草場星図を紙碑にとどめん2012年04月21日 20時52分52秒

とてもマイナーな話題で恐縮ですが(興味を持たれる方は、日本中で10人以下かも)、草場修氏の偉業を称えて、草場星図の書誌を再整理しておきます。

とはいうものの、いま一つスッキリしません。
識者からのご教示もふまえ、現在分かっている情報をエクセル表に落としてみましたが↓、依然はっきりしない点が多々あります。

草場星図一覧・暫定版(すみません、開くときに警告表示が出るかもしれません)
 http://www.ne.jp/asahi/mononoke/ttnd/kusaba/starmaps.mht
 【4月29日付記】 ver.2.5 を掲載しました。

それぞれの草場星図は、いかにも名称が紛らわしくて、同名異体や異名同体が入り乱れている気配があります。特に「簡易星図」というのが曲者で、何がどれやら、よく分かりません。

とりあえず大雑把に言うと、「草場星図」には、星数1,000(?)の簡易星図と、6,000の標準星図(以上刊本)、32,000の精密星図(手稿のみ)、さらに100万という未完に終わった超精密星図の4つのグレード、ないしバージョンがあったと考えています。

今後、どこかで現物が見つかるといいのですが…。
耳より情報をお待ちしています。

コメント

_ iruka-fu ― 2012年04月22日 06時43分10秒

草場修シリーズ、興味深く拝見しています。草場氏が謎多き人物ならば草場星図もまたミステリアスな存在ですね。
草場星図一覧(暫定版)の労作に敬意を表します。6番の「草場簡易星図」は実際に刊行されたものでしょうか。また、4番と同じものとは考えられますか?

_ 玉青 ― 2012年04月22日 07時39分18秒

大変お世話になっております。
10人に満たぬうちのお一人ですね。(^J^)

6の「草場簡易星図」は版元の出版広告に載ったので(既刊扱い)、実際に販売されていたと思われます。で、これが4の「新版簡易星図」と同じものである可能性は大いにあると思うのですが、何せ「草場簡易星図」については、価格しか判明していないので、決め手がありません。

4の「新版簡易星図」は、星図としてのグレードや体裁は、8の「月刊天象入 簡易星図」と類似しますが、後者は2色刷りで10銭ですから、「新版簡易星図」が単体で販売されていたら、それ以下の価格になるはずで、となると、昭和12年と15年という3年間の時間差はあるにしても、「草場簡易星図」が30銭もするというのが解せず、その辺が悩ましいです。(あるいは、上位バージョンの「草場恒星図」のように別冊解説書か何かを付けて、付加価値を高めていたのでしょうか…)

_ 玉青 ― 2012年04月22日 08時20分07秒

あっと、大変な情報を落としていました!
そもそもの連載の出発点、「貧窮スターゲイザー、草場修(1)」でリンクを張らせていただいた、上村氏のページに「草場簡易星図」の出版広告が載っているのを失念していました。後ほど、一覧表の方を修正しますが、この広告文を読む限り、「草場簡易星図」はほぼ「新版簡易星図」と同じものと判断できそうです。(値段の謎は残りますが…)

_ 霜ヒゲ ― 2012年04月22日 19時53分13秒

暫定版の作成お疲れさまです。

個人的な話で恐縮ですが、
神田版全天恒星図は、なり始めの天文少年の頃に友人から譲り受けたものを地人書館の小島修介氏(この方も興味深い)の月面図と並べて壁に貼り、勉強するふりをしながら飽きることなく眺めておりました。
今でも四隅に画鋲の穴多数のものを保存しております。

草場修氏の人物像も玉青様のお陰でかなりイメージがかなりハッキリとしてきました。
以前akiyan様が発表された抱影翁と青空詩人の関係と並んで山本博士と草場氏の関係もとても興味深いものですね。
あらためて感謝致します。

_ iruka-fu ― 2012年04月22日 20時01分59秒

玉青様、ご教示有難うございました。
星図の名称が似ていることもあって、私自身かなり混乱していましたが、少しずつ分かったような気になってきました。
多くの方に関心を持って頂ければさらに情報量は増えることでしょうね。

_ 玉青 ― 2012年04月23日 06時18分15秒

○霜ヒゲさま

こちらこそ、多くのご助言をいただき、ありがとうございました。
ところで、霜ヒゲさんは、あのAkiyanさんの記事をご存知なのですね。
日本の天文趣味史も、こういうふうに順々に見ていくと、なかなかエピソードに富んでいますね。知られざる快人物はきっとまだまだ多いことでしょう。これからもいろいろな出会いや発見があるかと思うと、本当にわくわくします。
今後も、どうぞよろしくお付き合いください。

○iruka-fuさま

いえいえ、私も一覧表にして、初めておぼろげな全体像がつかめた程度で、それまではひどく混乱していました。皆さんからの情報のおかげで、「草場簡易星図」の実像がかなりはっきりしたのは収穫でした。あとは戦前のスタンダードである「草場恒星図」の実像を、もう少しはっきりさせたいですね。
草場氏のライフエピソードも含めて、情報がありましたら、引き続きどうぞよろしくお願いいたします。

_ S.U ― 2012年04月26日 22時12分15秒

今日見つけた情報ですが、「ボス星表」というのが確かに1937年に出版されているようです。ボス星表の成立・沿革は、

天文月報 1940年2月号
http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1940/contents/contents.htm

にあります。書名は、"General Catalogue of 33342 Stars for the Epoch 1950" です。著者は Benjamin Boss となっていますが、親子で引き継いだ仕事だそうです。したがって、昭和12年に出版の計画があった草場星図(3.(仮称)草場版・改正ボン星図?)は「ボス星表」でよいのかもしれません。

 最初の1.草場オリジナルについては、さっぱりわかりません。「草場氏は今又ボン星図の改正版を画いてゐる。」と村上氏が書いていることから、こちらは本当にボン掃天星表がソースなのかもしれませんし、ボス星表の前身の版だったのかもしれません。

 (別件ですが、私信へのご返事ありがとうございました)

_ 玉青 ― 2012年04月28日 10時01分54秒

ご教示ありがとうございました。
よく見たら、先に引用した『天球と星座』(1936)所収の村上敬信氏の文章にもボス星表のことはしっかり書かれていたので、これは迂闊の上塗りでした。(汗)

そこには、ボス星表について、こう書かれています。
「恒星総目録 これは多くの星表をもとにして編集したものでリーヰス・ボスの予備恒星目録(略してP.G.C)が有名である。〔…〕ボスの総目録は恒星の精密な位置を出すのに最も便利なもので、星図を画く際などに用ひられてゐる。」

PGC(1910)は、その後1937年に出た「General Catalogue of 33342 Stars for the Epoch 1950」(GC)の予備目録という位置づけですが、OAAから出た「5.草場恒星図」の6,133という収録星数は、6,188星を収録したPGCにきわめて近く、基本的にこれに拠ったのかなあ…と想像されます(単純な発想ですが)。

ボス星表のことが分かってみれば、「3.草場版・改正ボン星図」の備考欄に、
「草場恒星図 東亜天文協会発行となって居た図は絶版となり、ボス星表より新しく図示したものが恒星社から出版される筈である」
という、草場氏自身が書いた一文を引きましたが、これは「3.」とは全く別物で、旧来のPGCに拠ったOAA版を、その後新しく出たGCに準拠した新訂版として恒星社から上梓する計画があった(実際に出たかどうかは不明。暫定表には挙げていません)ことを示すものだろうと、これまた想像ですが、今のところそんな風に考えています。


>最初の1.草場オリジナルについては、さっぱりわかりません。

32,000余りという星数からすると、少なくとも7.5等級まで含むソースに拠ったはずですが、大阪府立図書館の蔵書をちらちら見ても、どうも見つかりません。
で、改めて当時の新聞記事を見直したら、自分は重大な事実を見落としていたのを発見しました。以下、大阪朝日・昭和9年10月24日号に載った、草場氏のインタビュー記事より。

「外国のものもストーカーといふ人の造ったのを丸善からわざわざ取りよせてもらって買ひましたが、私は東洋名のもっと完全な星図があってもいいと考へたのが星図をかきはじめた動機ですが… しかし南緯四十度より南は地平線に近く画けませんでした」

草場氏は3巻本のスツーカー星図(Stuker, Stern Atlas, 1924-26)を入手していたという事実(「ルンペン」の草場氏にとって、これは大変な出費だったはずです)と、さらにオリジナルの草場星図は全天用ではなく、赤緯-40度以南が描かれていなかったという事実は、重要な手がかりだと思います。

スツーカー星図は、1900年分点、7.5等級までの30,700の星を16枚の星図に描いたアトラスで、草場オリジナル星図によく似た体裁のものです。また、別冊として天体表が付属したそうです(以上、『新天文学講座1 星座』、恒星社厚生閣、p.182による)。草場星図はこれをお手本に、他の情報を付加して作られたものと想像されます。

「南緯四十度より南は地平線に近く画けませんでした」というのは、ちょっと意味不明な記述ですが、草場氏が参照したソースにその部分のデータが欠けていた可能性もありそうです。

で、ちょっと気になるのは、ボン掃天星表の続編であるコルドバ掃天星表で、http://www.sai.msu.su/gcvs/gcvs/iii/abbrev.txt によると、これは1892年~1932年にかけて以下のような順番で、全5部として出版されたそうです。

1892, Part I : -22 to -32 Degrees
1894, Part II : -32 to -42
1900, Part III : -42 to -52
1914, Part IV : -52 to -62
1932, Part V : -61 to -90

草場氏が参照し得たのが、何らかの事情で第2部までだった可能性はないだろうか…というのが、今はっきりしない頭で考えていることです。

そして、100万の星を描く予定だった「草場版・改正ボン星図」こそ、ボン掃天星表とコルドバ掃天星表を完全な形で合体し、その全天体(足すとちょうど100万ぐらいです)を図示するという、オリジナル星図の究極の進化形だったのではないでしょうか。

_ S.U ― 2012年04月28日 16時21分06秒

おぉ 閑中忙中閑?にお調べご解説ありがとうございます!
蒸し返して、失礼いたしました。どうも性格悪いですね。

外書の星図も参考にしていたのですねぇ。これを買ったからお金がなくなったということもあるかもしれません。また、ボス、ボンの両方の星図の計画があったというのはもっともらしいですね。

でも、1.草場オリジナルの星数の多さはやはりわかりませんね。最南天が含まれていないとするとなおさらです。

 私は混乱するばかりなのですが、ここで、オリジナルについて調べたこと考えたことをまとめてみます。1934年以前に当時3万を超える星数を擁していた星表で、著名な物は、ご指摘のボン掃天星表+コルドバ星表、AGK星表、ヘンリー・ドレーパー星表くらいのようです。でも、これらの星表の日本版が出ていたとか、原書が公共図書館にあったとかあまり考えられません。

 それで、私は、ここ何日かは、草場氏は本当に望遠鏡で観測して星数を稼いだのではないか、と、ちらと考えるようになりました。明るい星--肉眼星数千個までは星表をソースにプロットしたのだけど、7.5等までは自身の観測も入っていたのではないか...

 今回の「南緯四十度より南は地平線に近く画けませんでした」を拝見して、ますます観測していたのではないか、という思いが強くなりました。南緯40度というのは、大阪で観測できる限界なのではないでしょうか。

でも、証拠はないので現時点ではこのくらいにしておきます。現物の星図があれば、星のプロットを1個1個調べればソースがわかるのでしょうが(たとえば、掃天星表や観測の誤りが反映されていたら)、大阪朝日新聞のコピーではそこまではわからないでしょうね。

_ 玉青 ― 2012年04月28日 19時18分18秒

いやいや、どんどん蒸し返してください。
蒸して、蒸して、蒸し切ったところに真実が見えてくるはずです(…閑中忙中閑中忙で脳をやられました。)

>南緯40度というのは、大阪で観測できる限界

あ、なるほど。草場氏が「見て画いた」のであれば、確かにそうなる理屈ですね。
草場氏が本の世界ばかりでなく、自らの目で空を探究していたことの有力な証拠ですね。

>草場氏は本当に望遠鏡で観測して星数を稼いだのではないか

こうなると、最初に引用した、草下英明氏云うところの「ルンペン天文家」そのもので、いっそうその凄味が増す感じです。しかし残念なことに、望遠鏡に関しては、上で引いた大阪朝日のインタビュー記事に次のような一節があります。

「―望遠鏡は?
 『欲しくてたまらんのですが私には買ふ余裕がありません、
製図の図をかくときも竹の先きに針をつけてコンパスの代りにしました、
三角定規だけが唯一の観測器械です―』」

どうやら草場氏の実観測は、ヒッパルコス並みの装備で行われたようなので、観測によって書物の空白を埋めるのは困難そうです。
うーん、どうも謎が深まるばかりでもどかしいですが、状況証拠から私は大胆にこう推理しました。

「草場氏は星表を持っていた」

たとえばボン掃天星表。あれが当時いくらしたのか不明ですが、星表自体は数字の羅列ですし、またデータの占有よりも公開を旨とした出版物ですから、そうべらぼうに高価なものではなかったのでは…という気がします(特殊なものですから、それなりにしたとは思いますが)。

まあ、星表まで行かずとも、ボン星表を元にした「バイエル・グラフ星図」(1925)というのが、「一般の人の手に入るもの」として、村上忠敬氏(すみません、1つ上のコメントでは鈴木敬信氏と名前が混ざってしまいました)の文章中に出てくるのですが、これは星図枚数27枚、9.3等星までの173,000個を載せたものだそうで、草場星図が参照するに足るだけの情報量を持っています。スツーカー星図を買った勢いで、そんなものまで買っていたとしたら、氏のルンペン生活もむべなるかな。いずれにしても、草場氏は丸善を利用する術を知っていたので、先立つものさえあれば、それらを取り寄せることは容易にできたでしょうし、図書館が閉まった後に夜なべ仕事で製図するには、基礎資料が手元にあったほうがずっと便利だったろうという気はします。

中之島図書館の方は、星図に付加する事項(恒星の中国名など天文学史的情報)を調べに通った、ということかもしれません。

(なんだか憶測ばかりで、まるでハーシェル時代の星雲をめぐる議論のようですが、現時点ではやむを得ません。)

_ S.U ― 2012年04月29日 08時17分44秒

詳細の情報ありがとうございます。
 草場氏は「日本のアルゲランダーだったのか」と一瞬胸をときめかせましたがやはり残念。でも「大阪のヒッパルコス」も趣があるかもです。

推測ばかりながらも、推理である程度前進できる状況に入ったように思います。相当蒸しかえってきました。

「南緯四十度より南は地平線に近く画けませんでした」というのを文字通りに受け取ると、草場氏は肉眼で星を観測することから星図の下書きをスタートしたと受け取るしかないのではないでしょうか。つまり、他の星図や星表の数値を見て星図を書き始めたのではない、ということになるのだと思います。もちろん、最終的に正確なプロットや微光星のプロットは星表を利用したことでしょう。 スツーカー星表は、はじめはどこかで見ることが出来たが、貸してはもらえず星図製作の時に常時参照はできなかったのではないでしょうか。

 仕上げの段階になって、外書の最新の星図を手元に置くことが必要になり(現代風の星座境界線、その他の情報を写すため?)、やむなく購入した、というのはどうでしょうか。これは、当時の星図の状況に照らせ合わせて、正しいでしょうか。

 以上まとめますと、大胆な推測によるシナリオですが、(1)肉眼観測で5~6等までの恒星をスケッチ、(2)スケッチを図書館に持って行き星名(バイエル、フラムスティード、中国名など)を識別して記入、(3)星表で6等以下を追加、(4)スツーカー星図から情報を写す という手順だったのではないでしょうか。 仮にボン掃天星表が利用できたとしても、ボン星表は星の等級と位置が並んでいるだけなので、いきなりこれを利用しても一般の星名と対応づけるには極めて不便であったと思います。

http://www.zvab.com/buch-suchen/textsuche/stuker-stern-atlas
によると、スツーカー星図についていた星表は1巻あたり25~35ページということなので、最大でもたぶん6千星程度の肉眼星表ではないでしょうか。草場氏は本当にボン星表を持っていたのかもしれませんね。

_ 玉青 ― 2012年04月29日 09時01分44秒

おお、ほかほか湯気が立ってきましたね。(^J^)
では、今後検証に耐えうるだけの作業仮説が提示されたところで、追加情報を待つことにいたしましょうか。(私は星図作りの基礎の基礎からして無知なので、これ以上蒸し上げる火力が足りません;;)

_ S.U ― 2012年04月29日 17時48分32秒

了解いたしました。それでは、さらなる進展を待ちたいと思います。
 
 ひとつ思ったのは、1934年10月までの草場氏は、本業の余暇と所持金の許す範囲で、星図を趣味として作っていたわけですから、必ずしも合理的な作戦が採用されていたとは限らないことです。したがって、推理もこの間については必ず限界があるものと思います。

 いっぽう、1934年11月以降は、山本一清氏の指揮で、「世界一たる星図の価値に比ぶれば、資料代、草場氏の日当、幾ばくの費えなるぞ」ということだったでしょうから、こちらのほうが解きやすいでしょう。

(業務連絡も、了解いたしました)

_ 玉青 ― 2012年04月30日 07時34分49秒

星は常に万人の頭上にあっても、「星図を自分で作る」という発想はなかなか生まれません。作ろうと思えば、精度を度外視すれば、誰でも自分だけの星図が作れるはずですが。

草場氏はその点、ちょっと変わった思考パターンの持ち主ですね。
世間には広く流通している立派な星図があるのに、それを知ってなお、それに満足できないからという理由だけで、一銭のもうけにもならない(当初はそうでした)星図作りに膨大なエネルギーを注ぐ…。奇人といえば奇人ですし、奇人なればこそ、その星図作りの道筋もちょっと常人では思いつかないものであった可能性は大いにありそうです。

うーむ、改めて素敵な人です。
その末期が杳として知れないのも、かえって星の奇人にふさわしいかもしれません。

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