賢治の理科教材絵図2009年06月25日 07時03分44秒


最近買った賢治本。

■宮澤賢治 科学の世界-教材絵図の研究
 高村毅一・宮城一男(編)
 筑摩書房、1984

これまでも文学アルバムの類で、賢治の手描きの理科教材を見たことはありましたが、その詳しい来歴は、この本で初めて知りました。

賢治は大正末年~昭和初年ころ、理想主義的な農村振興運動体である「羅須地人協会」を設立し、そこで独自の成人教育に取り組みました。そのとき自ら講義用に絵筆をとったのが、この絵図類です。

実弟の宮沢清六氏の解説によると、これらの絵図は、賢治の没後も実家の土蔵にそのまま置かれていたのですが、太平洋戦争の終結間際、昭和20年8月10日に危機が訪れます。この日、花巻は米軍の空襲を受け、宮沢家からも火の手が上がります。当時宮沢家に疎開していた高村光太郎らも手伝って、懸命に消火活動に当たったものの、焼夷弾の炎は衰えを知らず、清六氏も一時は炎に囲まれて逃げ場を失い、辛くも防空壕に逃れて命をつないだのでした。

清六氏が防空壕から這い出したときには、蔵を残して家屋は全焼。
蔵は火事の発生後すぐに、味噌で入り口や窓の隙間を目張りしておいたので、中のものは無事だったのですが、火事の余熱とは恐ろしいもので、鼠穴からわずかに空気が通じたせいで、空襲後3日目にして土蔵からも火が出て、結局内部は半焼してしまいました。

貴重な教材絵図も、丸められた状態のまま黒く焦げ、水が掛かり、長いこと広げることもままならぬ状態でしたが、地元の表具師・菊池武年氏の努力で丁寧な補修がなされ、今は全49図が宮沢賢治記念館に大切に保管されているとのことです。

賢治の理想、農村の現実、戦争の惨禍etc…多くのことをこれらの絵図に感じ取ることができますが、ここでは理科趣味的視点から、この絵図を見てみようと思います。

(この項つづく)