貧窮スターゲイザー、草場修(8)…カテゴリー縦覧:天文趣味史編2015年04月08日 06時42分06秒

(※以前と同様、今回も故人については文中敬称を略します。また引用に当って、現代仮名遣いに改めました。)

最近はお役所仕事も効率的になったのか、国会図書館の仕事はものすごく速かったです。請求した資料は、代金後払いですぐに届きました。


届いたのはA4が3枚、元の雑誌記事は5ページにわたっています。

(草場修。コピーがつぶれてはっきりしませんが、なかなか堂々とした、気鋭の少壮学者の面影があります。ちなみに、前年、昭和9年の11月に新聞で紹介されたときは、こんな↓法被姿でした。)

記事のタイトルは 「どうして聾の労働者が天文家になったか
副題には 「山本一清博士に見出された草場修君を訪問して筆談する」とあります。

繰り返しになりますが、出典は雑誌「婦人之友」の昭和10年(1935)6月号で、記事の筆者は上澤謙二(うえさわけんじ 1890-1978)。ネット情報によれば、上澤は若いころアメリカで学び、後にキリスト教児童文学者として活躍する一方、「婦人之友」の姉妹誌である「子供之友」の編集主任も務めた人です。

そういう人の書いたものですから、文章にいささか文学臭はあるものの、単にジャーナリスティックな好奇心からではなく、草場の純な思いに触れようと、真摯に取材をして文字にしたものと見受けられます。上澤は草場本人と、さらに師である山本一清を訪問して記事をまとめています。

   ★

記事は、草場が無一文で野原に倒れ伏し、絶望の中でも星に慰められて、再び歩み始める場面で始まりますが、その辺は飛ばして、まず客観的な事実を確認しておきます。

草場は文中「本年三十五歳」とあるので、明治33年=1900年ちょうどの生まれ。以前の新聞記事と1~2年ズレがありますが、ゆっくり取材した上澤の記事の方が信用できそうです。このブログのつながりでいうと、稲垣足穂とは同い年。宮沢賢治よりは4つ年下で、師匠の山本一清とは11歳違いになります。

その経歴は、九州大分県の生れ、父母に早く別れて、朝鮮釜山の親戚に引取られて育ち、熊本第六師団附輜重(しちょう)兵となったこともあり」…という、苦労の多いものでした。

父母と別れた事情は分かりません。少なくとも母親とは、死別ではなく生き別れです。
草場が「時の人」となった後、彼自身も忘れていた妹が訪ねて来て、30年ぶりに再会を果たすエピソードが、文中に出てきます。これを文字通り取れば、草場は4~5歳のとき、里子に出されたらしく思えます。(生母はつい昨年まで存命しており、「兄さんのことを思っては、よく遇いたい遇いたいといっていました」と妹に告げられ、草場は涙をとどめ得なかった…とは、まことに哀切な話。)

草場は軍務以外にも、「自動車学校へはいったり、飛行機の機関士を志したり、汽船にも乗ったりと、なかなか多彩な、しかもアクティブなキャリアを誇りますが、正規の教育を受ける機会は、ついになかった模様です。

   ★

草場について語る時、聴力障害のことは落とせぬエピソードです。彼は生まれついての聾ではなく、中途失聴者でした。

「幼時二階から落ちて耳をわるくし、その後烈しい頭痛や眩暈に屡々(しばしば)襲われるようになったが、東京の下宿にいた頃、或朝起きて見るといつもの電車の音が聞こえない。『今日はどうして電車が通らないんだ、ストライキでも始まったか』と床の中から聞いても誰も何ともいわない。起出して見ると何のこと!電車はいつものように前の通りを走っている。」

おそらくは進行性の感音難聴だったのでしょう。
こうして彼は完全に聴力を失いました。

   ★

彼は小学校をおえると、職を転々としながら、己の才覚一つで世に出ようともがいていました。しかし、音を失ったことで深く絶望し、ついには浮浪生活に身を落としてしまった…というのが、草場の20代半ばまでの人生だったと想像します。

それから職に離れた悲惨な放浪生活が始まった。栃木県から新潟県、静岡県から愛知県あたりを、当てもなく幾度かぐるぐる廻って歩いた。或時は四ヶ月間一粒の米も味わなかったこともあり、或時は死を決してその場所を探したこともあり、寝るベッドに払う金がなくて大空の下に毎晩寝たこともある。」

こうして話は冒頭の場面に戻ります。
その彼と星との出会いは、果たしてどんなものだったか?

一体彼は小さい時から星が好きであった。〔…〕それが孤独放浪の生活に入ってからは一層星に親しくなって、夜になると隙がな空を仰ぐようになった。〔…〕彼自身の言葉を借れば『星を見なければ淋しくていられなくなった』のであった。」

彼は放浪生活の中でもすさみきってしまわず、のちに天文学の独学を実際始めたわけですから、これは文学的潤色というよりも、相当程度事実でしょう。

「星は確に彼に何かを告げ、語り、囁いた。そうして慰め、励まし、力づけた。それは彼にとって無二の―ほんとうに無二の友達になったのであった。」

(この項つづく。次回は草場の運命が急転した大阪編)

コメント

_ S.U ― 2015年04月08日 07時49分50秒

草場氏のご研究の発展を楽しみに待っておりました。

 図書館の利用が便利になったのは本当にありがたいことです。図書館蔵書の古い物の電子版がちゃくちゃくとつくられていくのを私もネットで時々見張ることにしています。このたび草場氏の著作に関する件を2件見つけました。

 1件は、オリジナルの草場星図(19枚1組で32000個の星を掲載)に関する文献です。この星図の紹介が 京都帝国大学花山天文台Bulletin Vol.4, No.320 (1936) に英文で出ているのを見つけました。Google Books で全内容は公開されていませんが、

http://books.google.co.jp/books?id=sYQ2AQAAIAAJ&hl=ja&source=gbs_book_similarbooks

書籍内から Kusaba charts を検索すると最初の数行を見ることができます。草場星図は世界に紹介されていたわけで、花山天文台から届いたビュレティンを見た外国の研究者で実物の草場星図を見たくなった人もいたことでしょう。私もぜひぜひ見たいです。でも今どこにあるのかわかりません。

 もう1件は、玉青さんがすでに紹介されている草場氏が「天界」に投稿した記事のコピーが京大リポジトリにアップロードされていました。
http://hdl.handle.net/2433/167219
こちらは全文がPDFでダウンロードできます。「天界」の記事が公式に電子化されているのは初めて見ました。(著作権の根拠についてあたってみる価値があるかもしれません)
 それはともかく内容に特別な知見はないと思いますが、草場氏はもともと渋川春海父子の漢語による星名に興味を持っていたようで、これがのちに彼が神田茂氏のほうに動いたひとつの要因だったと言えるかもしれません。また、正規の後期中等教育以上は受けていないにしても、漢字については平均的な人よりはずっとよく知っていたのではないでしょうか。

_ 玉青 ― 2015年04月09日 07時21分44秒

毎度ありがとうございます。
謎の多かった草場氏のことも、徐々に探索が進んできますね。
さっそくお教えいただいた情報を取り入れて、記事の方はまとめたいと思います。

それにしても花山のBulletin、これは是非全文を見たいです。当然国内にも所蔵があって良かろうと思うのですが、さっきパパッと検索しても、うまく探せませんでした。このBulletin の邦題は何なのでしょうね?

「天界」の記事も興味深く読みました。末尾に「此処に記してある星名は全部今度の私の星図には記入して置きました」とありますから、東洋天文学の知識も、すでに「ルンペン」時代には相当研究が進んでいたように読めます。(ピンポイントな情報ですが、京大時代の下宿先まで分かったのは、彼の生活の輪郭を知る上で貴重かと思います。)

_ S.U ― 2015年04月09日 08時33分01秒

>花山のBulletin、~国内にも所蔵

まず、グーグルで "Kusaba Charts"を検索すると、星図のリストの外国文献が引っかかって(これはすばらしい資料のようです)、その160番から、Kyoto Bull. の4巻320号(1936)がわかります。

邦題はわからないのですが、 CiNiiの「大学図書館」の「図書・雑誌」
http://ci.nii.ac.jp/books/

Bulletin Kwasan Observatory, Kyoto Imperial University
で検索すると
http://ci.nii.ac.jp/ncid/AA00102720
までたどりつけ、320号は、京都大学 人文科学研究所 図書室 にあるということです。国内の大学はここ1箇所だけですね。外国にはたくさんあるようですが。

 「天界」全文の著作権についても気になるので調べてわかったら続報いたします。草場修氏の評伝が作れるようになればいいですね。

_ S.U ― 2015年04月09日 19時56分46秒

>「天界」全文の著作権

草場氏の「天界」記事の全文が、京都大学の情報リポジトリ「KURENAI」に載っているのを見つけてちょっと珍しく思ったので、その問題についても調べてみました。

 その詳細の前に、草場氏の別の投稿が見つかったのでご紹介します。

http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/167717

これは、日本語での星座の表記に関する議論ですが、草場氏の人となりや感情までわかるようなすばらしい資料です。登録ミスで苗字が「草葉」になっているので、昨日は見つけられませんでした。ぜひご覧下さい。

 さて、リポジトリの話に戻ります。大学図書館での書籍の電子版公開は著作権を非常に気にするはずなのに、なぜ、民間の天文同好会の出版物である「天界」の全文が公開されているのか疑問に思いました。ふつう同好会の投稿論文は、明瞭に著作権委譲が行われない限り各著者にとどまって、それは死後50年を経過するまで消滅しないはずだからです。(このへんは玉青さんには釈迦に説法でしょうが、それで正しいですよね)。
 草場氏の場合は、京大職員の正規の仕事として論文を書いた場合はリポジトリに全文が出ても不思議はないのですが、

http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/159113

からたどればわかるように、ほぼ全ページですから、職員でない人の「天界」記事も載っています。死後50年経っていない人のも入っています。

 でも、この問題は解けました。上のページの左上に、

007 京都大学に基盤のある学会・研究会 >

となっているのです。東亜天文学会(当時は東亜天文協会)は京大に基盤があった組織として扱われているようです。京大が1938年に山本一清氏を辞職に追い込んだ後の1943年まで掲載しているのがちょっとひっかかります。が、そこまで個別の状況を斟酌していないのでしょう。多少問題があるかとも思いますが、確かなことはわからず、古い学術資料を公開するのは一般的にはいいことなので、ここではこの程度にしておきたいと思います。

_ Ha ― 2015年04月10日 01時48分54秒

これは素晴らしいアーカイブですね!
私も探してみましたが、最初うっかり間違えて「草葉」で検索したおかげで、上で S.U さんが紹介されている草場氏の別の投稿が最初に見つかりました。^^;
その他、「草場」「草馬」など、いろいろなワードで検索してみたところ、以下の関連記事が出てきました。

●昭和九年五月號 1934-04-25(Vol.14 No.157)
表紙ほか/入會者(3月中)に草場修の名前があります
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/165528/1/tnk000157_a.pdf

●昭和九年十二月號 1934-11-25(Vol.15 No.164)
表紙ほか/總會席上の寄せ書(昭和九年十月二十日)に草場の署名があります
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/166930/1/tnk000164_a.pdf
草場君の場合 : 卷頭言(山本)/草場の略伝
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/166929/1/tnk000164_041.pdf
或る日の花山(萑部進、萑部守子)/草場が新聞に載って一日にして有名になった件
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/166920/1/tnk000164_072.pdf

●昭和十年一月號 1934-12-25(Vol.15 No.165)
表紙ほか/早乙女東京天文臺長を迎えて(去る11月22日)の集合写真に草場も写っています
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/166949/1/tnk000165_a.pdf
讀者欄 : 寄書歡迎/僕の天文觀(草場修)
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/166934/1/tnk000165_113.pdf

●昭和十年二月號 1935-01-25(Vol.15 No.166)
花山だより(十二月)(星見山人)/Nova出現。山本臺長招待の親睦會の名目のひとつに草揚氏歡迎會とあります
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/166963/1/tnk000166_134.pdf

●昭和十一年四月號 1936-03-25(Vol.16 No.180)
支部欄 / 通信/大阪支部報告(2月)/大阪朝日新聞社講堂で開催された「草場星圖展」の報告
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/167189/1/tnk000180_232.pdf

●昭和11年11月號 1936-10-25(Vol.17 No.187)
表紙ほか/「草場恒星圖」近日發刊・豫約受付開始の廣告
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/167364/1/tnk000187_a.pdf

●昭和11年11月號 1937-05-25(Vol.17 No.194)
新刊紹介/草場恒星圖
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/167474/1/tnk000194_312.pdf

_ Ha ― 2015年04月10日 01時58分28秒

申し訳ありません。訂正です。
一番最後の新刊紹介は「昭和12年6月號」でした。

_ 玉青 ― 2015年04月10日 06時58分05秒

〇S.Uさま

資料の所在をお調べいただき、ありがとうございます。
さっそく入手に努めようと思います。
それにしても、返す返す現物を拝んでみたいですねえ。

著作権は、お金と名誉が絡まぬ限り、個人的には寛を以て旨としてほしいので、この京大の英断(もしくは強心臓)に賛意を表したく思います。

〇Haさま

うわ、これはズラッと出ましたね!!
詳細なお調べをありがとうございます。

〇お二人さま

お二人の尽力により、草場氏の消息がいっそう明瞭になりましたが、新資料の咀嚼が間に合わず、記事には十分生かせませんでした。次回、「補遺」という形で、草場氏の人となりや、周辺事項をまとめようと思います。

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