賢治の理科教材絵図(2)2009年06月27日 12時57分42秒


「雪の結晶と原子・分子」の図。
賢治が心をこめて描いた雪の結晶が愛らしいですね。ただ、全体構成からいうと、これは一連の絵図の中でも、かなり例外的な分野を扱っています。

これらの絵図は、描かれた目的からして当然ですが、広い意味での農学、つまり植物の構造や土壌についての説明図が大半を占めています。いわば純粋科学よりは応用科学的な内容で、「理科趣味」的感興はいささか薄いような気がします。

…と書きかけて、考えました。

そもそも、賢治にとって科学とは何であったのか?
少なくとも、それは私が玩弄するような「日常からの逃避」や「好事な慰み事」としての<理科‘室’趣味>とは恐ろしく遠いものに違いないと気付いて、その距離の大きさに今更ながら愕然としています。

賢治にとっては応用こそが科学、いや、彼には応用も純粋もなく、科学とは宇宙のコトワリそのものであって、当然のごとく日々の暮らしに直結するものだったでしょう。

例えば、農の基本である「土」。ひとくれの土には、地球が誕生して以来の生物・無生物の長い営みが凝縮されている…そのことへの驚嘆。それはセンチメンタルな観念の遊戯ではなく、一方には厳密な土質分析と詳細な肥料設計への挑戦があって、それらの総体が彼にとっての科学だったはずです。

ですから、賢治にとっての科学とは、消閑の具でも、しかつめらしいものでもなく、この上なく真摯で、しかも強く軽やかに身に添うものであり、これは彼の芸術観とも共通するものだろうと想像します。(何だか、我ながら月並みなことを、上滑り気味に書いている気がしますが、彼の場合、そこに常に実践が伴ったのは何と言ってもエラかった、と思います。)

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ところで、ここに星や宇宙の説明図がないのは、いかにも残念。(気候との関係で、日照や太陽黒点の消長についての図はあります。)

原子・分子の説明があるならば、その対極に宇宙の構造を説く図があって、その間に生があり、死があり、絶え間ない物質とエネルギー循環がある…という風に講義が進んで欲しかったような気もします。

(この項つづく)