自然は実験精神に富む(後編)2016年06月25日 10時49分47秒

英国がEUから離脱し、世界は大揺れです。
「天の声にもたまには変な声がある」…と言ったのは福田赳夫元総理ですが、同じ感慨を持つ人も少なくないでしょう。

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さて、昨日のつづき。


どうでしょう、これぐらい近づいても、まだ得体が知れませんが、付属のラベルを見れば、その正体は明らかです。


ペルー産のヨツコブツノゼミ
全長5ミリほどの小さな珍虫です。
半翅目(カメムシ目)の仲間で、名前のとおり、セミとはわりと近い間柄です。

これぐらい小さいと、さすがに虫体に針を刺すのは無理なので、いったん台紙に貼り付けて、それを針で留める形の標本になりますが、虫ピンの頭と比べても、いかに小さいかが分かります。

私が最初この標本を見たとき感じたのも、素朴に「小さい!」ということでした。

ツノゼミは、図鑑や本ではお馴染みでしたが、実物を見るのは初めてで、私のイメージの中では、よく見かけるカメムシとか、ヨコバイとか、つまり体長1~2cmぐらいの虫を漠然と想像していたので、実際はこんなに小さい虫だったのか…というのが、ちょっとした驚きでした。


もう1つのケースには、これまた小さなツノゼミ類が4種配置されています。


その身は小なりといえど、いずれも個性豊かな(豊かすぎる)面々です。

   ★

なんで、こんな虫がこの世に登場したのか?
昔の人は、この姿に接して、どんな驚きの言葉を発したのか?

…それが書かれていることを期待して、荒俣宏さんの『世界大博物図鑑(第1巻、蟲類)』を広げてみましたが、英名で「devilhopper(悪魔のように跳ねまわる者)」、仏名で「petit diable(小悪魔)」と呼ばれる辺りに、その奇態さの片鱗が窺えるぐらいで、過去の博物学者の名言や、昆虫民俗学的な記載はありませんでした。(あるいは「悪魔」の名は、農作物に害をなす種類がいるせいかもしれません。)

(荒俣宏(著)、『世界大博物図鑑第』第1巻・蟲類、平凡社、1991より)

しかし、解説文中にフランスの批評家、ロジェ・カイヨワ(1913-1978)の意見が引かれているのが目に付きました。

「〔…〕ロジェ・カイヨワは、そのとっぴでばかげた形は何物にも似ていない(つまり擬態ではない)し、何の役にもたたないどころか飛ぶさいにはひどく邪魔になる代物だとしている。ただし、それにもかかわらずツノゼミの瘤には均整と相称をおもんぱかった跡がうかがえるとし、結論として、ツノゼミはみずからの体を使って芸術行為をなしているのかもしれない、と述べている。」

さらに荒俣氏は、北杜夫さんの『どくとるマンボウ昆虫記』から、もしもカブトムシほどのツノゼミがいたとしたら〔…〕近代彫刻とかオブジェとかいうものもずっと早く発達していたにちがいない。」という一文も引用しています。

   ★

ツノゼミの形態の謎は、結局のところ、今でもよく分かっていないようです。
生物の多様性を、自然の実験精神、あるいは自然の絵心に帰する…なんていう優雅な振る舞いは、18世紀人にしか許されていないかと思いきや、ツノゼミを見る限り、21世紀でも意外にイケるようです。

コメント

_ S.U ― 2016年06月26日 06時58分21秒

へぇ、こんな頭にアンテナの様な物を載っけたセミがいるのですね。
 でも、大きさからいうとヨコバイに近いように見えます。稲作農家にとって、ヨコバイはウンカ、コクゾウムシ(略称・コクゾー(穀象))と並んで最も恐れられていたもので、その中でももっとも数多く目にしたものですので、頭にアンテナが付いていても、身体の感じを見るとあまりよいイメージはしません。
 
 実は、私もこの「写真クイズ」を見て、ここのところトンボ続きだったので、ハッチョウトンボかな、と予想したのですが、はずれました。

_ 玉青 ― 2016年06月26日 10時24分10秒

まあ、カブトムシは無理にしても、せめてツマグロヨコバイぐらいの大きさだったら、思う存分自然の驚異にひたれるのですが、衰えた目をいくらしょぼつかせても、驚異が定かでないのが残念です。

でも、以前うかがったお話によると、専門家には素粒子もサッカーボールぐらいの大きさに感じられるそうですから、驚異を味わう上で、大きさ(小ささ)は本質的な障壁とはなりえず、イマジネーションの力がいっそう重要なのかもしれませんね。

_ S.U ― 2016年06月27日 07時50分57秒

物の大きさをどう評価するのは相対的ですが、素粒子でも星でも存在可能な形態の絶対的な大きさは物理法則に合わせて決まっていることは明白です。このセミ、トンボ、甲虫といったもの(目とか科とか)の大きさのバリエーションも究極的には物理的な制約で決まっていると推測しますが、その同族の最大最小の大きさの比というものに何か普遍的な法則があるものでしょうか。(ひょろっとそんなことを思いつきました。つまらなかったら無視して下さい)

_ 玉青 ― 2016年06月28日 07時22分36秒

>同族の最大最小の大きさの比

これは興味深いですね。答の持ち合わせはありませんが、ぱっと思いつくのは、この問いは「出発点となる或る祖型があって、それが大小両方向にどこまで変異しうるか?」という問題と読み替えることができるんではないか…ということです。

この話題、たしか『ゾウの時間ネズミの時間』で読んだ気がするのですが、どの生物でも出発点はたいてい小さいようです。それは小さいほうが概して生殖サイクルが短く、同時に大量死を前提に大量の子孫を作るという繁殖戦略をとりやすいので、変異の可能性が高く、結果的にあとから振り返ると「祖型」になりやすいということのようです。

となると、主要な問題は、「小」から出発して、どこまで大型化しうるかということで、そもそも生物種の大きさを規定する要因は何か?ということが、上掲書にはいろいろ書かれていた気がします。

(関連して思い出すのは、「島の法則」です。孤立的な島に生息する動物は、みな「中ぐらいの大きさ」になるという経験則で、象のように大きいものは、島的な環境に適応すると急速に小型化し、逆にネズミのような小型動物は大型化するらしいです。哺乳類は皆共通する身体の基本構造を持っていますが、象やネズミは、その基本構造に照らして、かなり無理をして大型化・小型化しているらしく、外敵のない環境に移ると、本来の無理のないサイズに戻る傾向がある…というのも、これまた『ゾウの時間…』で読んだことですが、生物の大小を考えるときに示唆的なことと思います。)

_ S.U ― 2016年06月28日 18時39分44秒

>『ゾウの時間ネズミの時間』
この本は、「たくさんのふしぎ」絵本バージョンでしか見たことがなかったので(こんなものを理解する幼児がいるとは思えないような本)、「島の法則」は初耳で驚きました。
 のびのびと暮らせそうな島国だと、自由に大小に拡散していきそうなものですが、逆に中程度に収束するとはおやっと思った次第です。

 しかし、「無理をして大型化・小型化」というご説明で何となくわかりました。つまり、何も外敵がなくほどほどの資源で心配ごとがなければ原始共産主義で争うこともないのですね。資源が余っているとか足りないとかになると欲が出たり他者を蹴落とす必要が出来て格差が広がるのでしょう。だとすると、現在の日本で(外国でも)問題になっている格差は、人間が社会で相当無理をしている状態なのかもしれません。あたりき車力、間違いなくそうでしょう。

 しかも、資源が豊富な高度成長期ならともかく、このゼロサムゲームの狭い地球で格差がさらに広がっていくというのはいかにも異常で、おそらく本当は原始共産主義に戻るしかないところが、格差が出来た後はそういうメカニズムはめったに働かず、ただひたすら大量絶滅の道に進んでいく運命なのかもしれません。

 素粒子にも「ヒッグス機構」、「南部・ゴールドストーン定理」というのがあって、もともと複数の種類の素粒子が平等(どれも質量なし)であったものが、真空の相転移でそこらの場の自発的対称性が破れると、その影響で、それぞれの素粒子が異なるエネルギーを獲得し、思わぬ格差が出来てしまうということになっております。生物も素粒子から出来ているのでお里は争えないのかもしれません。

_ 玉青 ― 2016年07月02日 08時55分31秒

素粒子において既にかくの如し。況や人間においておや。
なかなか格差問題の根は深そうですね。

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