貧窮スターゲイザー、草場修(2)2012年04月10日 20時12分04秒

(昨日のつづき)

上村氏からは、さっそく丁寧なご返事とともに、貴重な資料をお送りいただきました(どうもありがとうございました)。

 「草場氏について参考にしたのは、天文ガイド1966年2月号に載った故・草下英明氏による、『星につながる人々』です。詳しい経歴などは記されていないのですが、当時中学生の私はこのコラムに衝撃を受け、ずっと忘れないでいました。〔…〕草場氏は星図を出されてから、東亜天文学会に入会しその機関誌「天界」に星座の話などを連載したようですが、戦前のことで、実物は見ていません。また写真関係の会社に勤めていたことがあると聞いたような(はっきりしませんが)。私も草場氏の経歴については知りたいと思いながら何もせずにいて詳しいことは判りません。」
 
(「天文ガイド」1996年2月号より=上村敏夫氏提供=)

以下に、草下氏のコラムから、関連部分を転載します。

 「1935年ごろのことだと思うが、草場修さんという人がいた。今どうしているか、まったく消息をきかないが、この人は本当のルンペンだった。(このごろ、ルンペンがあまりはやらないが、どういうわけだろう)。ルンペンに、にせものほんものがあるかといわれるかも知れないが、確かにそうだった。

 ゴミ箱のかげや橋の下にねころびながら、夜ごと星空をながめ、コツコツと星図をつくっていた。のちにこの星図は、神田茂先生の校閲〔引用者注:これは山本一清校閲のまちがい〕で「草場簡易星図」と名づけてたしか恒星社から発行された。当時の新聞などに、「ルンペン天文学者、星図を完成」という記事が出たこともある。この人の場合は、天文学はもちろんの副業である。本業の方はといえば、その後正業についたどうか知らないが、やはり当時はルンペンだったというよりほかはなかろう」 (「天文ガイド」1966年2月号、p.18)

草下英明氏の名は、ベテラン天文家にはおなじみでしょう。野尻抱影門下で、天文界の裏表に通じた科学評論家。その草下氏が書くのですから、やはり、これは確かなことのように思えてきます。

(左から草下英明、野尻抱影、村山定男の三氏。昭和50年、抱影卒寿の祝いの席にて。草下氏著、『星日記-私の昭和天文史 1924~84 』より)

   ★

さらに「草場修」の名をネットで検索すると、あの偉大なアマチュア天文家、関勉氏が、新聞の連載コラムの中で、草場について触れているのを発見しました。関氏が、昭和25年の「南国高知産業大博覧会」に向けて、プラネタリウムの製作準備に追われていた頃の思い出話の中で、です。以下、関連部分を引用させていただきます。

 「ある日、プラネタリウム製作の町工場に鎮夫さんが明るい笑顔で入ってきました。私を発見するなり大きな声で、「関君、星図がとうとう見つかったよ」と言いました。「えっ、本当ですか?」と答えると、鎮夫さんは続けました。「ほら、君も知っている『草場星図』だ。例の路上生活者の描いたという星図が遂に世に出たらしい」とやや興奮気味に話しました。

 「草場星図」の話は当時の天文界で大きな話題となっていました。「プラネタリウム投影の元となる星図が無い。草場星図でもあったら何とかなるのだが…」と、鎮夫さんもさすがにこれには困って、最後には私たち二人で実際に星を観測して星図を作ろうか、と言うことになり、実は北斗七星あたりから描きかけていたのでした。しかしこれには少なくとも1年はかかります。博覧会の開催を目前にして間に合いそうにもありません。日増しに焦燥感の募るなか、「草場星図入手」の朗報が飛び込んできたのでした。

 いち路上生活者が描いたという星図の話を載せた当時の新聞記事は感動的でした。地位も名誉も財産もない路上生活の青年、草場修にとっては、夜空の星だけが財産でした。草場は何よりも星が好きで、毎晩、粗末な機材を使って肉眼で見える頭上の星座を描き続けていました。その話が、京都大学の山本一清博士の耳に入りました。草場が描いたという1枚の星図を見た博士は「見事じゃ、このような精密な肉眼星図は世界に無い!」と激賞したといいます。のちに草場は、山本博士の指導の下に1冊の立派な肉眼星図を完成させたのでした。

 こうしたことが契機となり、草場はのちに星図の研究家として世に出ることになります。」
 (毎日新聞・高知版、2011年2月16日号)

   ★

さて、こういうふうに材料がそろってくると、草場の「ルンペン天文学者」像は、いよいよ鮮明になってきます。あとは草場のことを紹介した、当時の新聞記事を見つけ出せば万万歳。

しかし、その手がかりを求めて、さらにネット検索を続けているうちに、今度は次のような意外な記事を見つけました。

いるか書房別館:西星 第4号 昭和18年11月(その2)
 http://irukaboshi.exblog.jp/12429679/

いるか書房は、天文古書の世界では有名なお店で、上の記事は、店主の上門卓弘氏が書かれたものです。

それによると、草場は「西星会(さいせいかい;関西を中心としたアマチュアの天文同好会)」の主要メンバーであり、フィルムメーカーの乳剤研究部に在職した経験をもとに、会誌に「写真化学」という記事を執筆していたと書かれています。

さらに、会誌上には、草場を指すとおぼしい「K氏」が、「星図や黄道光の研究に精進せられて、又優秀なる写真家でもあり」、「御勤務中の多忙にも拘らず、西星会を指導して下さって居」るという文章が載っていることも紹介されています。

先に、草下英明氏のコラムをご教示いただいた上村氏も、草場が写真関係の会社に勤務していたらしいと述べておられました。となると、「ルンペン天文学者」というのは、やっぱりガセで、草場はメーカー勤務の技術者だったのか?

たしかに、話としてはあまり面白くありませんが、その業績を見る限り、堅気の技術者と考えた方が、素直に理解できそうです。

うーむむむむ…

(この項、謎をはらみつつ続く)

コメント

_ (未記入) ― 2014年12月31日 15時30分57秒

大晦日ですか始めまして。
草下英明の尊顔。久しぶりで拝見しました。

考えてみれば草下英明氏が活躍されていた頃、町の電柱はみな丸太だったしとの町からも今よりも沢山の星が見えたものでした。
もちろんパソコンやスマホなんてない時代でした。
しかし草場氏という方がいらっしゃったのは始めて知りました。

_ 玉青 ― 2014年12月31日 17時04分35秒

はじめまして。
考えてみれば、草下氏が亡くなられて、もう四半世紀近く経つのですね。
先年、村山先生も亡くなり、写真のお三方はみな泉下の人となられました。
昭和も遥けくなりましたが、その記憶と情熱を受け継いで、新時代の天文趣味がさらに発展していってほしいものです。(実際、若い天文ファンも確実に生まれているのは頼もしい限りです。日本経済が右肩下がりになるのを心配する向きも多いですが、少なくとも星はまた輝きを増すかもしれませんね。)

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