蛍光と蛍石の話(その3)2019年08月18日 08時37分01秒

(昨日のつづき)

論旨を補強するため、もう一冊明治の本を挙げておきます。


こちらは、和田の本のさらに4年前に出た、松本栄三郎『鉱物小学』(錦森閣、明治15年(1882)再版)です。この本には種本があって、スコットランドのJames Nicol(1810-1879)の『Elements of Mineralogy』(初版1858)を編訳したものです。

(上掲書第27丁「蛍石」の項)

この本は、鉱物名が未確立だったことを反映して、石脳油(クサウヅノアブラ)とか、石英(メクラズイセウ)とか、ほかにも雲母(キララ)長石(ボサツイシ)緑泥石(チチブアヲイシ)など、漢字の脇に古めかしいルビを振っています。そして、この本でも「蛍石」はやっぱり「ホタルイシ」ですから、これが日本に昔からあった名前である傍証になります。

注目すべきは、文末に産地として「豊後・美濃等」が挙がっていること。

同書の産地記載は、琥珀は「陸前、陸中等」、辰砂は「大和、紀伊等」、雲母は「岩代、近江、三河其他所々」…などとあって、近時のものではなく、古来の産地のように読めます。少なくとも明治の初めには、蛍石の産地と見なされる鉱床が見つかっていたことは確かです。

蛍石が江戸時代にも産した(天然自然に存在するばかりでなく、人の手で採掘が行われていた)ことをうかがわせるものとして、シーボルト(及び彼の同行者、ハインリッヒ・ビュルガー)が、日本産鉱物種を記載した資料中に、「Flussspath」(蛍石)が出てくることが挙げられます(文献1)。

オランダ商館員のシーボルトらが、各地の山間深く分け入って、自由に鉱物を採集できたはずはないので、これも同時代の日本人が掘ったものが、彼らの手に渡ったのでしょう。

   ★

その後、明治から昭和にかけて、工業化の進展とともに蛍石の需要はますます高まり、あまりにも掘られすぎたせいで、ついに国内鉱山からは枯渇し、姿を消します。

岡野武雄氏の論文(文献2)を読むと、「日本で蛍石は1972年迄採掘され、その最盛期は1963年(2.1万t)であった。日本の蛍石はほぼ掘り尽くされたといってよい。〔…〕国内からは今後も採掘可能な鉱床の発見される可能性は乏しい」とあります(p.30)。

1980年代以降、今に至るまで、蛍石は全量を輸入に頼る状態が続いています。

その使途は、当然のことながら、ほぼすべて工業用で、岡野氏が挙げる1981年現在の状況は、「1981年の蛍石の輸入量は43万tで、中国(60%)、タイ(20%)、南ア(18%)などから輸入されている。輸入蛍石の主要な仕向先は、製鋼用18万t、弗化物用(弗酸など)12万t、アルミ精錬用3万tなど」でした(同)。

最近、韓国ともめた高純度の「フッ化水素」も元は蛍石が原料です。(フッ素の「フッ(弗)」も、大元は「フローライト」の「フ」であり、猛毒の弗素を相手に、かつて多くの科学者が犠牲になったことを、今回知りました。)

(英・ロジャリー鉱山産)

可憐な「ほたる石」も、なかなか可憐の一語では済まないものがあります。

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以上、勢い込んで調べ始めたわりに、さっぱり分からないことばかりですが、でも、「分からないということが分かる」ことも大事ですし、こうやって疑問を形にしておけば、いつか『諸国産物帳』とか、江戸時代の本草書や地誌の中から、蛍石の名がひょいと見つかることもあるでしょう。

(この項おわり)

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文献1) 田賀井篤平 「江戸時代の鉱物認識とシーボルト」
東京大学コレクションXVI「シーボルトの21世紀」所収
※蛍石は「石類」の26に登場。

文献2)  岡野武雄 「日本の工業原料としての非金属鉱物 (2)」
「地学雑誌」92-6(1983)、pp.22-38.

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