思いは極地へ2011年08月12日 20時20分01秒

夕べは帰路、地下鉄の階段を上がる途中から、太鼓の音が聞こえてきて、「ああ、今夜は盆踊りだったな…」と気付きました。
会場は例年に変わらず、なかなかの賑わいでしたが、今年は特に「魂祭りの踊り」という原義がしみじみと思い出されました。

   ★

特定の本の、特定の一節が気に入って、そこだけ繰り返し読むことを私はよくします。夏になると決まって開くのが、アン・ファディマンという人の読書エッセイ、『本の愉しみ、書棚の悩み』(相原真理子訳、草思社、2004)の、「趣味の棚」という文章です。


ファディマンさん曰く、だれの書庫にも、趣味の棚ともいうべきものがあるはずだとかねがね思っている。なるほど、然り。そして、わたしの趣味の棚には、極地探検に関する六十四冊の本がならんでいる。ほほう。

著者は、酷寒の地への思いを、熱く縷々と綴ります。
白一色の世界。寒々しく地味なミニマリズムの光景。
なぜという理由はない。とにかく記憶にある限り夏より冬、『シンデレラ』よりも『雪の女王』、ギリシャ神話より北欧神話のほうが好きだったのだと、著者は言い放ちます。

極地への思いとともに、ファディマンさんが愛するのは、「高潔な失敗」にたおれたイギリス人探検家の生き様です。ロス、フランクリン、ネアズ、シャクルトン、そしてアムンゼンとの競争に敗れた、かのスコット大佐。徹底的に紳士で、まじめで、不器用で、同時に楽天的だったヴィクトリア朝の男たち。

「わたしは、捜索隊が見つけたスコットのそりの積荷のことを読むたびに、さらに胸がつまる。それはグロッソプテリス(絶滅したソテツ状シダ)の葉と茎の化石が入った古生代後期の石で、重さは全部で十六キロあった。スコットは身軽に旅をするために、食料をぎりぎりまで切りつめたのに、これらの石は捨てなかった。もし捨てていたら、彼と隊員たちは最後の十二マイルを歩ききることができたかもしれない。」

「自分の趣味の棚のなかで、いちばん愛着のあるものは何かときかれたら、それらの地質学標本について書かれた部分と答えるだろう。〔…〕何かに殉じるなら、自分の命を何にささげるのかを慎重にきめなければいけないという教訓を、わたしはこれらの本から得た。人は祖国や信仰、民族などのために命を投げだすのがふつうだ。それを考えると、十六キロ分の石とそれが象徴する失われた世界のために死ぬのも、そう悪くはないと思えるのだ。」

極地は白く、冷たく、何もない。
何もないゆえにドラマが生まれ、はげしく心惹かれる人が絶えないのでしょう。
しかし、あくまでもそれは少数派です。
多くの人にとって、極地はやっぱり白く、冷たく、何もないところであり、それ以上のものではありません。

「わたしの趣味は孤独なものだ。カクテルパーティーで話題にするわけにはいかない。ときどき、人生の大半をついやして、もはやだれも話すことのできない死語を学んできたような気がする。」

「天文古玩」という死物を相手にする身として、こんな一節にも深い共感を覚えるのでした。

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