貧窮スターゲイザー始末…晩年の草場修2018年11月10日 15時57分31秒

ブログを放置して、早ふたつき、みつき。
自身が訪れることもまれになったある日、ふと管理画面に分け入ると、そこに驚くべきコメントが書き込まれているのに気づきました。これはぜひとも周知せねばなりませんので、遅ればせながら、一本記事をまとめることにします。

HN「放物線彗星」さんからお寄せいただいた、その驚くべき情報とは、かつて集中的に取り上げたこともある、草場修という数奇な天文家の事績に関わるものです。

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草場は1900年頃、大分県の生まれ。放浪の末流れ着いた大阪で、どぶさらいの日雇い人夫として暮らす中、独学で星図づくりを学び、その才を京大教授の山本一清に見出され、彼の推挙によって京大に職を得たという、一種のシンデレラボーイです。

(画像再掲。昭和9年(1934)当時の新聞に登場した、法被姿の草場)

貧窮にあえいだ日雇い人夫と天文学の取り合わせも奇抜だし、さらに草場には耳が聞こえないというハンデがあったので、当時のマスコミはこれを一種の「美談」として報じ、一時は世間の注目を大いに集めたのでした。

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ここで資料的な意味から、過去の草場記事の一覧をまとめておきます。
まず、私自身が草場という人物に惹きつけられ、その正体を追った一連の記事があります。


さらにその補遺として、草場が作った星図についてメモ書きしたのが以下です。

■「草場星図を紙碑にとどめん」
http://mononoke.asablo.jp/blog/2012/04/21/6420955

そして、上記の一連の記事から3年後、コメント欄で「烏有嶺」さんに教えていただいた、雑誌のインタビュー記事(昭和10年「婦人之友」誌)を元に、草場の生い立ちを補足したのが、以下の続編です。


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しかし、ここまで追いかけても、草場は依然謎の多い人物で、特にその後半生については、これまでほとんど知られていませんでした。これまでに分かっていたのは、以下のような片々とした情報のみで、彼が戦後どのような暮らしを送ったのか、そしていつ亡くなったのか、皆目不明のままでした。

▼昭和12(1937)山本一清の失脚に伴い、草場も京大を退職。
▼昭和13(1938)東亜天文協会の瀬戸村観測所(広島県)に在籍。
▼昭和17(1942)京都市左京区一乗寺で「草場写真化学研究所」を自営。
▼昭和18(1943)北海道日食観測に遠征。アマチュア天文クラブ「西星会」に所属。
▼昭和21(1946)神田茂の校閲で『新撰全天恒星図』を恒星社厚生閣から出版。

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しかし―。まことにネットの海は広大で、世間には慧眼の士がおいでになるもの哉。
冒頭の「放物線彗星」さんが挙げられた資料は、ある大学の紀要論文で、しかも意外なことに、それは天文学とは縁もゆかりもない、経済学部の教授が記した、ある女性経済人の評伝でした。

■上田みどり
 『Gender学からみる 江副碧 ―リクルート事件を乗り越えて(前編)―』
 広島経済大学研究論集 第38巻4号(2016年3月)pp11-29.

 http://harp.lib.hiroshima-u.ac.jp/hue/detail/1222720160419130110

その評伝の主人公とは、上のタイトルからもお分かりの通り、かつて「リクルート事件」で世間を騒がせたリクルート社会長・江副浩正氏の夫人で、自身も女性起業家として活躍した江副碧氏(1936- )です。

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 上田論文には「エピソード5」として、氏の小学生時代の思い出がこんな風に紹介されています(大元は氏が2005年に「Epic World」誌に寄稿した手記)。時代は、終戦後の1947年、場所は大阪茨木でのことです。

 「その広々とした畑の中、大きな旧家に建て増しをして住むことになったわけだが、庭師が大きな庭石を運んできたり、大工が茶室を作るのを碧は、何時間も飽きることなく見ていた。そんな頃、家の雑用をする男衆として、‘草場のおっちゃん’という人が来た。草場さんは、軍隊で体罰を受けて鼓膜が破れて耳がきこえなくなっていて、碧の家と会社に近いところに建てられた、会社のバラックに住んでいた。家や会社の片付けや雑用をこなし用務員のような役目だった。草場さんは、仕事を終えてから、毎晩バラックの前の草庭に床机を出して、空を見上げていた。手作りの望遠鏡で星を観察していた。」

 江副(旧姓西田)碧氏の父親は、富裕な工場経営者でしたが、戦後の草場は、縁あってそこで住み込みの男衆として働いていたというのです。一時の羽振りを考えると、いささか零落の感は否めませんが、戦後は多くの人が食べるために何でもやった時代ですし、法被姿こそ草場の本領だともいえます。

 「ある晩、碧が横に座ると、草場さんは嬉しそうに言った。「とうちゃん、お星さまをみてもええのか」「うん」とうなづくと、草場さんは星を指しながら星座の説明をし、望遠鏡を渡した。星が大きく見えた。
 草場さんは一生懸命に話してくれたが、碧にはそれを半分も理解できなかった。なぜなら、草場さんは耳が聞こえないので、言葉の発音や抑揚が、明快ではない。それでも、碧は少し分かるような気がして楽しんだ。」
〔…〕
 姉がある日、「草場さんは、星を発見した人やて。とてもえらい人なんよ」と教えてくれた。「そうやさかいに、おっちゃんはお星さまが大好きなんやねえ」と碧は答えた。」

 それにしても、草場の天文趣味は本当に純粋ですね。彼は世に出る手段として星を学んだのでもなければ、人に誇るためでもなく、自分を取り繕うためでもなく、本当に星を見ることが好きで、星を眺め続けた人であったことが、この一節からうかがえます。
 こうして、小さな星仲間を得て、貧しいながらも穏やかな生活が続くかと思えた、草場の戦後ですが、それも長くは続きませんでした。

 「一年位経った頃、草場さんの姿がみえなくなった。すると、「草場さんは具合が悪くて、高槻の老人病院ホームに先週入院したよ。みどりに一目会いたかったと気にしていたよ」とある日、父が話した。「どないしたーん!」と、碧は涙をぽろぽろ流しながら大声で叫んだ。
〔…〕
 それから一ヶ月位して、碧は父から草場さんの調子が悪いらしいと聞き、父が「リンゴを持って行ってあげなさい。そして、これを渡してあげなさい」と封筒を預かった。〔…〕
 草場さんはベッドの中で静かに目をつむっていた。私が汚れてくしゃくしゃになった顔で「おっちゃん!」と呼びかけると、目を開けて碧の顔を慈しむように見て、手で涙をぬぐった。「また,リンゴ持ってきた」と言って、リンゴ一つと父からの封筒を手に握らせたが、いつもと違って草場さんは、とても静かだった。その翌々日、草場さんは、亡くなった。」

 嗚呼、草場修ついに死す。
 戦後の草場の足取りが知れないのも道理で、彼は戦後まもなく世を去っていたのでした。前後の記述を読み比べると、草場が亡くなったのは、1948年のことのようです。
(なお、彼が没した「高槻の老人病院ホーム」というのは不明ですが、ひょっとしたら、吹田の「大阪市立弘済院」(=困窮者向けの医療保護施設)かもしれません。でも、茨木からだと、吹田と高槻は方角が反対です。)

   ★

まこと、貧窮スターゲイザーの名にふさわしい晩年であり、その死です。
それでも、彼が完全なる孤独の内に亡くなったのではなく、むしろ周囲の人の記憶に長くその姿をとどめていたことに、改めて深く心が慰められる思いがします。

末筆ながら、貴重な情報をご教示いただいた「放物線彗星」さんに改めて御礼申し上げます。

(この項、6年越しで完結)

コメント

_ double_cluster ― 2020年08月29日 11時01分52秒

草場修氏の記事、たいへん興味深く拝見しました。聴覚障害や困窮の中、星を友として星図を完成させた草場氏の姿に感動しました。私も、昭和初期の天文家、アマチュア天文家からたくさん教えられています。また、訪問させていただきます。よろしくお願いします。

_ 玉青 ― 2020年08月29日 11時37分34秒

double_cluster さま

こんにちは。コメントありがとうございます。
ご覧のとおり取り散らかしておりますが、懲りずにお越しいただければ幸いです。
またお立ち寄りの際は、いつでも気軽にお声がけください。

double_clusterさんのサイト「中村要鏡とクック25cm屈折望遠鏡」も拝見しました。
1枚の中村鏡に始まる、在りし日の天文家たちとの濃密な交流の記。当方こそじっくりと拝読させていただきたく思います(実は強い既視感があったのですが、以前拙ブログで話題にした「六甲星見台」の歴史を最近も追っていて、その際、当該記事を拝見しておりました。萑部守子氏の写真とスケッチに強い印象を受けました。)

それでは今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

_ double_cluster ― 2020年08月29日 16時56分24秒

玉青様
ご返信をありがとうございます。中村鏡との出会い、伊達英太郎氏が残された写真や資料の数々との不思議な縁、私にとっては現代に生き続けていることのように感じています。細々とではありますが、中村鏡による観望記録、そして戦前の天文同好会・東亜天文協会に連なる方々のことを、これからもブログで発信し続けていきたいと思っています。今後共、どうぞよろしくお願いします。

_ 玉青 ― 2020年08月30日 08時18分47秒

何事も縁あってのこと。
こうして新たなご縁をいただいたことに、改めて感謝しつつ。。。<(_ _)>

_ double_cluster ― 2022年02月11日 17時15分42秒

玉青様
大変ご無沙汰しています。草場修氏のこと、ずっとずっと気になっていました。乏しい内容ですが、写真は貴重と思い、拙ブログに掲載しました。ご覧いただければ幸いです。https://double-cluster2018.amebaownd.com/posts/32341504

_ 玉青 ― 2022年02月12日 11時23分18秒

ブログを拝見し一驚しました。
何せ草場氏の鮮明な写真を見るのも初めてのことで、氏の存在がぐっと身近に感じられました。しかも、草場氏がほほ笑んでいる!…もちろん人間なので、草場氏がほほ笑んでもいいのですけれど、私にとって草場氏はやたら苦労人のイメージがあって、あのように仲間と語らい、穏やかで楽しい時を過ごされている氏の姿を見るにつけ、こちらまで無性に嬉しい気分になりました。

それにしても見どころ読みどころ満載のブログに再びみたび驚いています。
すばらしいブログ、すばらしいその書き手との出会いに、改めて感謝いたします。
引き続きどうぞよろしくお願いいたします。

_ double_cluster ― 2022年02月12日 16時32分04秒

玉青様
ご返信をありがとうございます。日頃お褒めに与ることがあまりないので、恐悦至極の気分です。励みになります。ありがとうございます。
ところで、草場氏は約50歳、伊達英太郎氏は約43歳、前田静雄氏は約38歳、中村要氏に至っては28歳。それぞれ今の時代で考えると、とても短い年月で人生を閉じられました。貴重な貴重な中村要鏡や伊達英太郎氏の資料を預かる者として、それらの先達の遺志に沿うよう、これからも活用・公開を心掛けていきたいと思っています。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

_ double_cluster ― 2022年03月06日 10時49分53秒

玉青様
新発見がありましたので、お知らせします。当ブログでご紹介した、東亜天文協会のハイキング写真に、草場氏と思われる人物が写っていました。以前の写真と背広が同じです。黄道光課回報には、草場氏の自筆のメッセージがありました。よろしければ、ご覧下さい。

_ 玉青 ― 2022年03月09日 19時49分33秒

お返事が遅くなり、失礼いたしました。貴重な写真、早速拝見しました。いやあ実に心温まる写真ですね!その筆跡もまた草場氏の人柄を肉付けする貴重な資料と思います。だんだん草場修という人物が、生き生きとした明瞭な像を結んでくるようで、ドキドキわくわくしています。

_ double_cluster ― 2022年03月10日 07時17分27秒

玉青様
ありがとうございます。草場氏の写真での立ち位置を見ると、当時一目置かれる存在だったのが分かりますね。タイムカプセルのような伊達英太郎氏の資料、またじっくり発掘してみます。

_ 玉青 ― 2022年03月13日 09時17分03秒

まさに宝の山ですね!続報を心待ちにしています。

_ S.U ― 2023年03月19日 07時22分37秒

草場修氏の最晩年の著作と見られる論文「続宇宙線の発生源の予言」の別刷りを探索しています。
 研究機関の協力を得て、国立国会図書館に問い合わせましたところ、回答を得ました。この質問と回答は、国会図書館のWEBで公開されましたので、ここに引用します。

https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000329613

残念ながら、ここにリストされている図書館等には登録されていないということです。この回答で、草場修の住所・所属に相当するところが(高槻)になっているのは、御ブログ本件の江副碧氏の手記にある草場の入院先と合致している点で注目されます。

 なお、追加の情報ですが、京都大学花山天文台によれば、「山本天文台資料」中には存在するものの、資料の保管場所が未整理のため、現在すぐに出てくる状況ではないそうです。また、国立国会図書館の「納本週報」によれば、本文献が国会図書館に納本された可能性はあるものの登録記録がないので、書庫にある可能性はあっても所在不明ということです。

 ご協力をたまわりました関係機関に感謝申し上げます。

 なお、この草場修著「続宇宙線の発生源の起源」は、1955年に別刷りが発行されたようですが、これは、草場修が1948年頃に亡くなっていることと矛盾します。この矛盾を解くべく、江副碧氏の手記(「遠い日の光景」、「エピックワールド」に10回連載)の全文を検討しましたが、草場修の死去は、碧氏の実母が亡くなった1946年12月のあと2~3年の記憶として連続的に記載されていて、それによれば草場の没は1948年か1949年の12月であり、この時、碧氏は小6ないし中1の学年に相当しますので、この手記内容に大きな間違いはないと推定されます。草場の没後、数年を経て、遺稿を別の人が出版したものと考えます。

 この草場の最晩年のあたりの経緯については、現在調査続行中で、まだまとめていません。宇宙線観測をしていた物理学者の竹内時男との関係について、最近、以下にまとめました。

 http://seiten.mond.jp/gt69/kusaba_takeuchi.htm

_ 玉青 ― 2023年03月19日 11時12分05秒

こうなると、幻の草場論文を是が非でも見たくなりますね。今のところ「山本天文台資料」を探るしか手はなさそうですが、整理の進捗はどうなっているんでしょう。まあ、現物を見たらガッカリ…なんていうオチもありがちですけれど、それにしたって見ないことには話が始まりません。何か算段はないものでしょうか。
それにしても、没後70年以上を経て、なおもこうして人々の心を引き付けるところが、草場という人の人徳なのでしょうね。

_ S.U ― 2023年03月19日 11時40分04秒

>「山本天文台資料」
 現在、資料の管理部門は京都大学宇宙物理学研究室になっていて、今回の調査もそこでお世話になりましたが、資料は一時的な公開を終えて花山天文台に戻されたと聞いております。公開期間中に申請すればよかったのですが、間に合いませんでした。これまでに至る調査は、花山天文台のOBの方が協力されたことと思います。

 今後は、一般財団法人花山宇宙文化財団のほうで、花山天文台に関係する方々が、天文台内に資料室の設置を目指しておられるようです。
https://fields.canpan.info/organization/detail/1008502757

短期的目標
(4)上記の目標を達成するめに、100人収容可能な講演室と山本天文台資料などを保管・展示する資料室を建設します。

 京都周辺の現役の研究者、京大OB、地元の方、アマチュアの大勢の方々が努力されているようで頭が下がる思いです。草場氏の遺蹟もすでにこういう方々の支えの中にあると言えます。

_ 玉青 ― 2023年03月21日 06時11分28秒

ご教示ありがとうございます。
これだけしっかり保存していただければ安心です。早晩、例の資料の所在も明らかになるでしょうし、ここは焦らず待つのが吉のようですね。

_ S.U ― 2023年03月21日 07時33分22秒

まだ、まとめていないので細かいことは書けないのですが、江副(西田)碧氏の手記の全体を読んだことを元にわかったことのうち、草場修氏の最晩年の情報についての補足を、関連研究者の方々への情報として、この場をお借りして書いておきます。

1947年当時、草場修は、西田己喜蔵氏の創設した「大阪産業社」に雇われていて、会社の仕事と碧氏の住居の整備をしていました。草場の住所の「会社のバラック」が、会社と同じ敷地とすると、それは、茨木市岩倉町で、今の立命館大学大阪いばらきキャンパスの構内に相当します。ここが彼の観測場所の1つだったのです。

 論文の住所が、草場が高槻市に一定期間滞在(入院)していたことを支持していますので、高槻市の範囲で山手にある病院を探しました。日赤高槻赤十字病院を最有力候補として提案します。終戦の頃、ここは、軍人病院から結核患者用の病院に変わりました。老人病院もしていたかどうかはわかりません。草場は障碍者の扱いだった可能性もあります。ここまで碧氏は自転車で行ったことになりますが、当時の碧氏は小5~中1で、朝から夕方まで自転車で遠乗りすることがふだんから趣味だったようですので、片道4kmくらいはなんでもなかったと思います。己喜蔵氏はやさしい良い父親だったようですが、碧氏の母親の死の直後は会社のことで忙しく、碧氏のことをじゅうぶんにかまえていなかったようです。

_ 玉青 ― 2023年03月22日 06時16分48秒

追加情報ありがとうございます。草場氏の伝記事項がさらに肉付けされ、明瞭になってきましたね。碧氏視点での草場氏との交流の様子が、なんだか映画のワンシーンを見るように、まぶたに浮かんできます。

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