150年前の星の残像を宿して2019年07月01日 16時32分15秒

昨日のつづき。今日は正真正銘のアイピースです。


写真の左側に写っているのは、イギリスの天文趣味の父、トーマス・ウィリアム・ウェッブ(Thomas William Webb、1807-1885)の伝記。

ウェッブが、最初期の天体観測ガイド『普通の望遠鏡向けの天体(Celestial Objects for Common Telescopes)』(初版1859)で、人々を天文趣味に誘い込んだ頃、当時の人が覗き込んだのが、まさにこういったアイピースたちでした。

150年前、地上に降り注いだ星の光は、これらのレンズで屈折した後、さらに水晶体を通って視覚的な像を結び、古人の心に深い感興を起こした…と思うにつけ、何だか愛しいような、床しいような。


この平べったいのは、太陽観測用のサングラス。


手前に写っている長細いアイピースは、こういう専用の革ケースにきっちり収まっています。


これまた何とも床しいですね。
こういう風情こそ、ヴィクトリア時代における天文趣味隆盛の余香なのでしょう。

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ときに余談ですが、こういう古い機材を手にして気になるのが、何だかネジが互いに合ったり合わなかったり、規格がバラバラなことです。


その辺の事情を知りたいと思って探したら、Randall C. Brooks 氏の「Standard Screw Threads For Scientific Instruments. Part I: Production Techniques And The Filière Suisse」という論文が見つかりました。

それによると、ネジ山の規格化が進んだのは19世紀も終わり近くになってからのことだそうです。興味深い内容なので、今後のメモ用に、イントロダクションだけ適当訳しておきます(途中改行は引用者)。

 「古い科学機器に携わった者ならば、誰しも気づいているように、たとえ名目上同じサイズで、同じ機器に使われていたとしても、2つのネジが相互に交換できることは少ない。その理由は3つある。第1に、ネジ製作用の器具は、19世紀半ばまで、通常あまり切削能力にすぐれておらず、それ自体不正確に作られていたので、ネジ山のピッチと形状に差が生じたこと。第2に、当時の製錬・鋳造技術による金属素材の組成と密度は、依然不均質だったこと。さらに3点目として、当時のメーカーは、修理が必要となった際、顧客に引き続き自社を利用してもらうため、あえてライバル社とは異なるピッチと形状の器具を使ったことである。

以下では、フィリエール・スイス(Filiere Suisse;FS)や、ブリティッシュ・アソシエーション(British Association;BA)といった、標準ネジ山規格が定まる過程で考究された事項について、その詳細を考察する。こうした規格は、特に時計や科学機器といった精密品のために、19世紀の第4四半期に発展した。その結果、科学装置の製造者側にはコスト低減が、ユーザー側には利便性がもたらされたが、これこそ長年にわたる懸案事項であり、この新しい規格は、約40年前に、工学研究のためにホイットワース〔Sir Joseph Whitworth、1803-1887〕が提唱した先駆的な標準ネジ山規格よりも、いっそう速やかに採用されることになった。

ここで議論を進める前に、結合用ネジと調節用ネジ、さらにマイクロメーター用ネジの区別を明確にしておく必要がある。結合用ネジとは、言うまでもなく最も一般的なネジだが、機械的に2つ以上の部材を互いにしっかり固定するためのものであり、そのため機械的負荷から生じる圧力に耐えられなければならない。一方、調節用ネジとは、動作の制御と、部材間の位置関係を調節するためのものであり、通常、機械的負荷はその主たる問題ではなく、操作のなめらかさこそが決定的に重要な要素となる。そしてマイクロメーター用ネジとは、正確なねじ山を持ち、ネジの動きから対象の位置測定が可能となるだけの精度が求められる調節用ネジ〔の一種〕である。

ネジの製造方法を概説することは、18~19世紀の機械工が作業する上での限界を明らかにするためにも有用であろう。」

エジプトの星を見る2019年07月03日 06時17分54秒

妙に縦長の本。


幅が11センチに対し、高さは24センチあります。
本というより、冊子と呼ぶのがふさわしい、薄手の出版物です。

■H. E. Hurst、M. R. Madwar、A. H. Samaha(編)
 『Star Atlas for the Latitude of Egypt(エジプトの緯度用星図帳)』
 R. Schindler(Cairo)、1942(第2版)、46p.

読んで字のごとく、エジプトの緯度に合わせた星図帳で、主にエジプトで暮らすイギリス人向けに編まれたものです。

当時のエジプトは一応エジプト王国として、独立国の体裁をとっていましたが、イギリスの間接統治による反植民地的存在でしたから、軍人やら商人やら、多くのイギリス人がエジプトに住み、中には砂漠の地を往くために、実際的なナビゲーションツールとして、星の知識を必要とする人もいましたし、そうでなくとも澄んだ星空に興味を覚える人が大勢いたので、こうした星図帳が編まれたわけです。


メインとなるのは、季節の歩みに応じた6枚の星図です。
たとえばこの図1は、1月の午後8時の空を描いたもの。

そして、季節は徐々に移ろい、夜空を彩る星座の顔ぶれも変わっていきます。


こちらの図4はちょうど今頃、7月の午後8時の空です。


星図の他に、パラフィン紙に刷った座標図がおまけに付いているのは上手い工夫で、これを星図に重ねると、天体の天球座標と地上座標が読み取れるようになっています。

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「エジプトの星空」と聞くと、いかにもエキゾチックな感じがします。

カイロの町は北緯30度ですから、北緯51度のロンドンの空を見慣れた人の目には、確かにずいぶん違った空に映ったでしょう。でも、北緯36度の東京と比べた場合は、北極星の高度が若干低いとか、カノープスが見やすくなるとかの差はあると思いますが、空を彩る星座たちは、似たような顔ぶれです。(ちなみにロンドンの緯度は、日本近傍だと樺太北部、カイロは種子島とほぼ同緯度になります。)

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それでも、日本の空とエジプトの空には、ひとつ大きな違いがあります。
それは濛気(もうき)の有無

具体的な数値を引っ張ってくると、「エジプトでは年間降水量が 80mm を超える地域はほとんどない。〔…〕カイロの年間降水量は 10 mm を若干上回る程度である」…ということが、環境省の著作物〔LINK〕に書かれていました。驚くほどの少雨です。

日本でも雨の少ない土地はありますが、少ないところでも700mmを超え、平均すると1700mmぐらいですから、エジプトとはまるで比較になりません。特に春から秋にかけて、日本は常に湿潤な空気に覆われ、空気中に漂う水蒸気は、星の光をうるませ、おぼろにし、さらに地上光を反射することで、空自体を明るいものにします。

一方、エジプトの空はいつもカラッとして、星の光は鋭くカッチリとしています。まあ、私もエジプトの空を見たことはないので、自信満々に言うことはできませんが、理屈で考えれば、そのはずです。

一点の濛気もない春の星座たち――日本のスターゲイザーは、それだけでもずいぶんエキゾチックに感じるんじゃないでしょうか。

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この星図帳は、星図以外に入門者向けの星空解説が詳しく載っています。


そして、前の持ち主はそれをじっくり学んだことが、あちこちに書かれたメモから伺えます。


彼がどんな思いでエジプトの星を眺めたかはわかりませんが、彼の熱意は疑うことができません。見も知らぬ過去の人が、親しい友人のように感じられるのはこういう瞬間で、何だか無性に嬉しいものです。

七夕選挙2019年07月04日 06時31分59秒

今から3年前、2016年7月も参院選挙でした。

この3年間で、世の中はちょっとまともに揺り戻したかな?と思えることがあります。「え!どこが?」と思われる方も多いでしょうが、3年前に自分が書いた文章を読んで、ふとそんな気がしました。

■ライト&レフト

 「おそらく、今の「ウヨク vs. サヨク」の図式から欠落しがちなのは、「権力者 vs. 民衆(貧者)」のテーマです。お奉行様と越後屋が結託して民衆をいじめる…というのは、何も時代劇の世界ばかりではなくて、今目の前で起こっている事態は、まさにそういうことです。

おそらく今の為政者が警戒しているのも、「権力者vs. 民衆」の対立軸が、露骨に可視化することではないでしょうか。そういう語り口が、今は世間の表面から巧妙に隠蔽されていますが――あるいは、目くらましとして身近な「小金持ち」や他国に対するルサンチマンを刺激して、権力者への怒りをそらしていますが――でも、こういうことは、もっとあけすけに語った方が良いのです。そうでないと、とにかく民衆からは搾れるだけ搾ってやろう…という普遍的な悪だくみが、またぞろ繰り返されることになります。」

…と、自分は書きました。

あの頃は北朝鮮のミサイル問題で、政権は盛んに目くらましをやり、それがまた面白いように効果を挙げていました(今回は、それが韓国叩きにシフトして、驚くほど成長がないです)。

しかし、例の2000万円問題のおかげもあって、今や「権力者 vs. 民衆(貧者)」のテーマがもろに可視化され、目くらましに遭っていた人たちも、「おや?何だかおかしいぞ」と気づき始めたように見えます。まあ、公式に設置された諮問会議の報告書を受け取らないなんていう、露骨で幼稚なことをすれば、さすがに気づいて当然でしょう。

政治的な議論よりも何よりも、リアルな生活がかかってくると、民衆は急速に熱を帯び、力を持つものです。だからこそ、権力者はそこに目くらましを仕掛けてくるし、力の結節点となる存在(メディアや組織や人)を、強引に排除しようとするのです。

民衆の一人たる私としては、そうした後ろ暗い動きに常に目をそばだて、生活のリアルを見失わないよう用心したいと思います。

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そう言えば、3年前の参院選で自公が勝利し、その直後に、現上皇が退位を口にされたことも、今となってみると、すこぶる大きな意味があったように感じられます。もちろん本当のことは分かりませんが、何かしら暗闘はあったでしょう。

銀河は煙り、鳥は天に集う2019年07月06日 11時31分44秒



戦前の「銀河」ブランドの煙草パッケージ。
明るい星々の間を縫って、滔々と流れる天の川のデザインが素敵です。


深みのある萌葱(もえぎ)色の空に銀刷りが美しい。
銀河の星々は明るいパステルグリーンです。


折り曲げて箱状にすると、元はこんな表情。


パッケージの裏面に目をこらすと、そこには「朝鮮総督府専売局」の文字が。
この可憐な品にも、やっぱり歴史の影は差していて、いろいろ考えないわけにはいきません。なお、京城(ソウル)の朝鮮総督府に専売局が置かれたのは、大正10年(1921)~昭和18年(1943)までのことだそうです。

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ところで、七夕習俗は中国から朝鮮半島を経て日本に伝わったものですから、現在も対馬海峡をはさんで、似たような季節行事が両国に残っています。せっかくの伝統行事ですから、ここはネットに頼らず、任東権(著)『朝鮮の民俗』(岩崎美術、1969)を紐解いてみます。

それによると、牽牛・織女の説話は同様で、若い女性が針仕事の手並みが上達するよう祈るのも日本と同じですが、それと対となるように、若い男性が二つの星を題して詩を作り、勉強に励むことを誓う日だった…というのは、微妙に違いますね。日本でも、星に和歌や書の向上を願うという風習はありますが、特に男性限定でもないような。

それと、七夕の夜に雨が降ると、牽牛と織女が出会えた喜びの雨だとするというのも、日本とは逆転しています。

ちょっと面白いと思ったのは、七夕になると、地上からカラスやカササギが一羽もいなくなるという言い伝えです。それは彼らが銀河に橋をかけるために昇ってしまうからで、もし地上にカラスやカササギがいても、それは病弱で飛べないものばかりで、元気なものはみな烏鵲橋を架けるのに参加するのだ…という話。

日本にも「烏鵲(うじゃく)の橋」という言葉があって、七夕の晩にはカササギが銀河に橋をかけることになっていますが、日本では「烏鵲」全体で「カササギ」の意とするのに対し、半島ではこれを「烏+鵲」と解して、「カラスとカササギ」の意に取るのが変わっています。

では、本家・中国はどうなのか…というのが気になります。はたしてカラスは天に上るや、上らざるや? こういう時こそ「名物学」過去記事にリンク)の出番なのですが、例の青木正児氏の『中華名物考』にも言及がなかったので、正解は今のところ不明です。


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【付記】 上のこととは関係ありませんが、「カササギ」の語源をめぐって、かつて常連コメンテーターのS.Uさんと、コメント欄で延々と語り合ったことがあります。参考にリンクしておきます。

■かささぎの橋を越えて http://mononoke.asablo.jp/blog/2016/07/07/8126796

七夕のふみ2019年07月07日 09時17分57秒

七夕にちなむ艶な品。
絵葉書サイズですが、裏面は白紙なので、絵葉書ではありません。おそらく明治か大正の頃に版木で刷った、一種の挨拶状です。


メッセージが、笹竹にぶらさげた七夕飾りの体になっているのが洒落ています。


赤い色紙をめくると、さらに浅黄の色紙へとメッセージは続きます。

この崩し字は、流麗すぎて、にわかに判読しがたいですが、要は「七夕の頃には、せめて年に一度の逢瀬と思うてお出かけくださいまし」と、粋筋が得意客に配ったものでしょう。(左上に見える「そがのや」という屋号は、待合か何かでしょうか。)

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天上の星が出会えば、地上の人もまた出会う。
まあ、上の挨拶状は若干慾まじりかもしれませんが、そういうのを抜きにして、七夕が懐かしい人と交流する機会となるなら、それに便乗しない手はありません。

そういえば、昔の七夕は盆の行事と一部混淆していたので、そうなると七夕は文字通り懐かしい人(故人)と再会する機会でもあったわけです。

銀河流るる音を聴け2019年07月08日 05時33分48秒



真夜の岳 銀河流るる 音を聴け   蓼汀

作者の福田蓼汀(ふくだりょうてい、1905-1988)は虚子門の俳人。
俳誌「山火」を主宰。登山家としても知られ、「山岳俳句」の第一人者だった…というのはネットで見知ったことで、私は蓼汀その人について、それ以上のことを知らないのですが、それにしてもこの句は、まさに銀河絶唱といって良いのではないでしょうか。

高山の頂近くに身を置き、深夜、頭上を真一文字に奔る銀河を見上げたときの心持を想像すると、私の耳にもその滔々たる音が聞こえてくるようです。

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こういう句をあまり人事に引き付けて考えるのは良くないかもしれませんが、蓼汀は64歳で次男を山岳事故で喪い、その悲しみを連作俳句に詠み込んだというエピソードを知ると、「天の川は死者が往還する道」ということが思い出され、句にいっそう蕭条たる陰影が添う気がします。

この句がもっと若年の作としても、晩年に自作を読み返したとき、彼の心には複雑に去来するものがあったんじゃないでしょうか。(蓼汀には、次男追悼の句として、同じく「真夜の岳(まよのたけ)」を詠み込んだ、「稲妻の 斬りさいなめる 真夜の岳」という烈しい慟哭の句もあります。)



不思議な青い空2019年07月10日 06時33分46秒



高山の星空を写した幻灯スライド(19世紀末の英国製)。


写真に撮ってから初めて気が付きましたが、山上に光るのはオリオン座ですね。
深青の空に白い星が点々と浮かんでいる光景は、空気の澄み切った、夜明け前の一刻を思わせます。もちろん、この空は手彩色で、星も後から描き加えたものなので、これは実景ではありません。

さて、これはどこの山かな?と思って書かれた文字を読むと、そもそもこの山からして、実在の山ではありません。


「Model of Mountains on the Moon」、すなわち月の山脈モデル

これは石膏で作られた、月面の地形をかたどった模型を写真に撮ったものです。
それをまた夜景化して幻灯で映写するとなると、虚像の虚像の、そのまた虚像ということになって、何が何だかわけが分からないですが、19世紀の人は、それほどまでに月面の光景に憧れたのでしょう。

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この月の山の石膏モデルは、イギリスの富裕なアマチュア天文家、ジェームズ・ナスミス(James Nasmyth、1808-1890)が制作したもので、彼が作った各種の月面模型は当時大きな評判を呼び、同時代の天文学書には、しばしばその絵や写真が載っています。その現物のいくつかは、現在、ロンドンの科学博物館に収蔵されている由。

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月に大気がないことは当時も分かっていました。月の空は昼でも真っ暗だし、そこに太陽だけがギラリと光っていることも理解されていました。

それなのに、このスライドの作り手は、なぜ月の上空を青く染めてしまったのか?
そこが解せないところですが、何せ虚像の虚像の、そのまた虚像です。そこに「あり得ない空色」が加わることによって、画面はいっそう謎を帯び、そこがまた魅力的でもあります。何だか夢の中で見る光景のようです。

ナスミスの『月』2019年07月13日 11時54分14秒



ナスミスによる月地形生成論は、『The Moon』という本にまとめられています。
彼の月模型が大々的に紹介されているのも、本書においてです。

(ナスミスが制作した月面模型のひとつ。ウサギの耳の脇に並ぶテオフィルス、キリルス、カタリナの各クレーターを中心とした領域)

初版は1874年ですが、手元にあるのは、ナスミスの死後、1903年に出た第4版です。

■James Nasmyth and James Carpenter(著)
 The Moon: Considered as a Planet, a World and a Satellite.
 John Murray (London), 1903. 315p.

ブックデザインは版によって違いますが、第4版は金色の月が目印。


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月のクレーターの成因については、火山説衝突説が拮抗し、20世紀後半になって最終的に衝突説が勝ち残った…というのが一般的理解でしょう。ただし、ガリレオによる月のクレーターの発見以来、火山説が優勢だった期間の方が圧倒的に長い、ということも見逃せません(中にはウィリアム・ハーシェルのように、自ら月クレーター内部で噴火が起こるのを見た…と主張する人もいました)。何せ19世紀以前の知見に照らせば、火山説の方が学理がしっかりしており、衝突説は単なる思い付きの域を出なかったからです。

もちろんナスミスも火山説に立って、論を展開しました。



彼はクレーターの中央丘を噴火口の痕跡と考えて、強い注目を向けています。



『The Moon』には、何やらアーティスティックな写真も挿入されています。
この2枚の印象的な写真は、月の皺状山脈は月内部の収縮によって形成されたという説を、感覚的に訴えるためのものです。


そして、彼は月の山脈そのものの模型も手掛け、それを元にしたのが前回の幻灯スライドだろうと思うのですが、正確を期すと、あのスライドと全く同じ構図のナスミス模型は未発見なので、あれがナスミス作というのは、今のところ私の個人的推測です。

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今や、かつて「奇説」だった衝突説が確立し、「通説」だった火山説は、すっかり過去の遺物となりました。時代の俊才が、ありったけの証拠に基づき、最も合理的に推理した所論でも、時には間違うことがあります。

…というよりも、そうした事例の方が、歴史的には多いでしょう。
ナスミスのこの本も、その雄弁な証人です。

そして、ナスミスにとっては甚だ迷惑かもしれませんが、過去に押しやられた古風な学説だからこそ、そこにある種の魅力が伴っていることも否定できず、そうした遺物に囲まれると、奇妙な安らぎを覚える偏屈な人も世間にはいるのです(私のことです)。


【参考】

■Christian Koeberl、
 Craters on the Moon from Galileo to Wegener: A Short History of the Impact Hypothesis, and Implications for the Study of Terrestrial Impact Craters.(⇒リンク


食えぬ男、ナスミス2019年07月14日 11時02分18秒

ジェームズ・ナスミスの話題を続けます。

(James Nasmyth (1808-1890)、出典:Wikipedia)

彼はスコットランド出身の鉄工業者で、自ら技術者・発明家としても活躍し、たぶん蒸気ハンマーを発明したことで、最もよく知られているでしょう。その富の源泉も、蒸気ハンマーでした。

その天文学とのかかわりは子供時代からで、画家である父親の望遠鏡で、月や惑星を眺めることを楽しみ、すでに10代の頃には、自ら反射望遠鏡用の金属鏡づくりに手を染めていたと言います。彼の天文活動は、富裕な工場経営者になってからも一貫して続き、ウィリアム・ラッセルや、アイルランドのロス伯といった、当時の錚々たる天文家と交流し、専門誌に論文を発表しました。

ナスミスをはじめ、彼らはいずれもアマチュアの立場ながら、プロ以上に巨大な望遠鏡を所有し、多くの成果を挙げた、いわゆる「グランドアマチュア」で、アラン・チャップマン氏の『ビクトリア時代のアマチュア天文家』(産業図書、2006)は、「巨大反射望遠鏡の同志たち」という章(第6章)で、彼らの活躍を詳述しています。

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ところで、『ビクトリア時代のアマチュア天文家』は、巻末の註の中で、ナスミスの横顔を以下のように伝えています(邦訳341ページ、改行は引用者)。

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Nasmyth の Autobiography (文献53) 444頁は,しばしば友人に宛てた手紙に見られるように、版に彫られた「ジェームズ・ナスミス本人印 [拇印] (James Nasmyth Hys [thumbprint] Marke)」で終わっている。

Nasmyth の 余暇活動の範囲は、少なくとも1人の妾宅を構えることにまで及んでいた。相手の Flossie (Russell?) との間には一人娘の Minnie を1859年にもうけている。

彼が Flossie そして後に Minnie に宛てた手紙には、彼の名前がサインされることは決してなかったが、決まってジョークやからかいの文句、スケッチ、そして「本人印」等で満ちていた。Nasmyth の非常に癖のある筆跡とジョークから、それらの手紙は紛れもなく彼のものだと分かる。彼が Flossie に宛てた,通常は日付のない手紙には、時折「ではこれにて。食えぬ男より。本人*印(Yours Ever affectionately The Old File [or Hold File] hys * marke)」とサインされていた。

Minnie は Nasmyth から年利3%という1,000ポンドのコンソル債を遺贈されたが、後に不誠実な弁護士が彼女からその金を騙し取った。彼女は1940年に没した。

私は Minnie Abbott 夫人の曾孫であるエセックスの C.J.R. Abbott 氏に感謝している。彼はまことに親切にも、手書きの書簡類のコピーと写真を1997年4月に送ってくれた。実際、これらの手紙は M.N.R.A.S. 〔引用者注:Monthly Notices of the Royal Astronomical Society〕には決して現れることのないグランドアマチュア社会の一面を明らかにしてくれるものである。
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ナスミスは発明家であると同時に、なかなか「発展家」でもあったのですね。
まあ、それはともかくとして、文中に出てくる「本人印」というのが、読んでいてどうしても分かりませんでした。

しかし、謎は解けるときには解けるものです。
その後、現物を見て、ようやく疑問は氷解しました。


下に見える紙片は、業者が同封してくれた説明書きです。
記録をたどると、私はこれを2010年に45ポンド出して買ったことになっていて、我ながらなかなか執念深いです。


「本人印」の拡大。
どう見ても本物の拇印にしか見えませんが、正体は精巧に型取りして作ったスタンプです。宛先は不明ですが、日付は1886年3月31日で、ナスミス最晩年のもの。


紙片の下の「Engineer」の文字も同筆で、ナスミスが自分で書いたのでしょう。
ビックリマークを3つも重ねているのは、「どうだい、こう見えても技術者なんだぜ!!!」と、おどけて見せてるんじゃないでしょうか。80歳近くになっても、まったく食えぬ男です。

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まことに人間臭い話であり、人間臭い品ですが、天文趣味の歴史は畢竟、人間の歴史です。

困民、義民2019年07月15日 06時30分26秒

呑気なことを書いている間に、選挙の投票日が近づきました。今度の日曜日です。

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しかし、消費税というのは現代の「年貢」ですね。
貧乏だろうが何だろうが、お構いなしに取り立てる様は、時代劇の百姓苛めの場面と何も変わりません。まさに苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)。

現政権が進めているのは、法人税や所得税の累進性を減らして、その欠を消費税で埋めることですから、そこに現出するのは、「貧乏人が金持ちを支える社会」以外の何物でもありません。理念でいえば、近代の税というのは、昔の年貢とは全然違う性格のもののはずですが、こうなると昔の年貢といったい何がどう違うというのか。

まあ消費税の場合、一回ごとに動く額が小さいし、お役人が直接取り立てに来るわけでもないので目立ちませんが、庶民にとっては、日々ヤスリで身を削られる責め苦に等しいです。このヤスリが、さらに鉋(かんな)になれば、体力の弱い人から失血死するのは理の当然。

そうやって庶民から温かい血を絞るだけ絞って、「マクロ経済なんとかで、今後は年金も減らすから、今からせいぜい貯蓄と投資に励めよ」と、お上はしれっと言うわけです。もはや何をかいわんや…という感じです。

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民が困窮すれば、義民・義士が起つのが世の常。

日本でも、はりつけ覚悟で一揆を企てた人が大勢いるわけで、そのうねりは時に「大一揆」と呼ばれる大規模なものとなりました。さらには幕臣でありながら、義憤に駆られて兵を挙げた大塩平八郎のような人もいます。そして明治に入ってからは、秩父をはじめとする各地の「困民党」の面々。

まあ、今の世に鍬(くわ)や鎌を手にして騒乱を起こす必要もないのですが、世上を見るに、民をないがしろにするのも大概にせよ…という気分は抑えがたく、義民・義士を求める心には切なるものがあります。

私はそういう人を見極めて、一票を投じるつもりです。