例の時計屋のこと…カテゴリー縦覧:宮澤賢治編2015年04月13日 22時10分36秒

そういえば、いささか…というか、ずいぶんと旧聞に属しますが、今年の1月末から2月初めにかけて、名古屋のantique Salon さんで「博物蒐集家の応接間」というイベントがあったことを、すでに何度か書きました。

東西の博物系アンティークのお店が一堂に会し、あの antique Salon さんの不思議空間を、いっそう不思議ならしめた9日間でした。

そこに“お味噌”で加わった私が何をしたかというと、銀河鉄道の夜」に出てくる時計屋の店先を、antique Salon さんのショーウィンドウをお借りして再現するという、何と言うんですか、一種のインスタレーション的な展示をさせていただいたのでした。

それまでボンヤリ夢想したことはありましたが、こうすんなり実現するとは、予想もしていなかったので、私の頭はますますボンヤリしてしまい、いきおい展示の方も微妙なものになったと思います。それでも、実に得難い経験でしたし、記録に残しておく意味で、ここに写真を貼っておきます。(会期中は、いろいろな方が写真を撮ってくださったので、もう十分と思いましたが、撤収する直前に「やっぱり…」と思い直して、自分でもパパッと撮りました。)

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まずは、「銀河鉄道の夜」の場面確認から。

 活版所の仕事から帰ってきたジョバンニは、病気で寝ているお母さんのために、牛乳を取りに、再び外に出ます。行方の知れないお父さん、級友のさげすみ、お金の工面…子ども心を曇らせる、数々の出来事の中でも、特に悲しいのは、親友カンパネルラとの心の距離。特にケンカをしたわけでもないのに、徐々に心の隙間が開いてゆく悲しさ…。そんな屈託を抱えて通りを歩いているとき、ジョバンニは、明るく輝くショーウィンドウに気づきます。

 ジョバンニは、せわしくいろいろのことを考えながら、さまざまの灯(あかり)や木の枝で、すっかりきれいに飾られた街を通って行きました。時計屋の店には明るくネオン燈がついて…

(antique Salon さんの入口わきのショーウィンドウ。黒いクロスをかけたテーブルの上に、それっぽくアイテムを並べました。)

(ピンぼけですが、これが全体像)

一秒ごとに石でこさえたふくろうの赤い眼が、くるっくるっとうごいたり…

(赤い眼だとなお良かった。)

いろいろな宝石が海のような色をした厚い硝子の盤に載って星のようにゆっくり循(めぐ)ったり…

(ジェムストーンで作られた惑星が、ゆっくり回るオーラリー。)

(白い壁に落ちる影が、意図せざる効果を生みました。)

(「青い硝子」のイメージを補強するために、天体モチーフの青い文字盤のドーム時計を置きました。左側の懐中時計の裏には、実は機関車が浮き彫りになっています。)

また向う側から、銅の人馬がゆっくりこっちへまわって来たりするのでした。

(「ゆっくり回る」ことはないですが、とりあえず青銅の人馬。青のイメージを更に補強するために、青い銀河の本も並べました。)

そのまん中に円い黒い星座早見が青いアスパラガスの葉で飾ってありました。

(この星座早見はこのブログ初出です。ジョバンニたちが住むであろうイタリアをイメージして、イタリア製の古い早見盤を見つけました。)

 ジョバンニはわれを忘れて、その星座の図に見入りました。
  それはひる学校で見たあの図よりはずうっと小さかったのですがその日と時間に合せて盤をまわすと、そのとき出ているそらがそのまま楕円形のなかにめぐってあらわれるようになって居りやはりそのまん中には上から下へかけて銀河がぼうとけむったような帯になってその下の方ではかすかに爆発して湯気でもあげているように見えるのでした。

(同上拡大。)

またそのうしろには三本の脚のついた小さな望遠鏡が黄いろに光って立っていましたしいちばんうしろの壁には空じゅうの星座をふしぎな獣や蛇や魚や瓶の形に書いた大きな図がかかっていました。ほんとうにこんなような蝎だの勇士だのそらにぎっしり居るだろうか、ああぼくはその中をどこまでも歩いて見たいと思ってたりしてしばらくぼんやり立って居ました。

(当初はグレゴリー式反射望遠鏡のレプリカを置こうと思いましたが、持ち運びに不便なので、20世紀初頭のフランスの(でも本当はイギリス製らしい)屈折望遠鏡に代えました。背景は18世紀のバッカー星図。http://mononoke.asablo.jp/blog/2013/03/28/ )

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こうして振り返ると、何だかんだ言い訳が多くて、完璧な再現には程遠いですが、まあ将来への伸びしろを残したということで、今回は良しとしましょう。

(antique Salonさんに用意していただいたネームカード。会期中は本当にお世話になりました。)


銀河ステーションを定刻発2015年04月14日 22時45分21秒

再びそういえば、昨日の写真に写り込んでいた懐中時計。


これは旧ソ連製だそうで、値段もごく安価なものですが、兎にも角にも裏面のデザインに魅かれて購入しました。


「銀河鉄道の夜」の本文とは、直接関係ないとはいえ、いつか時計屋の店先を再現するときが来たら、是非その隅にそっと置きたいと思ったからです。


それに、いま新らしく灼いたばかりの青い鋼の板のような、そらの野原」とは、おそらくこんな色をしていたんじゃないかと、ふと思ったりします。


そして物語のラスト、息子の死を一見冷厳に告げた、カンパネルラのお父さんの手には、竜頭も折れよとばかり固く時計が握りしめられ、その表面はぐっしょりと汗で濡れていたはずだと思うのです。


第三半球物語…カテゴリー縦覧:稲垣足穂編2015年04月16日 05時42分00秒



足穂の初期作品集、第三半球物語』の復刻版が出ていると知ったのは、わりと最近です。出たのは平成24年10月ですから、はや2年半も前。

復刻を手がけたのは、以前『一千一秒物語』の復刻も出した沖積舎で、そのことはずっと以前に書きました(http://mononoke.asablo.jp/blog/2007/12/09/2495793)。

(二重箱から出した本体)

(カバーを外した裸本の状態もカッコいい)

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ここで足穂の初期作品をおさらいしておくと、第1作品集である『一千一秒物語』が金星堂から出たのは、大正12年(1923)、彼が23歳のときです(その草稿を佐藤春夫に認められ、春夫の書生みたいな形になったのは、その2年前のことでした)。

その後、大正14年(1925)に『鼻眼鏡(新潮社)が、大正15年(1926)には『星を売る店』(金星堂)が出て、さらに昭和2年(1927)に出たのが、この『第三半球物語』です。版元はこれまた金星堂。(ちなみに、金星堂は大正7年(1918)創業の出版社で、今も神保町でそのまま営業している由。あまりその名を聞かないのは、戦後は文学から語学書に方向を転じたからでしょう。)

そして、これらの著作に、翌昭和3年(1928)に出た『天体嗜好症(春陽堂)を加えたものが、初期タルホ・ワールドの構成要素で、いみじくも佐藤春夫が評したように、ココア色の芸術の葉をペーパーに巻き、アラビアンナイトの荒唐無稽を一本のシガレットに封じ込めた」ような作品群です。

(目次より)


上は足穂自ら手がけた口絵、”A Night at a Bar”。
巻頭作品、「バーの一夜」のために画いたもの。


「この中に星が紛れ込んでいる!」の一言で始まった大騒動の結末は…?
下が巻末作品、「星同志が喧嘩したあと」です。


何だかんだ言って、やっぱり洒落てますね。
この「洒落」(fancy & wit)の要素は、足穂に終生ついて回ったもので、賢治にはない肌触りです。

「ユリイカ」 2006年9月臨時増刊号(総特集・稲垣足穂)を読んでいたら、あがた森魚さんが、賢治「20世紀の山村の少年博物学」であり、足穂「20世紀の都市の少年博物学」だと語っているのが目に留まりました。果たしてそこまで簡略化していいものかどうか迷いますが、一方の作品舞台が「森の中に立つ料理店」であり、他方は「都会の街角に立つバー」だと聞けば、たしかにそんな気もします。

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話が脱線しました。
ともあれ、タルホの世界を覗き見るには、当時のオリジナルを見るにしくはなく、タルホ好きにはお勧めの一冊です。

(奥付より。当時は「稲垣足穂」ではなく「イナガキ・タルホ」が正式な名乗りだっようです。)

ソォダ色の少年世界…カテゴリー縦覧:長野まゆみ編2015年04月18日 12時35分57秒

自民党の面々はよくやるなあと思います。
右派の論陣を張るのは、健全な政治活動である限り結構なことですが、その行動面に注目すると、最近はまさに「やりたい放題」で、これは「おごっている」と言われても仕方ないんじゃないでしょうか。おごれる者は何とやら。

現今の政権は、「改革」を目指すのだと言います。
江戸の昔から「改革」といえば「「経済改革」と「文化統制」が2枚看板で、その背骨が「復古主義」だというふうに相場は決まっています。今の「改革」もまさにそんな塩梅ですね。

江戸の改革は、ただちに目に見える効果を挙げようとして、思いつきの政策を乱発した結果、かえって混乱を招き、最後には人心が離れて終息するというパターンをたどったようです。今の「改革」は、財政の緊縮を唱えず、むしろ進んで放漫なことをやっている点が、江戸の改革にはない新味ですが、いっそう刹那的な感じがして、政体の延命を図るよりは、むしろ死期を早めるのに手を貸している観があります。

それにしても、この理科趣味ブログが、こんなエセ政治評論のようなことまで書き付けねばならぬこと自体、今の世の中のおかしさを雄弁に物語るものでしょう。

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…と、かように現実とは中々ムズカシイものです。

しかし、人の心の中に分け入れば、そこには人殺しも、破廉恥漢もいない、いつだって涼しい風が吹き渡り、甘い匂いの漂っている世界が確かにあります(同時にその正反対の世界もあります)。


平成の初め、1991年から92年にかけて出た、長野まゆみさんの「天球儀文庫
「月の輪船」夜のプロキオン「銀星ロケットドロップ水塔」から成る四連作です。


長野作品の定番である、二人の少年を主人公にした物語。
本作では、それぞれアビと宵里(しょうり)という名を与えられています。

二人が暮らすのは、波止場沿いの町。

(イラストは鳩山郁子さん)

物語は夏休み明けから始まり、再び夏休みが巡ってきたところで終わります。
例によって、筋というほどのものはなく、二人の会話と心理描写で物語は進みます。

その世界を彩るのは、ルネ文具店のガラスペンであり、スタアクラスタ・ドーナツであり、プロキオンの煙草であり、砂糖を溶かしたソーダ水です。


学校の中庭で開かれる野外映画会、流星群の夜、銀星(ルナ)ロケットの打ち上げ。
鳩と化す少年、地上に迷い込んだ天使、碧眼の理科教師、気のいい伯父さん…


永遠に続くかと思われた、そんな「非日常的日常」も、宵里が遠いラ・パルマ(カナリア諸島)への旅立ちを決意したことで、幕を閉じます。

宵里が去って数週間後、アビが宵里から受け取ったのは、「手紙のない便り」でした。
それは、どこかでまた「はじめて逢おう」と告げるメッセージであり、アビもあえて返事を書きません。その日が来ることを期待して、二人はそれぞれの人生を再び歩み始める…というラストは、なかなか良いと思いました。


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これはひたすら甘いお菓子のような作品です。
格別深遠な文学でもなく、そこに人生の真実が活写されているわけでもありません。
(いや、真実の断片は、やはりここにも顔を出していると言うべきでしょうか?)

とはいえ―。
お菓子は別に否定されるべきものではありませんし、どちらかといえば、私はお菓子が好きです。

4月の星空…バーミンガムの街から2015年04月19日 11時53分28秒



月替わりの星座巡り。
今月はイングランド中部、バーミンガムから見上げた星空です。


中天高く翔ける獅子。
その後方には大柄な乙女が、輝く麦の穂(スピカ)を捧げて続きます。

「4月の星座。この星図で皆さんは4月中旬から5月中旬までの星を学ぶことができます。皆さんは今、バーミンガムのチェンバレン広場から南の空を眺めているところです。頭上にはおおぐま座が輝いています。」


バーミンガムの緯度は北緯52度。日本の最北端は、公式には依然として択捉島だそうで、その端っこでも北緯45度ですから、それよりも更に北です(52度に達するには、樺太の北部まで行かねばなりません)。

おおぐま座(北斗七星)が、こんなにも高く上るのは、高緯度地方ならではの光景。


それにしても、この星図は子供向けにしては、やけに恒星の固有名が詳しいです。
あるいは、百科事典の本文に説明があるものは、みんな載せているのかもしれません。

北斗七星を構成する、ドゥーベメラクミザールアルコル(添え星)、アルカイド

名前を覚えることは、対象に親しむ第一歩ですし、こういうエキゾチックな響きを持つ語は、きっとイギリスの子供達の憧れも誘ったに違いありません(こういうのがサラッと口をついて出てくると、何となくカッコいいですね)。

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これまた恒例のカレンダーメモ。
今日4月19日は、アメリカ独立戦争の初戦、レキシントンの戦いが始まった日であり(1775)、ベルギーが独立王国になった日です(1839)。ちなみに、昨18日は、ロンドンの自然史博物館がオープンした日(1881)だとか。


Metaphysical Nights…カテゴリー縦覧:フープ博士 etc. 編2015年04月20日 19時59分09秒

メタフィジカル・ナイツ。
形而上学的夜


たむらしげるさんは、透明感を全体の基調としながら、ほのぼのした作品や、上品でお洒落な作品など、いろいろな趣の作品をこれまで生み出してきました。
中でも私が最も魅かれるのが、「硬質な幻想味」を追った作品群です。
1990年に出た、この大判の画文集(28.5×26cm)は、その代表といえるものでしょう。


見開きで、左側には余白をたっぷり取ったショートストーリー、


そして右側にはモノクロのCGイラストが載っています。
あえて色を排したことにより、ぼんやりとした夢の世界を覗き込んでいるような感覚が、いっそう強調されています。


長大な振子の往還とともに世界の誕生と発展を目撃する男の物語、「振子」。


不思議な建物群と、その間を通過する、アルタイルから帰還した宇宙船。
その美しい光景が、次の瞬間には古生代の海に変化する「宇宙船の帰還」。

」、「砂漠の月」、「土星と環」、「水壁」…と、不思議な絵物語は続きます。
これは真夜中の静寂の中で、ゆっくりと、息をひそめて読むのがふさわしい本です。

   ★

版元は架空社。この本にとって、これ以上ないぐらいピタリとくる名称です。
ひょっとして、ブックデザインの一部として、この本のために仮構された出版社じゃないか…と思えるぐらいですが、ちゃんと実在する会社です。

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ところで、久しぶりに本のページをめくっていたら、南伸坊さんが書いたライナーノーツが挟まっているのに気づきました。で、その内容から、またいろいろなことを考えさせられたので、稿を改めて記事を続けます。

(この項つづく)

Metaphysical Nightsによせて2015年04月21日 22時03分40秒



「畏友タムラシゲルへ」と題された、南伸坊さんの文章はごく短いものですが、読んでいて、思わず膝を打つことがありました。以下、引用させていただきます。

畏友タムラシゲルヘ●南伸坊

 若い頃、稲垣足穂の童話が好きだった。それで「一千一秒物語」を絵にしてみたいと思ったのだが果たせなかった。足穂はもともと未来派の画家だから、はじめからその文章が絵になっているのだ。もっとも足穂自身の絵も、作り出したイメージを定着できたわけじゃない。
 果たせなかったと書いたけれども、やってみたわけではない。やる前からダメだと思って、やらなかったのだ。こんなことを書き出したのは、タムラシゲルなら、きっとそうしなかっただろうと思ったからだ。
 タムラシゲルは、自分のつむぎ出したイメージを、絵にすることができる。そうすれば絵に出来たことでしか味わえない、楽しさを人々に与えることができるのである。


伸坊さんは、自身もイラストレーターなので、これは文章の視覚化、あるいは視覚イメージの文章化という点から興味深い足穂論であり、たむら論だと思います。

 タムラシゲルに初めて出会ったのは編集者としてだった。投稿されてきた彼の漫画は、いきなり完成されていた。ハイカラで上品でガンバッテいなかった。私は一目で気に入ってしまったけれども、その頃の雑誌は、もっとアクの強い、青春くさい、むやみに迫力のあるものが求められていたので、たむらしげるの作物は「大人しい」ものと見られていたと思う。
 僕は違った感想を持っていた。タムラシゲルは「大人しい」というよりは「大人っぽい」というのが正しい。落ち着いていて、若い作者にありがちの性急さや、一発ねらいの新奇さというものと遠かった。

これは70年代、伸坊さんが「ガロ」の編集長をされていた時のエピソードです。
私がたむらさんの作品を知ったのも、「ガロ」の版元・青林堂の出版物を通してですから、あまり違和感はありませんが、でも今、改めて振り返ると、<たむらしげるとサブカル>は、かなり異質な取り合わせに思えます。当時は、たむらしげるという存在が、サブカルの世界でしか受容されず、そこでも傍流であった…というのは、文化史的に興味深い事実です。ともあれ、この伸坊さんのたむら評は、実に的確だと思います。

〔…中略…〕タムラシゲルの仕事を形容するのに「少年の心」だの「少年のような」だののコトバを使わないのは、それが失礼にあたると思うからだ。かつては「少年」という言葉に、それを使うことで了解できる世界があった。
 おそらく、その頃に「少年のよう」であることは、バカにされていたからだと思う。いまは誰もが「少年のよう」である。そしてチャチでハンチクな作品が「少年の心」で作られてしまうのだ。
 童心を保っていない作り手などはいないのだし、もっといえば、全ての人はそれを自分の中に持っているはずである。「少年のような」ジャンルがあるというのがおかしい。
 素晴らしいのは幼さではないのだ。直観である。知らない事で見えるような世界。重要なのは知らない事ではなくて見えることである。タムラシゲルが「こうでなくてはいけない」として描いた構図や画面の調子や、空間のイメージがつまり直観である。

これはかなり強い言い方ですが、まったく真実だろうと思います。
「少年のような」という形容が、ただちに褒め言葉になることへの違和感を、これまで何となく感じていましたが、要はこういうことだったのでしょう。

山高きがゆえに貴からず、人もまた少年的であるがゆえに貴からず―。
世間は少年や少女を、少年・少女であるがゆえにもてはやしますが、そもそも少年・少女の何が光を放っているのか…ということは、よくよく考えないといけないと思います。

 今でも、足穂の「一千一秒物語」を好きである。ごくたまに、三年に一度くらいの割り合いで、本棚から引き出して、しばらくボー然とする。同じような本に、このタムラの『METAPHYSICAL NGHTS』はなるはずだ。(1990.10)

またしても「一千一秒物語」。
南伸坊さんがこの一文を書いてから4年後、1994年にたむらしげる画の『一千一秒物語』がリブロポートから出たことは、伸坊さんにとって、まさに快哉を叫ぶような一大事だったはずです。


…というよりも、実はこの出版企画の背後に、伸坊さんのプッシュがなかったかどうか?このたむら版「一千一秒物語」には、前書きも、後書きも、解説も一切なくて、その成立事情が(少なくとも私には)まったく不明でした。でも、今この一文を目にして、何となくそんな気がしています。

旧制高校の青春…カテゴリー縦覧:理科少年編2015年04月22日 21時56分17秒

初夏の日差しを感じる、爽やかな日が続きます。

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さて、今日は理科少年…というか理科青年の話題です。

しばらく前、古い旧制高校のアルバムを見つけました。
蔵王の山ふところに立つ、山形高等学校・理科乙類の昭和2年(1927)の卒業アルバムです。


旧制山形高校は、現在の山形大学の前身の1つ。
同校は大正9年(1920年)の創設ですから、アルバム当時はまだ開学7年目の、依然草創の気分が漂う頃です。

理科乙類というのは、第1外国語にドイツ語を選択したクラスで、英語を第1外国語にした理科甲類に対するものです。アルバムタイトルが「ALUBUM der O.B.」とドイツ語風なのは、そのせいでしょう。


表紙を開くと、校門の向うには雄大な蔵王の山。


若者たちが頭脳を鍛え、笑い、語った学び舎。
山形大学理学部のいにしえの姿です。


大仰な大礼服に身を包んだ校長先生。
左側は、1927年当時の二代校長・葉山萬次郎先生で、右側は、1926年まで初代校長を務めた三輪田輪三先生だと思います(三輪田先生の名をウィキペディアで見たとき、思わず笑ってしまいましたが、もちろんこれはご本人の責任ではありません)。


嗚呼、マントに学帽。絵にかいたような旧制高校風俗。


そしてこのポーズ、いいですね。


何せ、彼らはスキーをするときも、マントに帽子だったのです。


ちょっと不思議な光景ですが、楽しそうですね。


そして彼らは本を読み、


顕微鏡をのぞき、


試験管を手にし、


物理法則を学び、


一夜のうたげの後に、


1枚の寄せ書きを残し、各地に散っていきました。


彼らはその後、どんな人生を送ったのか?
かつて確かにあった青春の1ページ。
それを眺め、人生なるものを思うとき、何だかわけもなく涙ぐましい気分になります。


アルバムの最後の方には、彼らバンカラ学生のロマンチシズムをしのばせる、一輪の花の写真が挿入されています。同校の校章デザインの元になった、高山植物のチョウカイフスマ。

かつての若人の姿は夢のように消え、可憐な花だけが今も変らず鳥海山に咲いている…と想像するのは、何を隠そう私自身のロマンチシズムの表れに他なりません。

こんな理科室もある…カテゴリー縦覧:理科室編2015年04月24日 06時30分43秒


(20世紀初頭の絵葉書)

パリ7区にある、リセ・ヴィクトル・デュリュイ(Lycée Victor-Duruy)の博物学教室。
建物自体は19世紀半ばのものらしく、格別古いわけではありませんが、この教会の内部のような、ゴシック趣味の横溢した円天井の教室には、いかにも瞑想を誘うような、静かなムードがただよっています。と同時に、その内部装飾には女子校らしい華やかさも感じられます。


今、少女たちは教卓に置かれた植物を前にして、しきりにペンを走らせています。
何か先生が問をかけたのか、あるいはスケッチをしているのか、いずれにせよ、こんなところで授業を受けたら、頭脳に注入される知識はさておき、魂にはたっぷりと滋養が与えられることは間違いないでしょう。教育にとって環境はやっぱり大事です。


ときに、窓際の黒いシルエットが全くもって謎。
いったい何でしょう?

甦る昭和の理科室2015年04月25日 17時16分22秒

新緑が目に鮮やかです。
さて、今日は理科室の話題のつづきです。

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現在、各地で古い理科室の消滅が続いています。
しかし、その流れに抗して、荒れ果てた古い理科室を、その歴史的価値に注目して甦らせるという、まことに稀有な、そして素晴らしい試みが現在進行中です。

その理科室とは、かつてこのブログでも何度か取り上げた、滋賀県豊郷(とよさと)町の豊郷小学校旧校舎の理科室です。

下はその壮挙を伝える豊郷町観光協会によるツイート。
https://twitter.com/toyosato_kankou/status/587455816124334080

昭和12年(1937)に完成した旧校舎の理科室は、小学校のそれとしては、当時考えられる限り最も設備が行き届いたものであり、戦後も熱心な先生の努力により、理科備品はますます充実し…ということを以前書いたのでした。

■「けいおん!」の理科室…豊郷小学校旧校舎・理科室(1)

 http://mononoke.asablo.jp/blog/2012/05/12/6443839
 ※以下、「豊郷小学校に見る、昭和の理科教育空間」と改題して(11)まで連載。

その後、旧校舎保存運動が実り、白亜の学舎は再び偉容を取り戻しましたが、見学エリアから漏れた理科室と理科準備室は、埃が厚く堆積したまま、戦前にさかのぼる多くの備品類とともに、かつての栄華をぼんやり偲ばせるだけの状態が続いていました。

しかし、このたび関係者の熱心な努力により、理科室備品の調査と整備が終わり、現在公開に向けて最終調整に入っていることを、上のツイートは告げています。そして何を隠そう、私自身もそのほんの一部ですが、お手伝いすることができたので、そのことを我が事のように嬉しく感じています。

多くの昭和の子供たちの憧れと好奇心を誘い、また怪談の舞台として恐怖せしめた、あのワンダー空間を今ふたたび!