足穂の里へ(2)2011年09月01日 22時25分48秒

明石のことを書くために、足穂の「明石もの」を読んでいるのですが、なかなか遅々として進まないため、記事ものんびり続けます。

   ★

地元の人以外、明石のまちの構造が頭に入っている人は少なかろうと思うので、まずは、グーグルから現在の明石の地図を貼っておきます。


明石の駅に降り立つと、目の前がいきなりお城で、意表を衝かれます。
そして駅からお城と反対側に歩けば、じきに海。明石はこの両者に挟まれた、本当に小さな城下町で、まるで手のひらに乗りそうな街です。

さらに大正ころの明石の地図(絵葉書)が下で見られます。
別ウィンドウで開きますので、上の地図と見比べてください。

■明石市全図: 東北芸術工科大学 東北文化研究センターアーカイブス
 http://tinyurl.com/3sw7ckd

部分的に埋め立てられたところもありますが、街の外形は驚くほど変わっていません。
空襲で焼かれ、建物もすっかり建て変わりましたが、町々の性格―たとえば、漁師町であるとか、商業地区であるとか―も、ほとんどそのままです。

足穂が明石に来た当初暮らしたのは、海沿いの漁師町です。
ここには彼の祖父がいました。
昔の町名で言えば戎町(この名は漁業の神様・えびす様をまつる神社があるのに由来するのでしょう)。今では港町といいます。下はその周辺拡大図。


材木町の浄行寺、その南門前の赤マルで囲んだあたりに祖父の家はあり、足穂一家はここに同居していました。

(現在の浄行寺)

(浄行寺前の通り。画面左手の奥に浄行寺、通りをはさんで右手が足穂旧居付近)

あたりは、今でも明石の蛸や小鯛を干していたりして、漁師町の空気は健在です。



とはいえ、足穂の祖父は漁師ではありません。
足穂の年譜によれば、祖父の名は「稲垣利光」といいます。天保生まれの老人にしてはモダンな名前ですが、通り名は「近江屋利吉」だったようです。

利吉は、血筋で言えば足穂の母方の祖父ですが、足穂の父・忠蔵は、利吉に見込まれてその婿養子になった人なので、稲垣の家筋に注目すれば直系の祖父になります。足穂が「祖父」というときには、この人を指します。(ちなみに、父方の祖父は足穂が幼い頃に亡くなりましたが、姓を「嶋」といい、やはり明石の住人で、その住まいは利吉の家のすぐ近くにありました。)

まあ、上で「家筋」と書きましたが、もともと家筋を云々するような家でなかったのは、足穂自身が書いているとおりです。

祖父は兵庫県もずっと奥まった多可郡の産で、明石へ出てきてからは旅廻りの小さな興行師であった。数匹の猿を伴ったそれであり、また彼自身発案の覗きからくりであったが、明治維新に転業を強いられた香具師(やし)仲間の例にならって、彼もいち早く新職業の入れ歯屋〔原文4字傍点〕になったのである。彼は十人きょうだいのうちの一人で、丹波の山奥からひとりで脱出してきたような人物だから、姓などは無い。明石では「近江屋」を名乗っていたが、これは有り合わせのものを使ったまでである。「稲垣」もその通り。  (「パテェの赤い雄鶏を求めて」)

足穂は、父のことも、祖父のことも、えてして小人物として描きがちです。たしかに歴史に名を残すような人でもなかったでしょうけれど、足穂の描くエピソードには興味深いものが多いです。(それに、当時を知る人に言わせれば、「あの禄でなしの三代目よりも、お祖父さんやお父さんの方が、なんぼ偉かったか…」ということになろうかと思います。)

利吉は、地元の香具師の顔役であり、“小指のない人”とも付き合う、勇みの顔がありました。かと思うと、金ボタンの少年楽隊を組織したり、覗きからくりを商売にしたり、初めて飛行機を目にしたとき、躍り上がって「鮮やか鮮やか!」と叫ぶようなハイカラ好みの面もありました。あるいは、養子(すなわち足穂の父)の歯学修行の参考にと、墓堀人足から生首を調達して、頭蓋骨標本をこしらえたり、石膏を原料にしたイカサマ物の歯磨き粉を製造販売したり、なんともアヤシイ人でもありました。

怪人の血は争えないな…つくづくそう思います。

(この項つづく)

足穂の里へ(3)2011年09月02日 20時08分30秒

夏を吹き飛ばす台風がやってきました。
台風が去った後には、きっと秋の高い空が広がっていることでしょう。

   ★

経歴にアヤシサのつきまとう利吉ですが、彼が幼い一人娘(足穂の母)を近所に預け、猿を連れて旅回りをしていたのは若いころの話で、足穂が見知った祖父の姿は、あくまでも「入れ歯屋」のそれでした。

「祖父の旅廻りが止されてからは、三十年以上になっていたろう。〔…〕祖父はともかく天井の低い二階を改造して、一人の書生を助手にして、彼のクレオソート臭い店を開いていた。近在からワラジがけで、また対岸の淡路島から舟に乗ってお客がやってくるような仕組で、つまり「入れ歯屋」である。それらのおとくい連は祖父の許に一泊し、午前中に彼らの歯並を取揃えて家路につくならいであった。町の人々はしかし、この入れ歯屋を未だに「猿屋」と呼びならわしていた。曾て真向かいの浄行寺の土塀ぎわに設けられた止り木に、いつも数匹のエテ公が日向ぼっこをしていたことによるらしい。しかし、おしまいまで居残って玄関に繋がれていた「三吉」も、いまは家人の思い出話に上るにすぎなかった。」 (「雪融け」)

足穂がはじめて天文趣味に目を開かれたのも、この漁師町時代にさかのぼる…というのも注目すべき事実です。

「俺の天文学趣味は、あの羊助〔註:利吉の作中での仮名〕の書生の購読していた講義録の挿絵がきっかけだ。竹筒の台ランプの下で、あの晩初めて見て驚嘆したのは太陽の黒点だった。巴形の襞に囲まれた真黒い孔々は、いずれもお日様の肛門のように受取られたものだ。」 (「地球」)



(↑いずれも横山又二郎著・早稲田大学出版部発行 『天文講話(訂正五版)』、明治41より。足穂が見たのがこれかどうかは分かりません。)

彼の機械趣味のルーツについても同様です。
彼は飛行機狂となる以前は自動車に、さらにその前は船舶に強い興味を向けていました。

「明石へ越してからは、波止崎に立って眺める大船・小船がいかほど私を魅了したことだろう。〔…〕ある日、私が色鉛筆で描いた千島丸のおしりの所へ、新規の友が8の字を書きそえた。その8のまんなかから短い柄をつけて、いうのだった。「蒸気にはみんなスコロクというものが付いとる。スコロクがないと船は走らへん。あとで浜へ行って、巡航船のおしりをよく見てみイ」〔…〕友が帰ってから私は裏口を出た。ペンキとチャン〔註:アスファルトの類〕の匂いがしている所に、お尻を海に向けてならんでいる明社丸・天神丸・琴平丸等々において、私は間違いもなく、これらの船のおしりに付いている真鍮製のスコロク、乃至そのスコロクを差し込む孔をみとめたのだった。」 (「明石」)

太陽黒点にも、スコロク(もちろんスクリューのことです)にも、お尻の穴を見て取るところが足穂らしいですが、私もスコロクを見に、足穂旧居の裏手に回ってみました。



今でも船はずらりと並んでいます。が、残念ながらお尻にささったスコロクは見られませんでした。(足穂のころの海岸は砂浜で、船体は岸に引き上げられていたのでしょう。)

(↑船だまりで見かけた「明石丸」。「明社丸」だとなお良かった。)

(この項つづく)

足穂の里へ(4)2011年09月03日 17時15分48秒

「評伝・足穂」を編んでいるわけではないので、先を急ぎます。

漁師町から駅の方に戻る途中、祖父・利吉の家から東寄りに「岩屋神社」という立派なお社があります。利吉は香具師の顔役として、この神社の出店の差配を任されていました。この神社で、足穂は不本意な経験をしています。

「私が当初住んだ戎町は、この拝殿わきから西へ続く通りであるが、ちょうど修築があって、正遷宮の当日に、私は特別注文の衣装に鉢巻をして岩屋神社にお詣りした。神事(行列)にも加わった。これは前後ただ一回強制された甚だ自分らしくない、いやな経験であった。」 (「明石」)

足穂はいやな経験と言っていますが、稚児姿の足穂少年はなかなか可愛かったでしょうね。

(脇を通っただけなので、おざなりな写真で恐縮です。「明石市 岩屋神社」で検索すると、境内の写真はたくさん見ることができます。)

現在位置を確認しておきます。


左下が祖父の家のあった浄行寺前、そのそばに岩屋神社が見えます。
私はその脇を通って港にそって歩き、明石警察署本町交番のわきにある錦江橋に向かいました。

(港から瀬戸内へ出て行く船)

(錦江橋)

錦江(きんこう)とは、明石城下に広がる海の美称。
明石城は別名「錦江城」ともいい、駅からまっすぐ海に向かうメインストリート(明石銀座)沿いの街区には、以前「錦江町」の名がありました。足穂の明石での第2の住居があったのもここです。その南端に架かるのが「錦江橋」です。

錦江橋の架橋は明治44年6月で、足穂が10歳のときです。
足穂の一家は、その渡り初めをつとめる「三代夫婦」に選ばれました。すなわち、祖父・利吉と父・忠蔵の両夫婦、それと大阪に住む姉夫婦です(姉も養子婿を迎えたので稲垣姓)。木の香もゆかしい新橋の上を、一族が仲むつまじく渡った…のであればいいのですが、一家の行く手には徐々に暗雲がただよい始めていました。

「互いに不和であったがともかく三夫婦揃った一族は、橋の渡初式に引張り出されたことがあって、利助〔註:利吉の作中での名〕は味を覚えて四夫婦拡張を目論んでいた。けれども同じ調子で行くものでもあるまい。そろそろ何物かが…人々がそれを惧れて世のおきてを遵奉しているのだと思われるような…根元的な何物かが迫って来ているようであった。」 (「父と子」)

足穂が祖父の家から、錦江町に転居したのが正確にいつかは分かりません。たぶん小学2、3年生の頃でしょう。父・忠蔵が、駅前通りに家を新築し、独立開業するために転居したのです。

(錦江橋のたもとから明石駅を見たところ。突き当りが明石駅。この通りに沿って足穂の父の歯科医院がありました。今でも歯医者が妙に多いのは偶然か?)

この新居で過ごした当座の時期が、怪人・足穂の人生において最も甘美で、人間として整った時期だったようです。その後の凋落との対照が鮮やかなだけに、いっそう彼の心には美しく感じられた時代でもあります。
(下の引用で「董生(ただお)」は足穂、「周蔵」は忠蔵を指します。)

「こうして董生らは、折鶴が天井一面に吊るされている新居に起臥することになった。デトロイトから届いた大嵩な荷物が解かれて、階上の広いリノリウムの上には治療椅子が三台並んだ。接続した薬局や技工室と合わせて、総ては活動に便利なようにとの周蔵の建前に生れ、従業員は何処でも立ちづめである。然し此処に人影が忙しく動いて、患者待合室に仏手柑だの山芋だの粉がふいた紫色の木の実だのを盛った籠が置かれ、正月毎に表に馬蹄形の緑門が設けられたのは、僅か四、五年に過ぎない。董生に取っても、喩えば庭のアヤメに柔らかい雨脚が降り注いでいるような、甘美な、核心的幼年期は、いまの期間中に於ける正味二年に限られている。」 (「父と子」)

「あらゆる家族、風景等には、その最も良き時期というものがある。それはキリストの活動期間のように、二年以上は続かないものだ。董生の場合、それは三色菫がまだ異質な人工花の魅力を保っていたあいだで、小学三、四年生間の束の間であった。」 (同)

父はその養父とも、娘夫婦とも不仲でした。そして家業に熱意を失い、謡道楽にのめりこむのと並行して、固定客も次第に離れていき、一家の経済は徐々に左前になっていきます。足穂は足穂で、学業も二の次に、芸術やら、ヒコーキ乗りやらに入れあげて、家に寄り付かず…というような、世間の物差しに従えば悲劇的な展開をたどることになります。

足穂が東京での文士崩れの生活の果てに、30過ぎで戻ってきたのもこの家で、父の死後は、素人商売の古着屋をやったりしたものの、結局破産。

「父の三周忌がやってきた。その夏の初めに、董生の家の目立たぬ隅に仮執行の札が貼られた。老母と息子は、横丁の履物職の離れ六畳に、わずかに残った調度と炊事道具を運ばねばならなかった。」 (「地球」)

さらにひと月後には、借金の催促に耐えかね、母は大阪の孫娘のもとへと移り、足穂は東京に遁走。後に何も残さぬ一家離散です。足穂と明石の縁はついに絶えたのでした。昭和11年(1936)のことです。

   ★

先を急ぎ過ぎたので、話を足穂の少年時代に戻します。

(この項つづく)

足穂の里へ(5)2011年09月04日 08時18分50秒

(9月10日記: 記事を改修云々といいましたが、末尾に【付記】を書くだけでお茶を濁しました。そちらもご覧ください。)

急いでいる割に、なかなか前に進まないこの企画。だんだん疲れてきました。
でも、とりあえず続けます。

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上の写真は昨日と同じものの再掲です。
実は私はここで1つのしくじりをしました。
足穂のハイカラ趣味を養った「聖地」訪問の機会を失ったのです。

前述のとおり、写真中央を南北に縦貫するのが駅前通り(明石銀座/昔の錦江町)で、信号交差点を東西にクロスするのが、もう1つのメインストリートである本町筋。

この交差点の北西角、画面左手中央の、緑のアーケードをかぶった場所がその「聖地」。ここにかつて「赤松雑貨店」という店がありました。

「赤松雑貨店は、私の家の前を海の方に下って、西に続く本町筋への曲りかどにあった。〔…〕この我が家近くの新開業の洋品店ではその二面にわたった広い窓の内部において、私は日頃近付きがたい多くのハイカラーな品々を、眼の前に教えられることになった。

 例えば、ラケット、フットボール、ピンポン、野球のグラブ、ローラースケイト、コンパスのひと組、写生箱と三脚架等々である。チューブ入りの絵具もそうであった。〔…〕
 赤松洋品雑貨店の窓には、夏が近付くとアイスクリーム製造機械が現われた。その小形の桶に貼られているアルプス風景のラベルが好きで、私は毎年待ちかまえていた。他に、二匹の犬が一箇の中折帽子を争っている彩色画が、硝子の裏側に貼り付けられたことがある。晩方になって窓の内側に灯が点ると、そのイタリア=トリノ市のボルサリノ帽子会社の広告画が、半透明になって浮き出すのだった。この犬共がパテェ会社の雄鶏のように少うし動いたならば面白かろうな、と私は思うた。〔…〕

 乾いた涎(よだれ)の匂いがする水彩画用ワットマン紙も、模型飛行機用のどうさ紙〔原文4字傍点〕や色紙も、五線紙も、この赤松で買ったものだった。駅前筋にそうて隣接した洋菓子部には、夙くから食麺麭(パン)の用意があった。そこの棚には赤レッテルを貼ったソース壜が並んでいた。こんなソースの味と香りは、能くその日一日じゅうを西洋気分に導くものだ。一箇の錫箔包みのチョコレートだってそうである。パイナップルの缶詰の風景画ですら、私を南海の酋長にまで誘うのが常であった。」 (「パテェの赤い雄鶏を求めて」)

足穂がここまで書いた赤松雑貨店!
ここには後年親しむことになる、神戸のトアロードの空気を先取りする情緒が感じられます。足穂少年にとって、赤松雑貨店こそ「リトル神戸」。足穂が足穂たりえたのも、この店の存在によるところが大きいのではないでしょうか。

そして、何を隠そう、今でもここには「(有)赤松商店/アカマツメンズショップ」というお店があります。これぞ赤松雑貨店の後身に違いありません。ここは是非立ち寄るべきでした。たぶん今は普通の洋品店でしょうけれど、何かハイカラなものを探し出して、足穂に手向けたかったです。しかし、その場で気づかなかったのは一生の不覚。まさに後悔先に立たず…。

   ★

足穂の旧居は所番地まではっきり分かっています。すなわち全集所載の年譜には、関西学院の名簿から引いた「明石郡明石町大明石村西郭1204-1」という住所が出ています。この地名について、足穂自身はこう書いています。

「私の本籍の錦江町とは新規の町名で、以前は大明石村西廓というのだった。これが私は厭だった。自分の住まいは二の丸、ステーション、淡路島燈台の三点を結ぶ直線上にあって、明石のまんなかなのに拘らず、これを大明石村とは郊外のように受取られる惧れがあったからだ。それが大正八年の市制と共に錦江町に変わると、こんどは取ってつけたような感じがした。」 (「明石」)

で、私は最初、番地まで分かっていれば、それが現在のどこかすぐにも分かるだろうと思いました。でも、市役所に聞き、県立図書館に聞き、そして地方法務局にも聞きましたが、結局分からずじまい。中でも法務局は地番管理の総元締めですから、明快な答を期待したのですが、係の人の話によると、地番というのは、現在から過去に遡ることはできても、過去から現在へと辿るのは非常に難しいのだそうです。

いろいろな記述を総合すると、足穂の家は赤松雑貨店から少し北に寄った「魚の棚」横丁を越えた辺りだと想像していますが、正確な場所は不明です。ご存知の方はぜひご教示ください。
 
(足穂の旧居は赤丸の辺りか?奇しくも向かいは歯医者。緑の丸は赤松雑貨店の位置。)

(この日は、足穂旧居とおぼしい位置の寿司屋で昼食をとりました。大正創業で、戦後現在地に移ったという店の大将も、「この辺はみんな空襲で焼けたから。昔のことはさっぱり…」と、足穂一家の痕跡は、今ではまったく消えていました。)


【9月10日付記】

足穂旧居の位置は、9月10日の記事 [LINK]で、より詳細に検討しました。上図の赤丸の位置より、さらに1ブロック北の、三菱東京UFJ銀行の場所がそこだと考えています。また、私が入ったお寿司屋さんも、赤丸の位置ではなくて、UFJ銀行のすぐ南側でした。訂正します。

なお、赤松雑貨店は、昭和7年(1932)発行の明石市の商工地図(『昭和前期日本商工地図集成 第2期』、柏書房 所収)を見ると、呉服太物商の部に「赤松呉服雑貨店」として出てきます。位置は上に記した通りの場所で、現在のアカマツメンズショップさんがその後身であることは、いよいよ確かだと思います。



この商工地図で足穂の家の場所は、錦江町沿いの「シンガーミシン会社」の北側になります。彼の父親は、翌昭和8年に亡くなるのですが、この頃にはほぼ歯科医を廃業していたためか、その場所は空白になっています。

(この項つづく)

足穂の里へ(6)2011年09月05日 20時27分06秒

さて足穂探訪は、明石銀座をさらに北上し、こんどは駅北エリアを見に行きます。

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足穂は、小学1年生の2学期に大阪から転校し、明石第一尋常小学校に通いました。
場所は明石駅のすぐ南、今ではTSUTAYAやジュンク堂が立っている一角です。第一尋常小学校は、足穂が卒業後の大正12年に、赤石尋常高等小学校(現・明石小学校)が、お城のすぐ東隣に移転した際、そこに統合されました。ですから、母校そのものは無くなってしまいましたが、強いて言えば明石小学校がその後身。
 
(明石小学校。向こうに見えるのは明石市立天文科学館の展望塔。)

   ★

ここから東の天文科学館に向けて歩きます。
それにしても、この天文科学館のロケーションはどうでしょう!
持参のポケット地図をしげしげと見て、それに気付いた時、私がどれほど感動したか。それがグーグルの地図では伝わらないと思い、版元の昭文社に詫びつつ、写真を撮らせてもらいます。赤丸で囲んだ寺社名が見えますか?
 

東経135度の子午線にちなんで科学館建設の議が起こる前から、ここには星を祀る「妙見社」があり、「月照寺」があり、「雲晴寺」がありました。そして、足穂はこの月照寺で、あの「星を売る店」を書いたのです。星と足穂を愛する人にとって、ここがただならぬ土地であることがお分かりでしょう。

まずこれらの寺社にお参りしてから、天文科学館に向かうことにします。

  ★   ☆   ★

◆妙見社◆
 

北斗ないし北極星を祀る妙見信仰は、神仏混交の最たるもので(というよりも、本来は神・仏いずれでもなく、道教系かもしれませんが)、ここも隣接する日蓮宗・本松寺と一体のものとして営まれ、現在も同寺の守護神として扱われています。

◆月照寺◆
 

正式名称は「曹洞宗人丸山月照寺」。江戸時代までは、隣の人丸社(柿本神社)と一体の存在でしたが、明治の神仏分離により寺と神社に分かれました。
 
(隣に建つ柿本神社々殿)
 
(山門の向こうには天文科学館がにょきり)

大正12年の夏、23歳の足穂は、兵役の簡閲点呼のために、東京から明石に帰省し(そのため9月の関東大震災を逃れることができました)、その間どういう事情によるのか、自宅ではなく月照寺境内の茶室を借りて過ごしました。そのとき執筆したのが、名作「星を売る店」です。

「星を売る店」は、神戸を舞台にしたキラキラとした幻想譚。
「紅いのはストローベリ、青いのはペパーミント、みどり色のは何とかで、黄色はレモンの匂いと味…。」星を鉱物に見立てたり、それをまたお菓子になぞらえたりというのは、長野まゆみ的趣向ですが、その嚆矢は足穂だと思います。

大正12年は、何といっても、彼が単行本『一千一秒物語』を刊行した記念すべき年です。さらにその勢いを駆って「黄漠奇聞」「星を売る店」「シガレット物語」を次々に発表し、足穂自身が超新星のように輝いていた時代。その光がこの人丸山からも放たれたわけです。そして、そのとき自分のお尻が東経135度の線に乗っていたことに、彼は少なからず意味を感じていたようでもあります。

「以前、人丸神社山門の少し西に、月照寺に属する茶室があって、ある夏、私はその狭い方形の畳の上に机をすえて、「星を売る店」を書いたのだった。この仕事のあいだじゅう、自分の首すじから体躯を貫いている鉛直線は、東経百三十五度線から東にも、西にも、おそらく十センチとはずれていなかったであろう。」 (「蘆の都」)

「帆掛舟の形に作られてた八房梅のかたわらに、下方の参詣道からの石段のかどに、以前、独立した茶室があった。私はその小室に朱塗のかきもの台を持ち込んで、「星を売る店」を書いた。その私が坐っていた所とちょうど同じ位置に、今日、星の測定にもとづく子午線標識が立っている。」 (「明石」)
 
(現在の八房梅。たぶん代替わりしているのではないかと思います。)

「私が机を据えて「星を売る店」を書き、月の位相について考えた茶室跡に立っていた子午線標示柱は、其後、夜には全体が真紅なネオンに輝いていると聴かされた。― それが今回は、高さ五七メートルの展望塔と、それに隣合ったプラネタリウムに入れ換わっている。又、四、五才の時に初めてこの海岸に立って頭に描いた淡路架橋も実現しそうになっている。」 (「明石」後の版への補注)
 
(昭和5年(1930)に立てられた子午線標識標、通称「トンボの標識」。設置当初は現在よりも11.1m西にありました。)

 
(天文科学館の展望塔から見下ろした月照寺境内。本堂のすぐ前に左右一対植わっているのが八房梅。右下隅にトンボの標識が見える。足穂が「星を売る店」を書いたのは、画面中央の階段脇あたりか。)

◆雲晴寺◆
 

山号が「月江山」というのも素敵です。曹洞宗のお寺です。
「南総里見八犬伝」のモデル・里見忠義の菩提を弔うため建立された寺で、寺号は忠義の法名「雲晴院殿心叟賢凉大居士」にちなむものだそうです。

(余談ですが、今ウィキペディアを見たら、八犬伝はもともと北斗七星をイメージした「七犬伝」として構想され、後に添え星のアルコルを入れて八犬伝になった…という説があるとか。八犬士のうち犬江親兵衛だけ童子なのはそのせいだという、なんとなく尤もらしい話。)

さて、星にちなむ寺社にお参りを済ませて、いよいよ天文科学館へ。

(この項つづく)

米国昆虫事情(続報)2011年09月06日 22時47分59秒

(↑出典:http://www.fcps.edu/islandcreekes/ecology/eastern_hercules_beetle.htm

一昨日の「足穂の里へ(5)」という記事は、足穂の旧居を推定する内容でしたが、記述に事実誤認のある可能性があり、それを迷惑と感じる方がいらっしゃるといけませんので、いったん閉じておきます。修正箇所を明示の上、改めて掲載の予定です。

最近、記事がいい加減になっているかもしれないので、天文科学館へ向かう前に、ここらでちょっと一服します。

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ちょうど良い機会なので、先週、新聞で見てスクラップしようと思っていた記事を、ここに貼っておきます。以下、9月1日の朝日新聞より引用。

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○特派員メモ (ワシントン)

 「さらば、ヘラクレス」

 公園の街灯の下で、メスのカブトムシを見つけた。オリーブ色の体に茶色の斑点があって、日本のそれとは違うが、目はそっくりだ。単身赴任で米国に来て2カ月。旅愁も手伝ってか、飼ってみようかという気になった。

 まず種を特定すべく、世界中の動植物を集めている国立自然史博物館に行ってみた。標本が展示されているが、名前はわからない。図鑑でみると「イースタン・ヘラクレス」という種らしいが、生きた状態で展示されるチョウやクモに比べ、カブトムシは明らかにマイナーな扱いだ。

 ホームセンターで飼育用のケースを探してみたが、見つからない。聞いても「虫を飼う」という発想が理解されにくい。大型ペットショップにも行ってみたが、虫の飼育用品はやはり見当たらない。

 店員に尋ねると、小さなケースを持ってきてくれた。日本の百円ショップに売っている虫のケースと変わらない。なんだ、あるじゃないか、と思ってよく見ると、「トカゲやヘビの飼育に適切です」と書かれていた。

 寿命が残り少ないだろうカブトムシは、結局放すことにした。  (行方史郎)

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以前の関連記事は以下。

■甲虫女王、東京ヲ制ス
 http://mononoke.asablo.jp/blog/2009/07/06/4416672

■素顔ノ甲虫女王、現ハル!
 http://mononoke.asablo.jp/blog/2010/06/20/5172136

アメリカにおける昆虫趣味は非常に肩身が狭い、いや、昆虫趣味そのものがない…というのを聞いて、最初は「話を面白くふくらましているんじゃないか?」と疑いました。でも、本当にそうらしいですね。

もちろん広い国ですから、昆虫を趣味にする人が絶無とは思えませんが(現に昆虫をテーマにした米国サイトはたくさんあるようですし)、ただ明らかに奇人変人に属するぐらい少ないということかもしれません。

足穂は何処に2011年09月08日 22時23分14秒

記事の更新が止まっていますが、現在、足穂の旧居探しに注力中です。
かなり近くまで接近したと思うのですが、もう少し情報を整理してから記事にします。(あまり訂正ばかりだとみっともないので。)

足穂の里へ(7)…タルホ・スコラ学2011年09月10日 09時29分39秒

足穂の旧居をピンポイントで探す…。なんだか、ものすごく瑣末なことにエネルギーを注いでいる気がします。まことに弾みとは恐ろしいものです。あまり世の中の役には立ちそうにありませんが、参考までにその「成果」を記します。

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足穂の家が、明石の駅前通り(通称「明石銀座」)、町名でいえば昔の錦江町にあったことは、すでに述べたとおりです。では、この街路のどこに彼の家はあったのか?

その答は、意外なことに『明石市史 下巻』(昭和45)に書かれていました。(公の出版物が足穂に言及していること自体驚きです。足穂は郷里でまったく無視されているわけでもない…というのは、一寸心温まる事実。)

『明石市史』の「明石と文学」という節(p.412)には、稲垣足穂は幼少期を駅前の神明国道の交差点、いまの三和銀行のある辺りで過ごした。昭和十年ごろ、再びその家に帰ってきて、一年ほど古着屋を経営したとあります(『明石市史』、p.412)。

三和銀行は今の三菱東京UFJ銀行で、明石支店の場所は昔と変わっていません。
したがって、足穂の家は、明石銀座と神明国道(国道2号)の交差点の西南角付近だったことが判明しました。

 
足穂の「父と子」には、左隣の安玩具と駄菓子を並べている小店の主人は〔…〕更に隣二軒目家具商の老婆は〔…〕更に先の一杯飲み屋のおやじは」云々とあるので、その家は角から2、3軒南に寄った場所らしく思えます。私が入ったお寿司屋さんは、UFJからちょうど3軒南なので、かなりいい線行ってたことになります。メデタシメデタシ。

   ★

さて、ここまではわりと単純な話。ここから話は少し難しくなります。
常連コメンテーターのS.U氏は、9月4日の記事へのコメントとして、次のような問題を提起されました。一部引用させていただきます。

「『彼等(they)』収録の(河出文庫版、初出本も同じ)「菫とヘルメット」の冒頭から以下の記述があります(以下引用)。

 私は、納屋のうしろに小さな菜園を持っていた。
 その正面には、お城の外濠を埋めた名残の小流れがあって、向こうから水はやってきて、私の小園芸場の前で左折し、ちょうど向こう岸に立っている石榴の木を、(後略、引用終)

 別の作品に出てくるように「石榴の木」のある家は、足穂邸の「裏」の家ですから、「その正面」というのは西の方向になります。従って、足穂の屋敷の西の境界が外濠の向きが変わって南北になっていた部分であることになります。」

問題は、上の推定とこの文章の記述がうまく整合するかどうかです。これは難問。
小川・菜園・住居・街路の位置関係をいろいろ考えてみたのですが、何だか頭がごちゃごちゃになって、よく分かりません。よし、ここは考えるより行動だ!と思って、昔の地図に当たってみることにしました。

まず外堀の位置を確認します。明石城の古地図は、これまたS.Uさんにご紹介いただいた、下記のページで見ることができます。

■探って探って明石城(3) (by 若葉マークの都市建築研究所様)
 http://blogs.yahoo.co.jp/momonakai/16052420.html

この図と、明治の陸測図を比較すると、旧外堀の位置がはっきりします。
下は明治19年測図(明治20年製版)の「仮製地形図」です。


まだ外堀の大半が残っており、がらーんとした郭内(外堀の内)と城下の密集した町場の対照が鮮やかです。

次は明治29年測図/明治45年改版の「正式地形図」。ちょうど足穂が幼い菜園作りに励んでいた頃の明石の様子です。


外堀は大部分埋め立てられましたが、なんとなくその跡をたどることができます。一部には土居も残っています。鉄道が開通し、郭内にも人家が増えてきた様子が分かります。

さて、問題は足穂の言う「小流れ」の位置ですが、明治45年改版の「正式地形図」にじっと眼を凝らすと………あった!!
一部を拡大します。


お分かりになるでしょうか。分かりやすいように、小流れを青、緑地(注)を緑、足穂宅周辺の家並みを赤で塗ってみます。ついでに「石榴の木の家」と思われる位置も記入してみました。

(注:符号凡例にも見当たらないので、この斜線網掛け部分の意味が今ひとつ分かりません。後の地図記号だと建物と組み合わせて「樹木に囲まれた居住地」を表します。おそらく、耕作地でもなければ樹林でもない、かといって荒地でもない「雑緑地」や「空閑地」の意味だと思います。)


私は最初、「菫とヘルメット」を読んだとき、足穂の家は町の真ん中のはずなのに、何だか妙に郊外めいた風景描写が続くので、少なからず違和感を覚えました。でも、この地図を見ながら下の描写(一部再掲)を読むと、その光景が納得できるような気がします。

 「私は、納屋のうしろに小さな菜園を持っていた。

 その正面には、お城の外濠を埋めた名残の小流れがあって、向こうから水がやってきて、私の小園芸場の前で左折し、ちょうど向う岸に立っている石榴(ざくろ)の木を、無数の銀色リボンのように縒(ねじ)れ動く表面に映していた。私の園には樫が二本ならんで立っている。ここは最初は踏み慣らしたような固い地面だった。表側にわれわれの住いが建って以来、暇があるたびに手入れをすると、こんどは、うっかりしていたら忽ち雑草だらけになってしまうような場所に一変したのである。
 〔…〕
 幾つかの春、また同じ数の秋々を通して、私の園には、プリムラやポピーや、スヰートピーや、アネモネや、更に蝕んだ薔薇だの、いじけたような胡瓜だの南瓜だのが出来た。この空地の右側には無花果の樹が数株ならんで、その先には、何人が作っているのかやや正式な菜畑があって、シーズンにはしょっちゅうひらひらしている白い蝶がいた。納屋の前には撥釣瓶(はねつるべい)のついた井戸があり、この傍らでは、少女達が、松葉牡丹や朝顔や鳳仙花やコスモスなどを作っていた。そこにはカナリヤの墓もあった。」 (「菫とヘルメット」)

幼い足穂には、この小さく細長い緑地帯が、とても大きく感じられたのでしょう。それに足穂の家はぎりぎりで旧郭内になるので、その少年期には、一歩裏手に入れば空き地もあるし田んぼもあるといった環境で、記述が妙に郊外めく理由も分かります。

S.Uさんの設問に戻って、1つ疑問として残るのは、「向こうから水はやってきて、私の小園芸場の前で左折」という記述です。普通、川の左右は下流の方を向いたとき左か右かで表現するので、図が正しければ、ここは本来「右折」と書くべきところです。しかし、足穂は「自分から見て左方向に(向かって左手に)曲がる」という意味で、こう書いたのでしょう。

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ついでですから、この足穂旧居が正確に現在のどの地点になるのか、確認します。
補助図として、昭和9(1933)年の地図(「明石市街全図」、赤西萬有堂)を示します。


これは足穂が父を亡くし、古着屋を始めたころの町の様子です。
足穂の家の北側には、前年に開通したばかりの国道2号の大動脈が東西に走っています。足穂の家の北側に元からあった道路もその一部となりましたが、幅員は主に北に向かって広げられたので、足穂の家の正面から東に伸びる通り(桜町筋)はそのまま残っています。

で、これを現代の地図と比べると、足穂旧居の位置は、「三菱東京UFJ銀行明石支店の付近」というよりも、「明石支店そのもの」であることがはっきりします(赤丸)。


参考として、足穂が眺めた「小流れ」の位置を青で描き込んでみました。東半分はちょっと自信がありませんが、足穂宅から西の部分は、現在の敷地割の境界線ときれいに重なっているので、ほぼ間違いないでしょう。なお、黄土色で囲ったのは、明治の地図において点描で表現されていた、旧外堀の土居に相当すると思しい区域です。

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なんだか疲れましたが、とてもスッキリしました。
今の私は、ちょっと「ドヤ顔」になっているかもしれません。(馬鹿者也)

月と灯台2011年09月12日 21時42分22秒

今宵は中秋の名月。
そのことを日が暮れるまで忘れていました。

仕事からの帰り道、すっきり晴れた東の空に
やわらかい色合いの真ん丸な月が浮かび、
ビルや高速道路の直線と小気味よい対照を見せていました。
それを見て、初めてお月見のことを思い出しました。

そういえば、今記事を書き続けている明石も、古来月の名所です。
モダニストの足穂も、ときには月照寺あたりから、古典趣味の月を眺めた晩もあったことでしょう。

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写真は1906年9月15日(惜しい!)、ボストンの消印を持つ古絵葉書です。
写っているのは、マサチューセッツ州東部、大西洋のマイノット岩礁にそびえる海上灯台。

灯台の光と月の明かり。波のきらめきと雲の陰影。
まるで夢の中で見る光景のようです。
耳を澄ませば、かすかなさざなみの音も聞こえてきます。

足穂の里へ(8)…番外編・天文科学館(前編)2011年09月14日 21時37分25秒

さて、記事の間隔が開きましたが、おもむろに天文科学館へと向かいます。


天文科学館は昭和35年(1960)にできた施設で、昨年50周年を迎えたところです。
同館の公式サイト(http://www.am12.jp/)によれば、当初はここに国立天文博物館を誘致する計画があったそうですが、宇宙開発ブームの追い風を受けて、市民もだいぶ盛り上がったらしく、結果的に市単独の施設としてオープンすることになりました。

そんなわけで、ここは明石時代の足穂とは直接関係ありませんが、明石に来た以上、ここを素通りするわけにはいきません。ここは足穂を離れて、自由に見学させてもらうことにします。

訪問する前は、なんとなく昭和3~40年代の匂いのする施設を想像していたのですが、50周年を期に全面リニューアルをしたばかりということで、予想とは違って平成の匂いがしました。子どもたちを中心にお客さんも多く、まだまだ元気いっぱいの科学館の姿を見ることができました。

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これは!! 忘れていた友にふと出会った気分。
昨年、神戸の金星台を訪問した記事の中で、この子午儀については触れました。



運のいいことに、臨時の展示で、その際の一件記録も見られました。

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明石は「日本標準時のまち」が売り物ですから、天文学の展示に加えて、「時(とき)」に関する展示に力を入れているようです。



(↑時刻の決定とは切っても切れぬ関係の、星の南中を観測するクラシカルな機器類。)

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天文学史のコーナーには、ハーシェルの業績を示すキャビネットが置かれていました。


(↑ハーシェル作、40フィート大望遠鏡の精巧な模型。)


ハーシェルの扱いが大きいのは、個人的に嬉しかったです。

(なんとなくダラダラ続く)