地上の銀河…カテゴリー縦覧:銀河編2015年04月01日 22時19分02秒

いよいよ4月。今年も既に4分の1が終わりました。
そして今月の末には、「もう3分の1が終わった!」と驚くことになります。

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手元に明治7年(1874)に売り出された、古い地球儀があります。


それを見ていたら、この地球上に銀河が流れているのを見つけました。


「リオデラプラタ 銀河」。
今でいうところの「ラプラタ川」を、かつての日本では「銀河」と訳していました。

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遠い昔、ジパングは黄金の島と呼ばれ、ヨーロッパ人の想像力を掻き立てました。
その後、大航海時代の訪れとともに、今度は南米アマゾンの奥地に「エル・ドラード(黄金郷)」があるという噂が立ち、スペイン人による探検(という名の侵攻)を加速しました。

同じ頃、それと対を成すかのように、南米の内陸部には「白い王」が支配する、シエラ・デ・ラプラタ(銀の山々)」があるのだ…という噂もありました。もともと現地にその種の言い伝えがあったところに、いろいろ尾ひれが付いて肥大化した噂のようです。

そして、そこからアルゼンチンの国名が起こり(ラテン語の「argentum(銀)」に由来)、またラプラタ川(スペイン語でRio de la Plata、英語に直訳すれば River of Silver)の称も生まれたということです。ちなみに命名者は、イタリア系イギリス人にして、ユダヤの民、そしてスペイン王に召し抱えられて南米を探査したという、ややこしい経歴のセバスチャン・カボット(c.1474-1557)。

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…というわけで、地上の銀河には、少なからず欲が絡んでいます。
その点、天上の銀河は純なものですね。
でも、人間の欲には限りがないので、未来永劫そうかどうかは分かりません。

宇宙を眺める…カテゴリー縦覧:星雲・星団・系外銀河編2015年04月03日 21時29分17秒



黒い化粧箱に収まったガラスブロック。


ブロック本体は 6.5×8.5×6.5 cm の直方体で、豆腐半丁ぐらいの大きさです。
透明なガラスの中に見える、白い綿くずのようなものは、レーザー加工による造形で、拡大すれば、微小な点の集合体から成ることが分かります。


1つ1つの点が、独立した銀河系、昔風にいえば島宇宙。
このガラス塊が表現しているのは、差し渡しが1億パーセク=3億2,600万光年という巨大な空間です。宇宙全体から見れば、ごく局所的な領域に過ぎないとはいえ、それでもこれだけカメラを引けば、宇宙の大規模構造が見えてきます。


ひときわ銀河系が密集した「おとめ座銀河団」。


そこから紐状に銀河が連なり(我々の銀河系もそこに含まれます)、周辺の銀河群・銀河団と結びつき、1つ上位の階層である「おとめ座銀河団」を形成しています。
このガラスブロックが表現しているのは、この「おとめ座超銀河団」が、お隣の超銀河団と境を接する辺りぐらいまでの宇宙の有様です。

(そして、さらにカメラを引けば、おとめ座超銀河団は、他の超銀河団と共に面状に分布して、グレートウォール(銀河フィラメント)を構成し、それが広大な虚無の空間(ボイド)を包み込んで、泡状の構造体を作っているのが見えてくる…と考えられています。これが宇宙の大規模構造で、我々が知り得る宇宙は、そうした泡の集合体でできていると、天文学者は語っています。)

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…と、ここまでは何となく分かります。

「大きな望遠鏡で宇宙をよっく調べると宇宙は大体何でせう?」
ジョバンニの担任の先生なら、子供たちにそんな問いかけをしたでしょうが、実際に大きな望遠鏡で無数の銀河系を観測して、その位置をプロットしたら、こんなふうに並んでいることが分かった…というだけならば、「まあ、そういうものなんだね」で話は終わりです。

「では、その成因は?」となると、一段も二段も難しい話になりますが、それでも学者はいろいろな説を立てて、それを理解しようと、今も懸命に努力を続けていることでしょう。

いっそう基本的なことで、私がよく分からないのは、こうしたモデルに「時間」がどう織り込まれているかです。つまり、こういうものをパッと見せられると、私なんかは「今の宇宙」の空間構造を、神の視点から眺めたものと、ついつい思ってしまうんですが、でも本当は、そこには空間のみならず、「時間構造」も織り込まれているはずです。

このガラス模型で「今の宇宙」と言えるのは、我々の銀河系が位置するキューブの中心付近のみで、そこから遠ざかれば遠ざかるほど「昔の宇宙」になり、キューブの端っこにあるのは、1億5千万年とか2億年前の姿です。さらに大規模な構造については、当然もっと時間尺度は大きくなります。「今この瞬間」に、何億光年か先の宇宙がどうなっているかは、それこそ神のみぞ知るです。

そういう重層的な時間から成る観測結果をもとに組み立てた宇宙モデルとは、結局のところ何を表わしているのか? 宇宙スケールでものを考えるには、「今」という概念の方を変えないといけないのかもしれませんが、私はその辺で、すぐに頭がごちゃごちゃになってしまいます。

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話を地上に戻して、製品情報について。

この宇宙モデルは、カリフォルニアのBathsheba Sculpture の製品です。
同社は以前から「モノのかたち」にこだわっていて、数学的、科学的、あるいは純粋に審美的見地から、興味深い作品の数々を生み出してきました。

Bathsheba Sculpture https://www.bathsheba.com/

この超銀河団のガラス模型は、今から8年前に購入したものですが、先ほど確認したら、現在は廃番のようです。何といっても進歩の速い学問分野ですから、元データがすでに古くなってしまったせいかもしれません。となると、ここには早くも歴史的価値が備わっていると言えなくもなく、21世紀もなかなか時間構造に富んできたなあ…と感慨深いものがあります。


国家百年の計はいずこに在りや2015年04月04日 11時31分07秒

それにしても人を馬鹿にした話です。

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今年の2月14日の記事の冒頭より。

非正規雇用は現代の「水呑み」であり、正社員は「本百姓」である。
そして、為政者は絶えず百姓を「生かさぬよう、殺さぬよう」搾り取ろうと虎視眈眈としている。
…そう考えれば、眼前の事態の8割がたは正しく記述していると確信します。

残業代ゼロ法案が閣議決定されたことで、今やその確信は10割に達しました。

まず年収1000万円以上という、庶民には実感の薄い数字を看板に掲げて、だまし討ち的に制度を成立させてしまおうという、そのやり口がいかにも汚いです。まさに欲の透けて見えるフット・イン・ザ・ドア。

いったん制度が成立すればしめたもので、800万、600万、400万…とハードルを下げるのは、お茶の子さいさいですから、あとはむしりたい放題。そんなことは子供でも分かる話ですが、そこは朝三暮四の常で、相手の悪知恵が一段まさっていることを認めないわけにはいきません。

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いったいそんなに悪知恵を働かせて、この国をどうしたいのか。
辞書を引くと、こういう人を「奸賊」と呼ぶらしいです。


衛星シガレット…カテゴリー縦覧:ロケット・人工天体編2015年04月04日 11時34分59秒

さて、憤怒の河を越えて、記事は記事で続けます。

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旧ソ連時代に売られていたシガレットの空き箱。


紺色の空に金の星が光り、これまた金の機体の衛星が、地球重力を振り切るかのように飛んでいます。サッと走る効果線が、微笑ましくていいですね。
モチーフは、1958年5月に打ち上げられたスプートニク3号

当時の宇宙空間は、まだアメリカが進出する前で、ソ連の独壇場でした。

銀のボールに4本のアンテナがシュッと伸びた、スプートニク1号(57年10月打上げ)。
ライカ犬を乗せて飛んだ、スプートニク2号(同57年11月)。
そして、このロボットっぽい外観のスプートニク3号。


スプートニク3号は人類初の本格的な科学観測衛星で、その機体にはソ連の科学技術の粋が投入されました。その後、1960年4月に大気圏で燃え尽きて消滅。

(箱の裏)

この製品は、モスクワのタバコ会社、Java (Ява)が売り出したものです。
ソ連で初めてフィルター付きの紙巻きたばこを売り出したのが同社だとか。

ちょっとオヤ?と思うのは、このスプートニク煙草は、打ち上げ当時にリアルタイムで販売されたのではなしに、1966年以降に売り出されたものだという事実です(というのは、Javaブランドの立ち上げが1966年だからです)。ソ連の人が、いかにスプートニク3号を誇りに思っていたか分かる気がします。10本入りで2ルーブル10コペイカ…というのが、どれぐらいの価値に相当するのか分かりませんが、この箱の凝りようからすると、高級タバコの扱いだったのかもしれません。


この箱は宇宙バッジをしまうのに使っています。

世紀の発見(とその後)…カテゴリー縦覧:天文余話編2015年04月05日 17時08分41秒

今日は雨。昨日の皆既月食もまったく見えず、夜桜と赤銅色の月のコントラストを楽しむことはできませんでした。

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ときに、先月24日、ピッツバーグから驚きのニュースが報じられ、ATS(Antique Telescope Society)のメーリングリスト上で、色めき立ったメンバーによる大量のメッセージのやりとりがあった…という話題を書き付けておきます。

そのニュースとは、アメリカを代表する望遠鏡製作者、ジョン・ブラッシャーの工場跡地から、ブラッシャー本人が残したタイムカプセルが偶然掘り出されたというもの。

(John Brashear 1840-1920)

Al Paslow氏による、その第1報は以下のようなものでした。(以下、適当訳です)

皆さん、こんにちは。
私は今日、ブラッシャーの工場の撤去作業をしていた作業員の1人が、建物の礎石からタイムカプセルを見つけたと知らされて、同社の跡地に行ってきました。

我々は、タイムカプセルを無傷で保存する方法をあれこれ考えましたが、最終的に、カプセルを開けて、中から何が見つかるか、カメラで記録しようじゃないかということになりました。

こうして、3人の撤去作業員と私が、このハンダ付けされた真鍮製の小箱の中身を、121年ぶりに目にした、最初の(そして唯一の)人間となったのです。

最初に出てきたのは、ジョン・ブラッシャーのサインが入った手紙でした。それから1891年以降の新聞記事。その最新の日付は、たぶん1894年8月4日だと思います。また、ジョンの両親を含むブラッシャー家の写真と、おそらくピッツバーグとアレゲニー両市にかかわる、当時の著名人の写真もありました。

最も興味深い発見は、「アメリカで最初に作られた光学ガラスの1つ」と書かれた一個のガラス塊と、ジョンの妻、フィービーの髪を収めた錠前の入った封筒です。

それ以外に注目すべきものとしては、Warner & Swasey社〔望遠鏡の架台やドームを作っていた老舗のメーカー〕から届いた、ブラッシャーの新工場完成を祝う手紙(Worcester Warner と Ambrose Swasey のサイン入り)、「William Thaw〔ピッツバーグの富豪〕雑録」とラベリングされた、保存状態の良い写真入りの冊子、さらに箱の底には、工場の平面図と青写真が入っていました。

今晩中に、私のウェブサイトにその写真と、できれば動画も投稿します。

この発見は、科学と天文学の歴史において、間違いなく重要なものです。タイムカプセルの中身の多くは、見事な状態を保っています。古い写真の中には色褪せたものもありますが、多くの写真は、箱に収められた当日と同じぐらい良い状態にあるように見受けられます。

工場の撤去作業も終わり、今日の午後現在、跡地が藁で覆われてしまったことは、とても残念に思います。

そして、パズロー氏のサイトに掲載された、その歴史的場面が以下。


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ここまでは、ワクワクする夢のある話です。
しかし現実というのは、いろいろあって、夢だけでは終わりません。結局、この件はタイムカプセルの所有権をめぐる裁判沙汰に発展しました。

■4月1日付け TRIB Live News
 「係争中のブラッシャー・タイムカプセル、歴史センターが一時預かり」

http://triblive.com/news/adminpage/8092960-74/history-center-pittsburgh#axzz3W9wiHGxP

ピッツバーグ市と、ヘーゼルウッドにある請負業者との間で所有権が争われている、ジョン・ブラッシャー工場跡地で発見されたタイムカプセルの中身は、現在ハインツ歴史センターが、その番に当っている。

アレゲニー郡裁判所の民事訴訟判事マイケル・A.デラ・ヴェッキアは、水曜日、同市がジェイデル・ミニーフィールド建設サービス社に対して、当該物件を歴史センターに移すよう求めていた、緊急差し止め命令を認可した。

ピッツバーグ市は、遺棄された建物を所有していたが、3月16日に壁が倒壊した後、壁および隣接する建物の撤去費用として、ジェイデル・ミニーフィールド社に23万5000ドル〔約2822万円〕を支払うことを同意していた。同社は法廷文書の中で、市と結んだ契約は、タイムカプセルの「サルベージ権」を同社に認めており、市は撤去作業費用の支払いを保留することで、同社に「経済的嫌がらせ」をしようとしていると主張している。

ビル・ペデュート市長は、「あれはピッツバーグ市民のものです」と述べている。「ジョン・ブラッシャーは国の内外で著名であり、彼はピッツバーグの歴史と不可分です。」
ジェイデル・ミニーフィールド社とその代理弁護士からの電話回答は今のところない。

ブラッシャーは、世界的な科学者・博愛主義者として知られている。彼は1920年に亡くなるまで、この工場で望遠鏡用の鏡とレンズを製作し、工場及び隣接する家屋は、国の歴史地区に指定されている。彼の遺灰は妻の遺灰と共に、彼が創設に関わり、指導したアレゲニー天文台に埋葬されている。

礎石の内部から発見されたカプセルには、工場の職人たちの写真や、1894年の日付を記した文書、ブラッシャーの妻フィービーの髪を容れた錠、そしてアメリカで最初に作られた光学ガラスの1つと記された品が入っていた。

ペデュート市長は、市が勝訴した場合、ただちに所有権を歴史センターに譲渡するつもりだと語っている。歴史センター館長兼CEOのアンディ・メイジックによれば、すべての資料は、専門家によって既に写真撮影が終わり、現在、空調管理された収蔵庫に保管されているとのことである。「もしこの資料が歴史センターのものとなれば、我々はそれを他のブラッシャー・コレクションと一体のものとして扱うでしょう」と同氏は語っている。

ピッツバーグ市は、ジェイデル・ミニーフィールド社が、ペリーズヴィル通り沿いの撤去現場でタイムカプセルを開封したことを提訴し、同社がカプセルの内容を棄損した可能性と、同社にはそれを取得するいかなる権利もないと主張している。一方、同社は法廷文書の中で、同社が「必要なすべての注意」を払って資料を扱っており、資料には何のダメージもないと述べている。

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発見者に全く悪意はなかったし、本来明るいニュースのはずなんですが、えらいこじれてしまいました。世の中には、こういうことも時にあります。

ATSのメンバーの意見もいろいろで、ピッツバーグ市の強硬な態度と、もともと跡地を放置していた無責任をなじる声もありました。また、こういう場合の処理の仕方がはっきりしない法の不備を指摘する声もありました。

まあ、あるメンバーが言っていたように、会社側が「歴史的価値」と「金銭的価値」を取り違えて、欲の絡んだソロバンをはじいたのが、そもそもボタンの掛け違いの始まりで、やっぱり欲とは恐ろしいものだ…というのが、私の素朴な感想です。


貧窮スターゲイザー、草場修(7)…カテゴリー縦覧:天文趣味史編2015年04月06日 20時58分50秒

今からちょうど3年前、自分は1人の謎めいたアマチュア天文家の事績を追っていました。(どうも最近はこんな書き出しばかりですね)

その人の名は、草場 修(くさばおさむ c.1900-?)。
一時は放浪のルンペン生活を送り(つまりホームレスです)、その後もドブさらいの日雇い仕事という、貧を極めた暮らしの中でコツコツ独学を続け、ついには京大教授(当時)の山本一清も瞠目する、精緻きわまりない星図を完成させた人です(しかも草場には、聴覚障害という身体的ハンデがありました)。

下のリンク先は、URLで分かるように2012年4月9日付けのもので、この連載は、その後4月14日まで、都合6回続きました。

■貧窮スターゲイザー、草場修(1)
 http://mononoke.asablo.jp/blog/2012/04/09/6405885

あれこれ調べていくうちに、昭和9年(1934)10月の朝日新聞(縮刷版)にその名を見付け、当時の事情をやや詳しく知ることができた…というのが以下の記事です。

■貧窮スターゲイザー、草場修(4)

 http://mononoke.asablo.jp/blog/2012/04/12/6409584

とはいえ、草場の生い立ちには依然はっきりしない点が多々ありました。
が、資料の制約から、それ以上の追究は叶わず、草場の話題もそれきりになっていました。

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ところがです。
草場の名も記憶から薄れかけていた今年の1月、一連の記事の最終回のコメント欄で、烏有嶺さんにビックリするようなことを教えていただきました。

■貧窮スターゲイザー、草場修(6)
 http://mononoke.asablo.jp/blog/2012/04/14/6411179

雑誌「婦人之友」の昭和10年(1935)6月号に、草場のインタビュー記事が載っているというのです。烏有嶺さんは、それを国会図書館のデータベースで見つけられたそうで、その内容までは分かりませんが…書き添えてらっしゃいました。もちろん、これはそのままにはできません。さっそく国会図書館から資料を取り寄せ、さあ、その結果は?!…ということで、以下に続きます。

(この項つづく)

貧窮スターゲイザー、草場修(8)…カテゴリー縦覧:天文趣味史編2015年04月08日 06時42分06秒

(※以前と同様、今回も故人については文中敬称を略します。また引用に当って、現代仮名遣いに改めました。)

最近はお役所仕事も効率的になったのか、国会図書館の仕事はものすごく速かったです。請求した資料は、代金後払いですぐに届きました。


届いたのはA4が3枚、元の雑誌記事は5ページにわたっています。

(草場修。コピーがつぶれてはっきりしませんが、なかなか堂々とした、気鋭の少壮学者の面影があります。ちなみに、前年、昭和9年の11月に新聞で紹介されたときは、こんな↓法被姿でした。)

記事のタイトルは 「どうして聾の労働者が天文家になったか
副題には 「山本一清博士に見出された草場修君を訪問して筆談する」とあります。

繰り返しになりますが、出典は雑誌「婦人之友」の昭和10年(1935)6月号で、記事の筆者は上澤謙二(うえさわけんじ 1890-1978)。ネット情報によれば、上澤は若いころアメリカで学び、後にキリスト教児童文学者として活躍する一方、「婦人之友」の姉妹誌である「子供之友」の編集主任も務めた人です。

そういう人の書いたものですから、文章にいささか文学臭はあるものの、単にジャーナリスティックな好奇心からではなく、草場の純な思いに触れようと、真摯に取材をして文字にしたものと見受けられます。上澤は草場本人と、さらに師である山本一清を訪問して記事をまとめています。

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記事は、草場が無一文で野原に倒れ伏し、絶望の中でも星に慰められて、再び歩み始める場面で始まりますが、その辺は飛ばして、まず客観的な事実を確認しておきます。

草場は文中「本年三十五歳」とあるので、明治33年=1900年ちょうどの生まれ。以前の新聞記事と1~2年ズレがありますが、ゆっくり取材した上澤の記事の方が信用できそうです。このブログのつながりでいうと、稲垣足穂とは同い年。宮沢賢治よりは4つ年下で、師匠の山本一清とは11歳違いになります。

その経歴は、九州大分県の生れ、父母に早く別れて、朝鮮釜山の親戚に引取られて育ち、熊本第六師団附輜重(しちょう)兵となったこともあり」…という、苦労の多いものでした。

父母と別れた事情は分かりません。少なくとも母親とは、死別ではなく生き別れです。
草場が「時の人」となった後、彼自身も忘れていた妹が訪ねて来て、30年ぶりに再会を果たすエピソードが、文中に出てきます。これを文字通り取れば、草場は4~5歳のとき、里子に出されたらしく思えます。(生母はつい昨年まで存命しており、「兄さんのことを思っては、よく遇いたい遇いたいといっていました」と妹に告げられ、草場は涙をとどめ得なかった…とは、まことに哀切な話。)

草場は軍務以外にも、「自動車学校へはいったり、飛行機の機関士を志したり、汽船にも乗ったりと、なかなか多彩な、しかもアクティブなキャリアを誇りますが、正規の教育を受ける機会は、ついになかった模様です。

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草場について語る時、聴力障害のことは落とせぬエピソードです。彼は生まれついての聾ではなく、中途失聴者でした。

「幼時二階から落ちて耳をわるくし、その後烈しい頭痛や眩暈に屡々(しばしば)襲われるようになったが、東京の下宿にいた頃、或朝起きて見るといつもの電車の音が聞こえない。『今日はどうして電車が通らないんだ、ストライキでも始まったか』と床の中から聞いても誰も何ともいわない。起出して見ると何のこと!電車はいつものように前の通りを走っている。」

おそらくは進行性の感音難聴だったのでしょう。
こうして彼は完全に聴力を失いました。

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彼は小学校をおえると、職を転々としながら、己の才覚一つで世に出ようともがいていました。しかし、音を失ったことで深く絶望し、ついには浮浪生活に身を落としてしまった…というのが、草場の20代半ばまでの人生だったと想像します。

それから職に離れた悲惨な放浪生活が始まった。栃木県から新潟県、静岡県から愛知県あたりを、当てもなく幾度かぐるぐる廻って歩いた。或時は四ヶ月間一粒の米も味わなかったこともあり、或時は死を決してその場所を探したこともあり、寝るベッドに払う金がなくて大空の下に毎晩寝たこともある。」

こうして話は冒頭の場面に戻ります。
その彼と星との出会いは、果たしてどんなものだったか?

一体彼は小さい時から星が好きであった。〔…〕それが孤独放浪の生活に入ってからは一層星に親しくなって、夜になると隙がな空を仰ぐようになった。〔…〕彼自身の言葉を借れば『星を見なければ淋しくていられなくなった』のであった。」

彼は放浪生活の中でもすさみきってしまわず、のちに天文学の独学を実際始めたわけですから、これは文学的潤色というよりも、相当程度事実でしょう。

「星は確に彼に何かを告げ、語り、囁いた。そうして慰め、励まし、力づけた。それは彼にとって無二の―ほんとうに無二の友達になったのであった。」

(この項つづく。次回は草場の運命が急転した大阪編)

貧窮スターゲイザー、草場修(9)…カテゴリー縦覧:天文趣味史編2015年04月10日 06時58分47秒

放浪の草場が流れ着いたのは大阪でした。
府庁前広場で寝ていたところを、警察に浮浪罪で逮捕され…というのは、以前の新聞記事にも書かれていたエピソードです。そして、勾留を解かれ、警察に紹介されたのが大阪職業紹介所でした。

 「やがて彼は「恵比須町衛生組合」と襟に染め抜いた半天を着て、空脛に地下足袋をはいて、毎日溝(どぶ)のそばへこごむようになった。紹介所理事の八浜徳三郎氏などの世話で、同組合の溝さらいになったのであった。」

ここに出てくる、八浜徳三郎(はちはまとくさぶろう)という人を、私は知りませんでしたが、どうもなかなか偉い人で、検索すると「コトバンク」に次のように出てきます。

1871-1951 明治-昭和時代前期の社会事業家。〔…〕「基督(キリスト)教新聞」の編集に従事したのち、関西でまずしい人々に伝道。明治44年開設の大阪職業紹介所の主事、大正10年所長となり、失業者の救済につとめた。〔…〕著作に「下層社会研究」。

草場はその後も、放浪を続けようと思えば、できたはずです。
にもかかわらず、縁のない大阪に根を下ろし、溝さらい人夫という、世間的にはあまりかんばしくない仕事を続けたのは、八浜の徳化が非常に大きかったのではないでしょうか。八浜は、草場が花山天文台に職を得る際も尽力しており、この間交流は続いていたようです。

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その大阪で、彼は1冊の本に出会います。

 「身の振方が落着くと共に「星の名を知りたい」という願望は次第に育って行ったが、或晩夜店で不図目についたのは「山本一清著。星座のしたしみ」という一冊。
 矢も楯も堪らず、ガマ口の底を叩いて早速買って来て貪るように読んだが、それと同時に、「知りたいという願望」は「研究しようという組織的な計画」に発展して行った。」


『星座の親しみ』は、ロマンチックな星座神話と、最新の天文学の知識をうまくミックスした本で、大正10年6月に初版が出て以来、多くの版を重ねた、当時のベストセラーです。


(手元の本は、大正11年9月発行の第13版)

「それは今から七年程前のことであるが…」とあって、草場が本格的に天文修行を始めたのは、昭和3年(1928)頃のことと分かります。当時、彼は28歳。

 「以来、仕事が終ると、毎夜 中の島公園の府立図書館へ出かけ 閉館の十時までそれからそれへと天文関係の本を読んだ。凡(すべ)て読み尽くして、本の番号も内容の大体も諳(そら)んずるほどになった。」

大阪府立図書館(中央、中之島の2館)の蔵書検索(https://www.library.pref.osaka.jp/licsxp-opac/WOpacMnuTopInitAction.do)に当ると、1935年以前の出版物で、件名が天文に分類される書籍は、現在、49冊ヒットします。中には、中国の伝統星座を論じた、『石氏星経の研究』(上田穣著、東洋文庫論叢)のような渋い書籍も含まれますが、草場がそれをも確かに読み、自分の星図に生かしたことは、彼自身が論文で述べています(※)。

(※)この資料は、前回のコメント欄でS.Uさんにご教示いただきました。
草場修、「保井春海と其の子昔尹に就て」、『天界』16巻181号(1936)、pp.252-254.
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/167219/1/tnk000181_252.pdf

他は推して知るべし。もちろん、彼はそれ以外の書籍にも手を伸ばしたでしょうし、その勉強ぶりは実に徹底していたと思われます。

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 「それから帰ってくると観測がはじまる。彼の姿は夜更けの衛生組合事務所の物干の上に蠢(うご)めいていたり、宿泊所の広場に動いていたりした。そばには提灯がブラブラ揺れている。その光を頼りに観測したところを一々星図へ画き込む。
 勿論望遠鏡もなければ製図の器具もない。竹の先に針をつけて上の方をしばったのがコンパスの代用。それから古い三角定規が一枚。それが彼の製図器具であった。」

彼は本を読むばかりでなく、実地の観測にも励みました。
ただし、これを読んでも、草場が実際にどんな手順で星図作成を進めたのかは、よく分かりません。

この記事の筆者である上澤は、裸眼観測の結果を紙に落とせば、自ずと星図は出来上がると思ったかもしれませんが、どんなに鋭眼の観測家でも、座標決定の手段がなければ、どうしようもありません。この辺の事情は、下の記事のコメント欄でも議論したので、興味のある方は参照してください。

■草場星図を紙碑にとどめん
 http://mononoke.asablo.jp/blog/2012/04/21/6420955

※なお、上のページから「草場星図一覧・暫定版」というエクセル表にリンクを張ってありますが、今やったらうまく開けませんでした。いったんリンク先をファイルに保存して、拡張子をxlsに変更したら開けたので、うまく行かない方は試してみてください。

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さて、こうして全部で13枚の星図が出来上がりました。

 「けれどもそれをどうしようという気は別になかった。
 草場君はいう。
 『そうでもしなければ詰らなくて仕方がない。読んで、観て、その結果を書き込んで、だんだん出来て行くのを見るのが楽しみなのです。兎に角自分が知ったことは細大洩らさず書きつけようと思ったのです』と。」

転機はその4年後、昭和7年(1932)に訪れます。

 「三年程前、山本博士が星に関して放送したことがあったが、その時、彼の研究を知っている近所の人がいった。
 『どうだい、お前さんが書いたものを山本先生に見てもらったら。唯書いてしまって置くだけではもったいないよ』
 彼は毛頭そんな気はなかったが、熱心に勧められるので、とうとうその気になった。」

この決意が草場の運命を変えるのですが、ここに可笑しなエピソードがあります。

 「が、第一着物がない。先生の前へ初めて出るのに「恵比須町衛生組合」の半天を着ても行けない。それで新しく貯金をはじめて、大島の着物と、羽織と、それから袴とを新調するまでにはなかなかの日と月が流れた。
 いよいよ十三枚の大きな星図も、羽織袴も出来上がったので、さてそれを抱えて、それを着て、出かけるとなったが、耳が不自由なので一人では覚束ない。近所の人を頼んでついて来てもらった。
 それは一昨年〔昭和8年、1933〕八月末の或日であった。博士は不在だったので、来意を告げて星図を置いて帰ったが、取次に出た女中さんの印象はこうであった。
 『どこか大家の息子さんでもあるでしょうか、立派な召物で、人を連れて来ました』と。」

星図を目にした山本の驚きは一方ならず、さっそく草場を呼び寄せます。

 「そうして会って事情を聞くと、『大家の息子さん』どころか、『耳の聞こえない日傭の溝さらい』なので、博士の感心は驚愕に変って行った。而も性質は善良で、動作は温順なので、驚愕は驚嘆の域にまで上って行った。
 やがて博士が所長となっている京都帝国大学宇宙物理学教室附属の花山天文台に於て開かれた東亜天文学協会の総会席上、その星図が提出されたが、並居る専門家の目を欹(そばだ)たてせないでは置かなかった。」

これが昭和9年(1934)10月20日の出来事で、これ以降のことは、以前の一連の記事に書いた通りです。

ただ、以前引用した新聞記事は、頗る風采のあがらぬ〔…〕中年男が現はれて〔…〕星図を並ゐる天文学者達の前に繰り広げて一同を驚嘆させた(大阪朝日新聞)と、あたかも草場が突如劇的に登場したかのような書きぶりでしたが、実際には、その1年以上前から山本との交流は始まっていたことを、今回新たに知りました。(その後も、草場は何度か花山天文台を訪れ、、昭和9年3月には、東亜天文協会へ正式入会し、10月の総会に備えていた…というのは、これまた前回記事へのコメント欄でHaさんに教えていただいた事実です。)

草場が花山天文台に職を得ることができたのも、この間、山本の薫陶によく耐えたからでしょう。

 「更にうれしい音づれはこの人を見舞った。
 山本博士や八浜職業紹介所理事や其他の人々の配慮と相談によって、花山天文台職員の一人となって、博士指導の下に本格的な星図の作成に取りかかることになったのである。」

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こうして草場の生活が、一応の落ち着きを見せた昭和10年(1935)まで追ってきたところで、今回はいったん筆をおこうと思います。しかし、S.Uさん、Haさんに教えていただいた新知見は他にも多々あるので、それを補遺として、以下に箇条書きしておきます。

(この項、もう1回つづく)

貧窮スターゲイザー、草場修(10)…カテゴリー縦覧:天文趣味史編2015年04月11日 20時14分08秒

以下は長めの補遺です。今後のために、今回新たに分かったことをメモしておきます。いずれも前々回の記事のコメント欄で、S.UさんとHaさんに教えていただいたことです。

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草場を盛り立てた山本一清による草場評が、天界」昭和9年(1934)12月号に載っています。
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/166929/1/tnk000164_041.pdf

これは興味深い一文で、ここには、これまで知られていなかった草場星図の成立事情が書かれています。
それは、昭和8年夏に、草場が初めて山本を訪問した際に持参した星図と、翌年の東亜天文協会総会に提出した星図は違うものだった…という事実です(以下、引用は現代仮名遣いに変更)。

 「書き終えた大星図が、花山へ運ばれたのは昨1933年の夏であったが、此の図は普通の地図と同じ座標形式で画いたために、天球儀の如く、天を裏かえしにした珍物であった。此の欠点を注意された同君は直ちに最初から画き直す決心をし、尚お星の名や文字の配置などに改良を加えつつ、今秋又々立派なものを花山に持って来た、それは我が東亜天文協会の総会の日であった。」

これは大変な労力を要する渾身の大業と言ってよく、草場の情熱とエネルギーを雄弁に物語ります。そして、草場は自分の星図に、絶対の自信を持っていただろうことを窺わせます(この点については、以下で再度触れます)。

また、

 「昨秋〔=昭和8年〕の全国的な獅子座流星群のシーズンには、同君は京都帝大病院に入院中の窓から多数の観測報告を齎〔もたら〕した。」

とあって、彼はこの時期、病気療養をしていたことが知れます。
病気の種類は分かりませんが、京大病院に入院したのは山本の配慮でしょう。1933年はしし座流星群の当たり年で、草場は病躯をいとわず、それを病室から熱心に観測していた…というのは、草場をノベライズするとしたら、欠かせないシーンじゃないでしょうか。

 「又、最近の近畿地方大風害には我が身を忘れて復興事業に参加した―そのひまに、過去数年来購入愛読しつつあった書物を大部分盗まれて了った!!」

草場は、図書館を利用するばかりでなく、自分の懐でコツコツ書籍をそろえていたことが証されます。
以前も書きましが、草場はまだドブさらいだった貧しい時代、丸善を通じて、ドイツで出たスツーカー星図(Stuker, Stern Atlas, 1924-26、全3巻)を入手しており(http://mononoke.asablo.jp/blog/2012/04/21/6420955#c6427489)、これは文字通り衣食を削って買ったものに相違なく、盗難は大変な痛恨事だったでしょう。(とはいえ、この時期は、草場の未来が開けつつあった時期ですから、絶望の底に落ちて、再び放浪の旅に出る…なんてこともなく済んだのは幸いでした。)

最後に山本による草場の人物評。

 「大阪の、近代的な悪魔社会に住みながら〔←すごい書きぶりですね〕草場君は、夜毎の星を友とすることによって、極めて明朗善真な精神を持ちつづけ、義理厚く、礼儀正しく、まれな高潔の心を保ち、常に微笑を以て人と相対し、誠に美しい印象を周囲に与えている。〔…〕吾人は〔…〕同君の人格が更に美化され、あらゆる意味に於いて学界の名花とならんことを望むものである。」

これはべた褒めに近く、単なるリップサービス以上に、草場に惚れ込んでいたことを物語るものでしょう。

なお、例の「婦人之友」の記事の末尾で、草場の方は「山本先生に対して感じていることは?」と聞かれ、こう語っていました。どういっていいか分かりません。ありきたりの美しい言葉で幾らいってもダメですから」。
草場の方も、当然ながら、言葉にならぬ恩義を感じていたようです。

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「天界」の同じ号には、別の筆者も草場について書いています。
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/166920/1/tnk000164_072.pdf

「或る日の花山」と題する記事で、筆写は萑部進・萑部守子とありますが、これはおそらく仮名でしょう(見る人が見れば誰か分かったと思います)。この記事も実に興味深い内容です。

 「草場星図氏―半月前の総会で御目に掛ってから二三夜を経た或る朝、草場氏の名は忽ちにして津々浦々まで響いた。
  「目を覚ますと、いつの間にか世は挙(こぞ)って私の名を口にして居るのだ!」これは正に草場氏に適用さるべく予てバイロンが用意して置いた言葉でもあろう。「世界一」と云う讃辞を「ルンペン」という焦点にピタと合わせた手際は流石にヂャーナリズムである。大風一過、種無き新聞としては思いも掛けざりし大ヒットであった。」

 一読、棘を含む文章です。

 「斯くして、
   一、新聞は売った。
   二、苦学者は報いられた。
   三、世道人心は益せられた。
ひとり山本一清博士のみは淋しく残されたのではないか?とにかく、恐らく「世界一」の一語のために!これをルンペンならぬ「ルンペン」にくくつけた〔ママ〕のは新聞の罪だ。然し世に恐るべきはインテリゲンツィアの群れではある。翻って私共は山本博士に対する満腔の同情と信頼を持ちながら上記の如く一夕花山へと足を運んだのである。」

草場が世上もてはやされることを面白くなく感じ、肝心の本尊である山本先生が無視されているじゃないか!…というのを口実に、草場を排撃する声が、早くも起こっていた気配があります。山本への敬意を口にはしていますが、この筆者の心を支配していたのは、明らかに嫉妬の感情でしょう。

草場と山本の親密さを、面白からぬ思いで見ていた人が身近にいたのは確かだと思います。

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それから4年が経った「天界」18巻210号(1938)に、草場の「星座の日本学名に対する私見を読みて」という評論が載っています。
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/167717

「天界」の前の号に掲載された、他者の論考に対する批評文です。
その舌鋒は鋭く、内容も辛辣を極めます。何となく「温順で控えめな人」というイメージのある草場像に対し、これは修正を迫るものです。

その後記には、「1938年8月7日 清水下にて」という署名があり、「自分は京大並びに花山天文台在籍中は色々の意昧で自発的に遠慮して、一切私見は書かず、天界利用を差しひかへる立前を採っていましたけれども、今後はその必要もなくなりましたので」…云々とあって、この時点では、既に京大を退いていたことが分かります。

これは師である山本が、1938年春、京大辞職に追い込まれたのに連座したものでしょうが、その理不尽さへの憤りが、草場にこのような激しい言葉を書かせたのかもしれません。

ともあれ、この後記は草場の激白というべきもので、彼が京大時代、どんな仕打ちを受け、どんな思いで耐えていたかを、はっきりと示すものです。

 「又全く別の事ですが愚作の星図に就きましくも種々の不評は知っています。それに就ても一言、いや云い度いことは山程ありましたが,言わぬが花と沈黙を守って来ました。尚又、星図に関するものに就ても既刊星図ノルトン、ボン、シューリギョッツ、其他五種ばかり、アラ探しもしてあり、材料は持ていますが、それを書けば他の揚足取リと見られるので遠慮しているに過ぎません。愚作の星図がキタナイと云うことは僕自身が当初から大いに宣伝していることでありまして、是れは最初の予定が斯様な印刷法にする為ではなかったことに起因します。然し星図は消耗品でありますからキタナイと云う事は星図の利用価値がなくなる事にはならない筈です。」

草場がどれほど苦労をして、あの星図を作ったか。
そして、草場がそれにどれだけの自信と愛情を抱いたか。
にも関わらず、周囲にはそれを「キタナイ」と悪しざまに言ってのける人が、チラホラいたのでしょう。それがいかに草場の心を傷つけ、怒らせたか。

この一文は、京大を退き、もはや誰にも遠慮のなくなった草場が、その思いを一気呵成に吐き出している観があります。
あるいは、この時の草場は、いささか捨て鉢な気持ちになっており、本来の彼はやはり温順な人だったのかもしれませんが、その辺の真相解明は、今後の課題です。

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天上の美から、一気に地上の人事の話題に落ちましたが、しかし草場という人間を知る上では貴重なエピソードと思い、あえて書きつけました。

「野尻抱影の本」…カテゴリー縦覧:野尻抱影編2015年04月12日 16時03分18秒

ブログのカテゴリーの順番に沿って話題を出し続ける「カテゴリー縦覧」。
天文プロパーの話題が終って、以下、しばらくは天文以外の話題が続きますが、抱影や賢治は、まだまだ天文気分の濃い領域です。

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野尻抱影(1885-1977)という人は、ずいぶん多作な人で、ウィキペディアに載っている著作を数えたら、大正13年の『三つ星の頃』から、昭和52年の『星・古典好日』に至るまで、生前に出た単著の数は60冊を超えていました。中には旧著を再編集しただけの本もあると思いますが、それにしても大した量です。

「星の文学者」として隠れもなく、熱心なファンも多いはずなのに、しかし、その全集が編まれたことはついぞありません。抱影、賢治、足穂という、ペンを手にした夜空の大三角のうち、全集を持たないのは抱影だけです。ちょっと不思議な気もしますが、その主要テーマが「天文」とピンポイントなので、やはり絶対的な需要は限られるのでしょう。

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とはいえ、その筆業を概観するのに便利な本があります。
以前、筑摩から出た「野尻抱影の本」という4巻本選集です。


1989年1月7日、昭和天皇没。
その直後の1月25日が、第1回配本の『星空のロマンス』(石田五郎編)の発行日になっています。その後、月を追って1冊ずつ配本があり、2月『山で見た星(宮下啓三編)、3月『ロンドン怪盗伝(池内紀編)、4月『星の文学誌(原恵編)が出て完結。

抱影が生き、慣れ親しんだ明治・大正・昭和の三代が遠い世界になりつつあったときに、その選集が出たことに、少なからず感慨を覚えます。

(安野光雅さんの装幀が洒落ています。)

この選集は、抱影のことを知る上で、とても目配りの利いた構成になっています。

第1巻『星空のロマンス』は、「抱影節」の効いた天文エッセイ集で、いわば抱影のスタンダードナンバー。続く『星の文学誌』は、本業の知識(彼はもともと英語の先生でした)を生かした、星座神話や天文英詩についての評論集。第3巻『山で見た星』は、必ずしも天文に限らない、自伝的エッセイや小品、少年小説、山行記などが収められており、若い頃関心を示した、心霊の話題なども顔を出します。

そして第4巻は『ロンドン怪盗伝。ちょっと意外に思われるかもしれませんが、抱影が星と並んで興味を抱いたのが「乞食と泥棒」で、抱影のその方面の仕事も取り上げているところが、この選集の優れている点です。抱影は頭上の星ばかりでなく、生身の人間にも深い関心を寄せていました。

(『ロンドン怪盗伝』の帯。池内紀氏の解説文からの引用)

かつて松岡正剛さんは、生前の抱影に、その関心の由来を尋ねたことがあるそうです。

 なぜ星の専門家が乞食と泥棒に関心をもつのかというと、
これはぼくが直接に聞いたことだが、
あなたねえ、天には星でしょ、地には泥棒、人は乞食じゃなくちゃねえ」
というのである。
(松岡正剛の千夜千冊:野尻抱影『日本の星』 http://1000ya.isis.ne.jp/0348.html

洒脱といえば実に洒脱。
金持ちや権力者なぞ屁でもないという、抱影の反骨精神が頼もしいです。

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洒脱といえば、第3巻の帯に出てくるエピソードはどうでしょうか?


思わずクスリとする、胸のすくような話ではありませんか。
ちょっとへそは曲がっていますが、なかなか面白い老人ですね。
この老人が逝って、今年で38年。日本の世相もずいぶん変わりました。