二廃人、懲りずにオメデタイ話を繰り返す2012年03月01日 20時29分49秒

(今日は字ばっかりです。)

よう、どうだい仕事の方は。
ああ、君か。久しぶりだね。うん、おかげさまで大きなイベントも終わったし、ちょっと一息つけそうだ。

そいつは何よりだ。なのに、なんだか難しい顔をしてるじゃないか。
うーん、今ちょっと部屋のことを考えてた。

部屋って、この部屋のことか。そういや相変わらず散らかしてるな。
うん、前よりもっと散らかってるかもしれない。でも別に散らかしてるわけじゃないよ。自ずと散らかるのさ。

妙なところにこだわるな。
いやいや、「散らかす」のと「散らかる」のとでは大違いだよ。なんせ精一杯片付けようとしても、このありさまなんだから。まあ、僕の努力も多としてもらわなくちゃ。

わかった、わかった。で、その「自ずと散らかる部屋」を、どうにかしようってんだな。
いや、まあどうしようもないけどね

じゃあ考えるだけ無駄じゃないか。
ただね、これからの買い物のことはよくよく考えないといけないと思ってさ。

ほほう、というと。
ちょっと前まではね、この「理科室風書斎」、あるいは「ひとり驚異の部屋」には永久に完成が訪れないと思ってた。つまり永遠の未完成形だと。でもね、この頃はなんだか買うべきものは全て買ってしまったような気がする。

恐ろしいことを、しれっと言うね。そりゃ本気かい。
半ば冗談だけど、半ば本気さ。だってさ、考えてもごらんよ。まずメインとなる天文古玩まわりの品といえば、天球儀と望遠鏡、星図、星座早見、それに天文古書ぐらいだろう。あとはちょっと気張ってオーラリーとか。もちろん、それぞれ数も種類も無数にあるよ。でも、それをずらずら並べれば、それだけいっそう「天文古玩的佳趣」が増すかというと、そうでもないしね。切手集めじゃないんだから、物量それ自体にあまり意味はない。そうは思わないか。

なるほどな。でも、古書についてはそうとも言えんだろう。その道を極めるには、万巻の書が必要じゃないのか?
本気で極めようと思ったらね。でも、僕の場合そうじゃないし。古くゆかしい天文世界をのぞき見ることができれば満足するんだから、一通りの一般書と、ちょっと特色のある本、愛らしい本が幾冊かあれば、それで十分足りるのさ。

ふーん、そんなもんかね。
それに天文古書の世界になじむに連れて分かってきたけど、結構パクリ本も多くてね。彗星にしても、惑星にしても、星雲にしても、迫力のある画像のソースは限られているから、結局みんな似たり寄ったりになるのは止むを得ない。だから、本当に特色のある本は、そう多くはないと思うんだ。ビジュアル面にこだわった天文書というのは、18世紀以前には美麗な星図帖を除けばまれだし、そういう星図帖には、資力の点でハナから縁がない。となると、19世紀の大量印刷本が主な購入対象になるから、そう滅茶苦茶値が張ることもないし、ぽつぽつ気長に買い続けていれば、数年もすればひと通りはそろうものさ。

そう言われると、なんだかもっともらしいな。
まあ、そんなわけでね、選りすぐりの名品とは無縁にしても、それらしいものが居並んでいるぐらいの状態なら、小市民でも何とかできようというものじゃないか。

だけど、お前さんの好きな理科室やら驚異の部屋やらを考えたら、それだけじゃ済まんだろう?
問題はそこさ。でも、ここから先は簡単な算数の応用問題と言えばいいかな。

うん?人をかつぐんじゃないだろうな。四月馬鹿にはひと月早いぜ。
そんなんじゃないよ。確かに天文アイテムだけじゃなしに、博物系アイテムとか、他の理系アンティークとか、いろいろ買い込んで悦に入ろうというのが僕の基本計画には違いないけど、同時に全体の天文濃度があまり下がっても困るんだ。何といっても天文古玩を柱に頑張ってるわけだから。で、さっきも言ったように、天文アイテムの量的上限が決まっているとしたらさ、どうだい、他のアイテムの購入可能量にも自ずとリミットがかかるのは分かるだろう?

濃度ときたか。
そう濃度さ。ディスプレイの密度ということは誰でも問題にするけれど、人の感覚に影響を及ぼすのはむしろ「濃度」だね。その場その場で、溶媒と溶質を適当に定義してやりさえすれば、ムードとか、香気とか、空気感とか、抽象的な言葉を使うよりも、濃度という表現を使ったほうが、はるかに実際的だと思うけどね。

なるほど。「現在の天文アイテム濃度は42%、これを50%まで高めるには、これこれの品を3点追加すべし」とか言うわけだな。
そうそう…。うん、君、いい線ついてるね。やっぱり濃度50%はキープしたいところだね。

でも、俺の好みで言わせてもらえばだ、「濃度」よりも「度数」の方がもっとよかないか。
君はすぐ話がそっちに行くね。でも、悪くない提案だ。ちょうどここにこんなものが…

(この項、ひょっとしたら続く。続かないかもしれません)

春日、望遠鏡、古書2012年03月03日 20時49分43秒

今日はひな祭り。穏やかな春です。
昨日、くしゃみが立て続けに出ました。
そして一晩明けたら、私は突然花粉症患者になっていました。

これまでも、何となく目がかゆいとか、予兆はありました。
しかし、まあそれほどでもなかったのですが、ここにきていきなりの発症です。
鼻水はとめどもなく流れ、喉もいがらっぽいし、しかも悪寒までしてきて、今日は昼からずっと寝ていました。

この間まで、他の人が花粉に苦しんでいるのを見て、何を大げさなと思っていましたが、いざ自分がその身になってみると、実に嫌なものですね。頭がずんと重い。
これ以上ひどくなったら、お医者に行ってきます。

   ★

そんなわけで記事を書くのも物憂く、HDDの隅で見つけた画像を1枚貼っておきます。


■Lucy Taylor,
 Astronomers and their Observations.
 Partridge (London), c1890, 160p.

典型的なヴィクトリア時代後期のブックデザイン。
表紙は可愛らしいんですが、中身はそれほどでもないので、古書としての評価は今一つで、昔のメモを見たら、買い値は15ドルでした。

この写真は、3年前の今頃、我楽多倶楽部のとこさんに撮影していただいたもの。
表紙に当たった陽光がいかにも春らしい。
そう、確かにここには句に詠み込みたいような仲春の諧調があります。

できることなら、理知的で繊細な句をよくした、若いころの芥川龍之介(俳号、我鬼)に詠ませたい。

天文古書と星ごころ2012年03月04日 17時55分16秒

ブックデザインにも、英米、仏、独とお国ぶりがありますが、天文古書に関しては、どうもドイツの本に良書が多い気がします(ここでは、19世紀半ばから20世紀初頭の本をイメージしています)。


■Wilhelm Meyer
 Kometen und Meteore 『彗星と流星』(第7版)
 Franckh’sche Verlagshandung (Stuttgart), 1906, 104p.

上のような、他愛ないペーパーバックでも、その挿絵と文字の配列が何となく心憎い感じがします。

熱帯の空にすっと尾を曳く巨大な彗星。

中身は地味なモノクロページが続くので、それほど見所はありません。

   ★

反対に、いちばんよろしくないのがフランスです。
そもそもフランスは版元装丁の習慣がない(皆無ではない)ので、買った人が好みの装丁を施すわけですが、結局は豪華なモロッコ革でくるんであればそれで良しとする気風があるらしく、贅を尽くした革工芸としての価値は認めるにしても、そこにどれだけ「星ごころ」が盛り込めているかというと、甚だ心もとない気がします。

装丁のみならず、フランスの天文書にはどうも「星ごころ」が乏しい。
フランス語が読めないのに、偉そうなことを言うのも滑稽ですが、それにしても、フランスの人が歴史的事件や人間臭いエピソードを好む傾向は、天文書の挿絵からも容易に感じ取れるものです。

フランス最大の天文啓蒙家、カミーユ・フラマリオンの著作を見ても、「天文学史」や「天文学者」、あるいは「星座神話」をめぐる記述が妙に目立ち、これはもうハッキリ国民性と言ってもいいのではないでしょうか。

   ★

森閑とした無限の世界への夢。あるいは宇宙的郷愁
私がいう「星ごころ」とはそういうものです。賢治や足穂的リリシズムと親和的な、かつ明瞭に超越的(transcendent)な色彩を帯びたものです。

それにいちばん馴染むのが、ドイツの天文古書であるという事実は、たぶんドイツ精神の巨大な水脈である神秘主義思想と関係があるのではないか…というのは、今記事を書きながら思いついたことですが、けっこう正しい気がします。(←話半分に聞いてください。)

少年採集家2012年03月05日 22時21分18秒

今日は啓蟄。
話題が古書づいているので、今日は昆虫にちなんで、こんな古書を本棚から取り出しました。


■松室重行(著) 『少年採集家』
 教養社、昭和18年(1943)

少年をつけ狙う不埒な愛童家のための本ではありません。
副題にあるように「植物・昆虫の採集と標本の作り方」を学ぼうとする少年少女のための本です(当り前です)。

この本は買ってから一度もページを開いたことがなく、今日初めて中身を見たのですが、表紙を開いた瞬間、「あっ!」と驚き、「ああ…」とため息をついたことがあります。
ええ、本当に驚いたので、そのことはもったいぶって明日に回します。

少年採集家(2)2012年03月06日 21時20分01秒

(昨日のつづき)

裏表紙や扉はこんな感じで、実に愛らしい本です。




この本の装丁は、私らの世代もぎりぎりでお世話になった、童画家・初山滋(はつやましげる 1897-1973)画伯が手掛けたもの。そう言われると、この絵の雰囲気には、なんとなく近しいものがあるような…。

しかし、表紙をめくった瞬間、目に飛び込んでくるのは、次のような見返しです。


やや!これは!!
捕虫網に捕えられた米軍機と、虫ピンに刺された英軍機!!

著者・松室氏の文章中に、「連合国を殲滅せよ」と怒号するような激しい字句があるわけではありません(むしろ全篇それとは正反対の優しい調子で書かれています)。
それでは、これはいったいどうしたわけか? 初山画伯の趣味なのか? それとも、戦時下にかような本を出すことに気がとがめた出版社の過剰な配慮か?
まあ、いずれにしても虫を追うのも命がけという感じです。

   ★

話題がどんどん逸れていきますが、先ずは、この本が出た昭和18年(1943)当時の世相と昆虫採集事情について簡単に触れておきます。

(よく分からぬまま、この項つづく)

少年採集家(3)…戦時下の昆虫採集2012年03月08日 05時29分00秒


(↑本の置き方の悪い例。)

漫画家・手塚治虫が、旧制中学時代(※)に書いた昆虫随筆等を編んだ、『昆虫つれづれ草』という本があります(小学館、1997)。そのあとがき部分に、手塚とともに中学校で昆虫採集に熱中した、林久男氏へのインタビューが載っています。戦時下の昆虫少年の生態がわかる大変貴重な文章と思いますので、内容を抜粋してご紹介します。

(※)尋常小学校6年を卒業した男子が入学するのが旧制中学校(女子は高等女学校)。一般に「旧制中学は今の高校に相当する」と言われるのは、課程が5年制だったからで(戦時中は4年制に短縮)、今なら中学1年生から高校2年生に相当する年齢の生徒が在籍した教育機関です。(なお、昔は複線教育ですから、中学校以外にも、高等小学校や実業学校等、進路はいろいろありました。)

   ◆

手塚・林の両氏は、開戦の年(昭和16年)に、12歳で旧制北野中学(現大阪府立北野高校)に入学。入学当初はまだ真珠湾の前ですし、少なくとも中学生の身辺には依然のんびりした空気が漂っていたことが、林氏の回想から読み取れます。

まず当時の昆虫採集の位置づけについて。
〔以下、太字はインタビュアー、青字は林氏〕


― 当時、昆虫採集を趣味にしている中学生はあまり多くなかったわけですね。
林★ セミやトンボを追いかけるようなことは、どんな子どもでもしますよね。それでもその虫は何という種で、どんな暮らし方をしている、なんていう本格的な昆虫採集は、ほとんどだれもしていませんでした。
 〔…〕そのころ登山、カメラ、昆虫採集といったら、西洋からやってきた新しい大人の趣味という感じでした。中でも昆虫採集は、ヨーロッパ貴族たちの優雅な遊びみたいな印象がありまして、私などは大いに魅きつけられてしまった。
― それを本格的にやっていた手塚少年は、大人っぽく見えたんですね。道具などもそろえていて、今でいうと中学生がライカのカメラを持っているような感じでしょうか。
林★ まさにそうですね。


「ライカのカメラ」とは、インタビュアーもうまい喩えを思いついたものです。
「昆虫採集」は「虫採り」とは違う、それは精神においても違うし、何よりも装備が違う…という感覚が当時はあったようです。


― そうして林さんたちは、手塚少年が語る昆虫の世界と昆虫採集という西洋の香り高い趣味に引き込まれていったんですね。
林★ ええ。あれは夏休み直前の7月の土曜日の午後だったと思います。私もとうとう昆虫採集をはじめる決心をして、大阪梅田の阪急百貨店の2階にあった昆虫採集道具売り場に行ったんです。手塚くんもいっしょに来てくれ、「あれがいい、これがいい」と世話をやいてくれました。私は当時1円ほどだった捕虫網や三角紙ケース、毒瓶、標本箱など道具一式を買いそろえました。


これが林氏の「昆虫採集」入門でしたが、師匠格である手塚のそれはまた規模が違います。


 そして翌日の日曜日に、手塚くんの宝塚の家に行ったんです。彼の生家は、そのころ「門から玄関まで電車が走っている」と噂されるほど大きな家でした。噂はオーバーでしたが、庭にクスノキの巨木があったのをはっきり覚えています。訪ねると、私は彼の部屋に通されました。するとビックリ。標本箱の多さに圧倒されてしまった。それに、どの箱も私が前日デパートで買ったボール紙製のものとはちがって、木製のドイツ箱と呼ばれる大型のもので、その中に、きちっと種類別に、たくさんの昆虫が入っていました。蝶や甲虫だけでなく、ハチやアブまでありました。詳しく聞くと、彼は小学校5年生のとき、友人だった石原実くんに感化されて昆虫採集をはじめたという。でも標本の量と質は、2年間で集めたものとは、とても思えませんでした。


林氏の回想する昆虫少年ライフは、関西の富裕層や新興中産階級のそれですから、全国一般に敷衍することはできないでしょうが、実に堂々たるものであり、また羨ましくもあります。そして経済的な面についてばかりでなく、土地柄もまた良かったのです。


― 夏休み前にそんなことがあると、さぞや夏休み中は大変でしょうね。
林★ もう昆虫一色でした。当時私の家が吹田で、私が手塚くんの家〔=宝塚〕に行くことが多かったのですが、箕面や能勢で待ち合わせることもありました。箕面は山岳地帯で多くの昆虫学者を育てた昆虫相が豊かな場所。宝塚から電車で、当時は40分くらいかかったでしょうか。自宅周辺には平地の昆虫がいて、山地の昆虫もそう遠くないところで捕れた。こうした環境は私たちにとって大きかったと思います。〔…〕私はほんの4か月間で完全に虫の虜になってしまいました。


さらに、すぐれた指導者にも事欠きませんでした。


― 当時は現在の理科に替わる「博物」という授業があったそうですが、手塚さんや林さんのような少年は、授業のほうはいかがでしたか。
林★ 植物、動物、鉱物などをひっくるめて「博物」と称していましたが、授業で知らされるような内容は、図鑑や昆虫エッセイのはしりだった小山内龍の『昆虫放談』などを読んでましたから、ものたりなかったんですね。私たちが昆虫について学びにいったのは、もっぱら宝塚のファミリーランドの中にあった「宝塚昆虫館」です。北野中学の先輩には当時の昆虫学界を牛耳っていた、九州大学教授の江崎悌三、京都大学教授の上野益三など優秀な昆虫学者がいました。昆虫館の当時館長だった戸沢信義さんも先輩のひとり。手塚くんはここに小学生のときから通っていたそうです。学芸員だった福貴正三さんと彼は仲がよくて、私たちも頻繁にご指導いただきました。


こういうインフォーマルな人の輪が昔はありました。今も一部にはあるのかもしれませんが、世の先生方はなかなか忙しいので、イベントなどの場を除けば、子供たちの好奇心に正面から応える余裕は多くの場合失われているでしょう。

さて、手塚を中心とする昆虫マニアの少年たちは、中学2年に進級すると同時に、「博物班」という部活動を立ち上げ、さらにそれに飽きたらず、「動物同好会」なる非公式組織を結成し、翌年にはそれを「六陵(りくりょう)昆虫研究会」へと発展改組します。手塚が健筆をふるい、大人びた昆虫随筆を会誌に寄稿していたのは、まさにこの時期のことです。


― 今回復刻することになった『昆虫つれづれ草』をはじめ、一連の『昆虫の世界』など、多くの手作り本が生まれてくるのは、そのころからなんですね。
林★ そうですね。彼は本作りに熱中すると1、2週間で1冊を仕上げました。昭和18年に文部省の教科要目が改定されて、博物学が生物学に変わり、それにともなって「博物班」も「生物班」に名称を変えました。そして私たちは「動物同好会」を解散して「六陵(りくりょう)昆虫研究会」を新たに発足し、もっとレベルの高い研究書を目指して『昆虫の世界』を発行したんです。それもやっばり手塚くんが清書、装丁、製本をひとりでやっていました。


ここまでは実に順調。少年たちは存分に昆虫ライフを楽しんでいました。
しかし、昭和18年、彼らが中学3年生になった頃から、戦争の影は急速に濃くなっていきます。

― そのころになると、第二次世界大戦も激化していきますね。
林★ 昭和18年になると生物班の班員も、ひとり疎開していきました。勤労奉仕もその年には組み込まれ、次第に私たちは学校には行けなくなってしまった。私と手塚くんは別々の工場に配置されて離れ離れ。作ったばかりの「六陵昆虫研究会」も空中分解です。それでもまだ登校日がありましたから、そのときにみんなで会って採集の約束をしたりしていました。翌年になるともっと悲惨で、もうまったく学校に行かなくなってしまった。時代も昆虫採集どころではありません。捕虫網を持って歩いているのを見つかれば、学校の先生や近所の人に非国民扱いですよ。警察も厳しくて「誰何(すいか)」といって職務質問をされてこっぴどく叱られる。そうした中でも私たちは昆虫採集をしていましたが(笑)。


これこそが、今回取り上げた『少年採集家』の出版された当時の空気でした。
昆虫少年にとっては(すべての国民にとっても)まさに受難の時代です。
そして戦局は日増しに悪化していきました。


― 手塚さんも『昆虫つれづれ草』で書いているように、そんな時代をみなさんで呪っていたわけですか。
林★ 18年ころは、そんなでもなかった。むしろ軍人や軍医になって南方に飛んで、熱帯産の珍しい昆虫を捕りたい、とよく話していました。19年になると勤労動員も本格化して学校には1日も行かなくなって、敗色が濃くなるのが私たちにもわかりました。もう明日の命もわからない状況ですからね、将来の夢どころではありませんよ。


少年たちの夢や、ときには命さえも呑み込んで、日本は昭和20年(1945)を迎えます。
このあと、焦土の中から、民主教育の掛け声とともに、新世代の理科少年たちが育っていくことになるのです。

   ◆

引用がものすごく長くなりましたが、以上のような事実を念頭におきつつ、本書の内容を見てみようと思います。

(話を本題にもどし、この項つづく)

「またか」の休日2012年03月10日 21時18分01秒

「またか」と思われるでしょうが、実際「またか」の部屋の片づけ。
6冊分の本のスペースを作るためだけに、今日は1日が終わりました。
無駄といえば、これほど無駄な作業もありません。
でも、仮に広い部屋に移っても、片付けをしなくても済む猶予期間が多少伸びるだけで、いずれ同じ問題に直面するわけですから、ここが踏ん張りどころ。
…とはいえ、消耗することこの上ないです。

今日は3月11日2012年03月11日 08時56分36秒

『少年採集家』を読了。その話はまた別の記事で。

   ★

震災から1周年。メディアも震災一色です。
1年を節目とするのは、誕生日も、命日も、あらゆる記念日がそうでしょうが、これは人の生活意識に、いかに太陽の運行が影響を及ぼしているかということの証左ではありますまいか。


季節の巡りは気まぐれですから、春の訪れには遅速があります。
しかし、太陽が天球上を旅する足取りは(実際に旅しているのは地球の方ですが)はるかに正確です。そして太陽は、今や再び空の同じ位置に戻ってきて、あの日と同じように我々を照らしている…というのが、暦でいう1周年の意味。

とはいえ、グレゴリオ暦も妥協の産物には違いないので、厳密に同じ位置に戻ってくるわけではありません。

あの地震が発生したのは、昨年3月11日、14時46分18秒。
このとき太陽は、赤経23時24分22秒、赤緯-3° 50 ′25″の位置にありました。
今年、太陽が同じ位置に戻って来たのは、昨日(3月10日)の、20時42分39秒のことのようです。(おや?1太陽年は365日より長いはずなのに、1日早いのは変だな?…と、一瞬思いましたが、今年はうるう年でした。例年なら、今日はもう3月12日です。)

私が微酔して、ぼんやり音楽を聴いていた頃、地面の下の太陽は、事もなげにその位置をよぎっていったわけです。
自然とは実に冷厳なものだと思いますが、冷厳と思うこと自体、人間の勝手な思い込みなのでしょう。

ともあれ、今日はあの日以来のことを振り返り、思いを新たにする日です。
この小さな星の、小さな国土の中で、我々は生きるための営みを続けねばなりません。

■(参考) 国立天文台: 太陽の地心座標
 http://eco.mtk.nao.ac.jp/cgi-bin/koyomi/cande/sun.cgi

少年採集家(4)2012年03月12日 21時40分33秒

一通りこの本に目を通しましたが、やはり文中に戦争の影はまったく登場しません。それがむしろ不思議なほどです。序文の日付は昭和18年7月になっているので、開戦前に準備した原稿を、この時期に上梓したわけでもなく、きな臭い中での執筆だったはずですが、著者は一切そのことに触れようとしません。

著者の松室重行という方については何も存じ上げませんが、ネット情報によれば、戦中から戦後にかけて『ヘッセ小品集』や『ハウフ童話集』を訳したり、『医学ドイツ語小辞典』を編んだりした方です。昭和11年当時は、作家・牧野吉晴とともに、美術雑誌「東陽」編集部に在籍していました(http://10tyuutai.blog58.fc2.com/blog-entry-95.html)。

動植物に関する著作は、この『少年採集家』だけですから、要するに採集・標本については素人の趣味の範囲を出ない人だと思いますが、それだけに一層純な思いが本書にはこめられているのでしょう。

   ★

以下、「はしがき」から抜粋。

「近頃、少年少女の皆さんが、熱心に植物の採集や動物の採集を行ふことは、まことに結構なことだと思ひます。
 たゞ、残念なことには、せっかくの採集が永つゞきしないことです。
 すべての皆さんが、大きくなってから、植物学者や動物学者になるといふのではありませんから、いつまでもつゞけて欲しいとは申しません。
 しかし、国民学校の四五年生ではじめたら、中学校の二年生や三年生ぐらゐまではつゞけて、一通り完成した採集標本をつくり上げていたゞきたいと思ふのです。」

この辺は実にリアリスティックですね。「さあ、みんな大学者たらんことを目指せ!」と尻を叩くようなことはせず、途中でやめてもいいから、意味のある採集を目指しなさいと、現実的な助言をしているわけです。

「少年少女の皆さんがする採集だからといって、それがたゞの、いくらかためになる遊びではないのです。さういふ考へ方は悪いと思います。」「採集することが決して目的ではなく、これはたゞ、動植物の知識を得る手段です。これをよく心得てゐて、そして一定の方針を持って採集をすゝめ、標本の保存と鑑賞とを忘れない人が、よく採集をつゞけられるのだと私は思ひます。」「科学する心といふのは、要するに正しい道をふんで、忍耐づよく、どこまでも、ものごとの奥底まできはめて行くといふ不撓不屈の精神のことなのです。どうか皆さんも、この精神を忘れずに、一つりっぱな採集標本をつくり上げるやうに努力して下さい。」

自分に言い聞かせるような強い調子があります。
この時期(ミッドウェーの敗戦からガダルカナル撤退、そしてアッツ島玉砕が続いた時期です)、お上の統制はいよいよ厳しく、知識人も時局におもねる発言が多かったと思いますが、松室氏はそうした言辞を弄することなく、少年少女に専一に正しい科学する心を説いたのは、立派だと思います。そしてまた少年少女を慈しむ目を感じます。

(すくい網採集法を試みる戦時中の少年)

   ★

イントロダクションにあたる第1章「博物採集とは」には、次のような一節があります。

「採集から我家に帰って来て、包を開いて、眺めたり、調べたり、較べたりするたのしさ。特別に美しい標本、珍しい標本、りっぱに仕上げた標本、かういふものを標本箱に入れるときのたのしさ。
 静かな冬の夜ながに、ひとり静かに標本箱をとり出して来て、眺めたり、調べたりして、何度となく新しい発見をして喜ぶたのしさ。」

現実の日本には、すでにこういう喜びが失われていたはずだと思うと、なんだか切ないです。

   ★

さて、その内容ですが、表紙から受ける印象とは違って、著者がいちばん力点を置いているのは植物採集で、過半のページがそれに当てられています。しかも、通常の押し葉だけでなく、種子の標本や樹皮の標本、あるいはキノコやコケや地衣類や藻類の標本作りにまで記述が及んでいて、松室氏の本領が植物趣味にあったことがうかがえます。

その次に昆虫採集の話題ですが、そこでメインとなるのは蝶と蛾で、それ以外の昆虫はごく簡単にしか触れられていません(そして最後に貝のことがチラッと出てきます)。糖密採集法や叩き網採集法など、おなじみの方法も、主に蝶や蛾を採集する方法として紹介されているのが、ちょっと珍しく感じられました。

(中身は文字ばかりのページが多くて地味めです。)

(これは比較的図が多いページの例)

結局、著者は植物と蝶や蛾の熱心な採集家だったと想像されますが、そういう人には生きにくい時勢であったろうなあ…と、ここでもやっぱり思います。

書かれている内容自体は、私が子どもの頃読んだ採集と標本づくりの本とほとんど変わりません。もちろん、時代の流れを感じる叙述もあって、たとえば蝶の幼虫の乾燥標本を作るのに、私自身は「電熱器と茶筒」を使えと習いましたが、昭和18年当時は「アルコールランプと石油ランプのほや」を使うよう書かれています。あるいは、プリザーブドフラワーを作るのに、今だと強力な乾燥剤や機械の力を借りますが、当時は「熱してよく乾燥させた砂」の中に花を埋める方法が紹介されていて、その辺に時代を感じるのですが、でもやっていることは一緒です。採集と標本作りの基本的テクニックは、たぶんこの1世紀ぐらいほとんど変わってないんじゃないでしょうか。

(『少年採集家』より。ランプのほやが登場するのはさすがに古風。)

(これはこれで懐かしい小学館の『採集と標本の図鑑』。昭和45年・改訂第20版より。しかし口でぷーぷー吹くのは、むしろ昭和18年よりも技術的後退か。)

   ★

変わったなあ…と感じるのは、「中身」よりもむしろ「外皮」、すなわち表現形式の方です。

この『少年採集家』には、ごく少数の挿絵しかなくて、ノウハウはもっぱら文字で説明されています。昭和30年代以降、学習図鑑全盛時代になると、こういうのは全編カラーで図解されるのが普通になるので、そこは大きな違いです。父親世代と自分の世代の差はそこでしょう。

ただ、読んでみると分かりますが、文字だけでも意外によく伝わるものです。
戦後の教育者は、カラフルな図解こそが子どもの興味をひきつけるものと頑なに思い込んでいた節がありますが、下手な図解よりも、子どもの心に沁みる文章のほうが遥かに良くはないでしょうか?…まあ、これは私が年をとったせいでそう思うのかもしれませんが。

奇怪なる日本趣味2012年03月14日 22時51分32秒

あまりにも変なので買ってしまった、19世紀末のリービッヒ・カード(※)。
物見遊山に出かけた女性たちが、富士山を望遠鏡で覗いている光景…のようです。
シチュエーションもなんだか変だし、服装も変ですが、そもそもなぜ角隠し?

(※)リービッヒ・カードについては、下記を参照。
  http://mononoke.asablo.jp/blog/2009/08/15/4515029