買って来て貪るように読んだが、それと同時に、「知りたいという願望」は「研究しようという組織的な計画」に発展して行った。」


『星座の親しみ』は、ロマンチックな星座神話と、最新の天文学の知識をうまくミックスした本で、大正10年6月に初版が出て以来、多くの版を重ねた、当時のベストセラーです。


(手元の本は、大正11年9月発行の第13版)

「それは今から七年程前のことであるが…」とあって、草場が本格的に天文修行を始めたのは、昭和3年(1928)頃のことと分かります。当時、彼は28歳。

 「以来、仕事が終ると、毎夜 中の島公園の府立図書館へ出かけ 閉館の十時までそれからそれへと天文関係の本を読んだ。凡(すべ)て読み尽くして、本の番号も内容の大体も諳(そら)んずるほどになった。」

大阪府立図書館(中央、中之島の2館)の蔵書検索(https://www.library.pref.osaka.jp/licsxp-opac/WOpacMnuTopInitAction.do)に当ると、1935年以前の出版物で、件名が天文に分類される書籍は、現在、49冊ヒットします。中には、中国の伝統星座を論じた、『石氏星経の研究』(上田穣著、東洋文庫論叢)のような渋い書籍も含まれますが、草場がそれをも確かに読み、自分の星図に生かしたことは、彼自身が論文で述べています(※)。

(※)この資料は、前回のコメント欄でS.Uさんにご教示いただきました。
草場修、「保井春海と其の子昔尹に就て」、『天界』16巻181号(1936)、pp.252-254.
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/167219/1/tnk000181_252.pdf

他は推して知るべし。もちろん、彼はそれ以外の書籍にも手を伸ばしたでしょうし、その勉強ぶりは実に徹底していたと思われます。

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 「それから帰ってくると観測がはじまる。彼の姿は夜更けの衛生組合事務所の物干の上に蠢(うご)めいていたり、宿泊所の広場に動いていたりした。そばには提灯がブラブラ揺れている。その光を頼りに観測したところを一々星図へ画き込む。
 勿論望遠鏡もなければ製図の器具もない。竹の先に針をつけて上の方をしばったのがコンパスの代用。それから古い三角定規が一枚。それが彼の製図器具であった。」

彼は本を読むばかりでなく、実地の観測にも励みました。
ただし、これを読んでも、草場が実際にどんな手順で星図作成を進めたのかは、よく分かりません。

この記事の筆者である上澤は、裸眼観測の結果を紙に落とせば、自ずと星図は出来上がると思ったかもしれませんが、どんなに鋭眼の観測家でも、座標決定の手段がなければ、どうしようもありません。この辺の事情は、下の記事のコメント欄でも議論したので、興味のある方は参照してください。

■草場星図を紙碑にとどめん
 http://mononoke.asablo.jp/blog/2012/04/21/6420955

※なお、上のページから「草場星図一覧・暫定版」というエクセル表にリンクを張ってありますが、今やったらうまく開けませんでした。いったんリンク先をファイルに保存して、拡張子をxlsに変更したら開けたので、うまく行かない方は試してみてください。

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さて、こうして全部で13枚の星図が出来上がりました。

 「けれどもそれをどうしようという気は別になかった。
 草場君はいう。
 『そうでもしなければ詰らなくて仕方がない。読んで、観て、その結果を書き込んで、だんだん出来て行くのを見るのが楽しみなのです。兎に角自分が知ったことは細大洩らさず書きつけようと思ったのです』と。」

転機はその4年後、昭和7年(1932)に訪れます。

 「三年程前、山本博士が星に関して放送したことがあったが、その時、彼の研究を知っている近所の人がいった。
 『どうだい、お前さんが書いたものを山本先生に見てもらったら。唯書いてしまって置くだけではもったいないよ』
 彼は毛頭そんな気はなかったが、熱心に勧められるので、とうとうその気になった。」

この決意が草場の運命を変えるのですが、ここに可笑しなエピソードがあります。

 「が、第一着物がない。先生の前へ初めて出るのに「恵比須町衛生組合」の半天を着ても行けない。それで新しく貯金をはじめて、大島の着物と、羽織と、それから袴とを新調するまでにはなかなかの日と月が流れた。
 いよいよ十三枚の大きな星図も、羽織袴も出来上がったので、さてそれを抱えて、それを着て、出かけるとなったが、耳が不自由なので一人では覚束ない。近所の人を頼んでついて来てもらった。
 それは一昨年〔昭和8年、1933〕八月末の或日であった。博士は不在だったので、来意を告げて星図を置いて帰ったが、取次に出た女中さんの印象はこうであった。
 『どこか大家の息子さんでもあるでしょうか、立派な召物で、人を連れて来ました』と。」

星図を目にした山本の驚きは一方ならず、さっそく草場を呼び寄せます。

 「そうして会って事情を聞くと、『大家の息子さん』どころか、『耳の聞こえない日傭の溝さらい』なので、博士の感心は驚愕に変って行った。而も性質は善良で、動作は温順なので、驚愕は驚嘆の域にまで上って行った。
 やがて博士が所長となっている京都帝国大学宇宙物理学教室附属の花山天文台に於て開かれた東亜天文学協会の総会席上、その星図が提出されたが、並居る専門家の目を欹(そばだ)たてせないでは置かなかった。」

これが昭和9年(1934)10月20日の出来事で、これ以降のことは、以前の一連の記事に書いた通りです。

ただ、以前引用した新聞記事は、頗る風采のあがらぬ〔…〕中年男が現はれて〔…〕星図を並ゐる天文学者達の前に繰り広げて一同を驚嘆させた(大阪朝日新聞)と、あたかも草場が突如劇的に登場したかのような書きぶりでしたが、実際には、その1年以上前から山本との交流は始まっていたことを、今回新たに知りました。(その後も、草場は何度か花山天文台を訪れ、、昭和9年3月には、東亜天文協会へ正式入会し、10月の総会に備えていた…というのは、これまた前回記事へのコメント欄でHaさんに教えていただいた事実です。)

草場が花山天文台に職を得ることができたのも、この間、山本の薫陶によく耐えたからでしょう。

 「更にうれしい音づれはこの人を見舞った。
 山本博士や八浜職業紹介所理事や其他の人々の配慮と相談によって、花山天文台職員の一人となって、博士指導の下に本格的な星図の作成に取りかかることになったのである。」

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こうして草場の生活が、一応の落ち着きを見せた昭和10年(1935)まで追ってきたところで、今回はいったん筆をおこうと思います。しかし、S.Uさん、Haさんに教えていただいた新知見は他にも多々あるので、それを補遺として、以下に箇条書きしておきます。

(この項、もう1回つづく)