My Dear Caterpillars2015年11月26日 21時59分51秒

昔、さる旧制高校に「青虫(カタピラー)」とあだ名された、非常に篤学の教師がいました。彼は学校の蔵書の充実を図ることに異常な努力を傾け、結果として、同校の図書館はある偏倚な傾向を帯びてはいたものの、特定の専門分野に関しては、大学図書館をも凌ぐ質と量を誇るに至りました。

「青虫」は一種偏屈な奇人と目されていましたが、その驚嘆すべき学殖は、最も怜悧な一群の学生たちにも畏敬の念を起こさせるものがありました。

ある日の深更、「青虫」の殊遇を得て、図書館内の一室に起居する権利を得た学生・黒川建吉のもとを、友人の三輪与志が訪ねます。

―君だね。
と、再び呟きながら、彼は三輪与志の前へ椅子を押しやった。
―青虫(カタピラー)の部屋にはまだ電燈がついているようだった。もう十二時…過ぎではないかしら。
―あ、そう。さっき此処からアキナスの『存在と本質』を持って行ったっけ…。
黒川健吉が傍らに差出した椅子に目もくれず、三輪与志は卓上に拡げられた書物を覗いた。
―『存在と本質』…あれは独訳だったかしら。青虫(カタピラー)はまだ神にへばりついているのかね。
舎監室の気配を窺うように、三輪与志は躯を曲げたまま、顔を傾けた。

この日、二人の共通の友人である矢場徹吾が謎の失踪を遂げ、それから幾年かの後、三輪は癲狂院に収容されている矢場と再会を果たす…というところから、埴谷雄高(はにやゆたか)の形而上小説『死霊(しれい)』のストーリーは幕を開けます。


   ★

とはいえ、『死霊』の内容を今となっては全く思い出せません。
いや、そもそも学生時代にリアルタイムで読んだときだって、全然理解できていなかったと思います。まあ、そこが形而上小説と呼ばれるゆえんなのでしょうが、ただ上に記した冒頭の描写は妙に印象に残っています。

暗い雰囲気の中で延々と続く衒学的な会話と、それを盛る器としての古風な四囲の描写に、若い頃の私はいたく心を奪われ、カタピラーの存在にも微かな憧憬を抱いたのでした。


   ★

本当は『My Dear Caterpillars』と題された、別の本の話をしようと思ったのですが、ゆくりなくも『死霊』のことを思い出し、話題が横滑りしました。肝心の本の話は次回に。

(この項つづく)

コメント

_ S.U ― 2015年11月28日 05時37分46秒

おぉ、懐かしい本が出て来ました。
私も若い一時期、難解な文学を読みたくなった時点があって、この本に挑戦しましたが、数十ページで挫折しました。さっぱり理解できなかったです。(でも、その頃はまだ執筆継続中だったので、いずれにしても読了することは不可能でした。亡くなった今でも正確には未完らしいですね)

 なお、同時期に稲垣足穂の昭和の明石時代以降の作も読んでいましたが、こちらは埴谷雄高と比べると格段に明解でおかげで現在まで愛読しています。

_ 玉青 ― 2015年11月28日 10時23分12秒

S.Uさんもですか。あれはさっぱり理解できないところに、有難味があったですね。
私は全5章の「定本」は一応通読しましたが、その後に出た第6章と第7章はいまだに積読のままです。そして第8章と第9章は手に取ったことすらありません。
内容もさることながら、思うに『死霊』は若書きの生硬な瑞々しさこそが魅力であり、いかに埴谷氏が思想的深化を遂げたとしても、老いの筆であの世界を描破することは困難ではなかったか…と、読んでもいないのに生意気を言いますが、そんな気がしています。

_ S.U ― 2015年11月28日 15時09分56秒

『死霊』はそういう作品だったのですね。知りませんでした。(笑)
また、もう少し年老いて、若気の至りの頃にかえりたくなったら再読したいと思います。まあそういう心境にならない可能性のほうが大きいとは思いますが。

 ときに、私は、カタピラーが出てきた記憶が無く、どうやら途中の章の巻から読み始めたみたいです。古書店で手に取ったのを気まぐれで買ったのでしょう。何か癲狂院に見舞いに行くようなところから始まったような。まあ記憶違いかもしれませんし、どちらみち挫折する運命でしたから大勢に影響はありません。

_ 玉青 ― 2015年11月30日 17時05分50秒

いや、これはS.Uさんの記憶が正しいです。
上の記事は時間軸に沿って少し倒叙していて、原作の本当の冒頭は、癲狂院の門をくぐるシーンから始まり、その後矢場が失踪するエピソードの回想が挟まって、カタピラーはそこに登場します。

…という説明が、S.Uさんの行動に影響を及ぼすとも思えませんが(笑)、まあ機会があれば若気の至りの味を追体験されてください。

_ S.U ― 2015年12月01日 08時41分51秒

ありがとうございます。じゃあ最初から正しく読んでいたのですね。
 最初から読んでいたのかどうかもわからないような大作でした。
最後から1ページずつ後ずさりして読んでも、ページをすべて切り離してシャッフルして綴じなおして読んでも結論は変わらなかったでしょう。
 で、私の『死霊』の本はもう簡単に見られる所には見当たらないのですが、1980年代に古書で入手した物で比較的安価できれいで、玉青さんのお写真と同じようなデザインだったので、『定本 死霊』だとしますと、第5章まで載っていたことになりますがそうでしょうか。4cmくらいの厚さでむちゃくちゃ厚くはなかったです。2段組で字は多かったように思います。最後まで読めるとはとても思えない代物でした。ある意味、お買い得品だったのかと思います。(と思って、いまAmazonで中古本を確認すると、100円、200円程度でいっぱい出ています)

 いずれにしても大勢に影響ありませんが、少しだけ、若気の至りをポジティブに思い出すことが出来ました。

_ 玉青 ― 2015年12月01日 21時04分01秒

あはは。たしかに。
『死霊』に関しては、仮に読んでも読まなくても、その結果が変らなければ、誰もが「読んだ」と主張して良い…なんてことになるかもしれませんね。
ときにS.Uさんがご覧になったのは、間違いなく全5章の定本でしょう(その後は各章ごとに単行本化されたので)。

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