足穂の里へ(7)…タルホ・スコラ学2011年09月10日 09時29分39秒

足穂の旧居をピンポイントで探す…。なんだか、ものすごく瑣末なことにエネルギーを注いでいる気がします。まことに弾みとは恐ろしいものです。あまり世の中の役には立ちそうにありませんが、参考までにその「成果」を記します。

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足穂の家が、明石の駅前通り(通称「明石銀座」)、町名でいえば昔の錦江町にあったことは、すでに述べたとおりです。では、この街路のどこに彼の家はあったのか?

その答は、意外なことに『明石市史 下巻』(昭和45)に書かれていました。(公の出版物が足穂に言及していること自体驚きです。足穂は郷里でまったく無視されているわけでもない…というのは、一寸心温まる事実。)

『明石市史』の「明石と文学」という節(p.412)には、稲垣足穂は幼少期を駅前の神明国道の交差点、いまの三和銀行のある辺りで過ごした。昭和十年ごろ、再びその家に帰ってきて、一年ほど古着屋を経営したとあります(『明石市史』、p.412)。

三和銀行は今の三菱東京UFJ銀行で、明石支店の場所は昔と変わっていません。
したがって、足穂の家は、明石銀座と神明国道(国道2号)の交差点の西南角付近だったことが判明しました。

 
足穂の「父と子」には、左隣の安玩具と駄菓子を並べている小店の主人は〔…〕更に隣二軒目家具商の老婆は〔…〕更に先の一杯飲み屋のおやじは」云々とあるので、その家は角から2、3軒南に寄った場所らしく思えます。私が入ったお寿司屋さんは、UFJからちょうど3軒南なので、かなりいい線行ってたことになります。メデタシメデタシ。

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さて、ここまではわりと単純な話。ここから話は少し難しくなります。
常連コメンテーターのS.U氏は、9月4日の記事へのコメントとして、次のような問題を提起されました。一部引用させていただきます。

「『彼等(they)』収録の(河出文庫版、初出本も同じ)「菫とヘルメット」の冒頭から以下の記述があります(以下引用)。

 私は、納屋のうしろに小さな菜園を持っていた。
 その正面には、お城の外濠を埋めた名残の小流れがあって、向こうから水はやってきて、私の小園芸場の前で左折し、ちょうど向こう岸に立っている石榴の木を、(後略、引用終)

 別の作品に出てくるように「石榴の木」のある家は、足穂邸の「裏」の家ですから、「その正面」というのは西の方向になります。従って、足穂の屋敷の西の境界が外濠の向きが変わって南北になっていた部分であることになります。」

問題は、上の推定とこの文章の記述がうまく整合するかどうかです。これは難問。
小川・菜園・住居・街路の位置関係をいろいろ考えてみたのですが、何だか頭がごちゃごちゃになって、よく分かりません。よし、ここは考えるより行動だ!と思って、昔の地図に当たってみることにしました。

まず外堀の位置を確認します。明石城の古地図は、これまたS.Uさんにご紹介いただいた、下記のページで見ることができます。

■探って探って明石城(3) (by 若葉マークの都市建築研究所様)
 http://blogs.yahoo.co.jp/momonakai/16052420.html

この図と、明治の陸測図を比較すると、旧外堀の位置がはっきりします。
下は明治19年測図(明治20年製版)の「仮製地形図」です。


まだ外堀の大半が残っており、がらーんとした郭内(外堀の内)と城下の密集した町場の対照が鮮やかです。

次は明治29年測図/明治45年改版の「正式地形図」。ちょうど足穂が幼い菜園作りに励んでいた頃の明石の様子です。


外堀は大部分埋め立てられましたが、なんとなくその跡をたどることができます。一部には土居も残っています。鉄道が開通し、郭内にも人家が増えてきた様子が分かります。

さて、問題は足穂の言う「小流れ」の位置ですが、明治45年改版の「正式地形図」にじっと眼を凝らすと………あった!!
一部を拡大します。


お分かりになるでしょうか。分かりやすいように、小流れを青、緑地(注)を緑、足穂宅周辺の家並みを赤で塗ってみます。ついでに「石榴の木の家」と思われる位置も記入してみました。

(注:符号凡例にも見当たらないので、この斜線網掛け部分の意味が今ひとつ分かりません。後の地図記号だと建物と組み合わせて「樹木に囲まれた居住地」を表します。おそらく、耕作地でもなければ樹林でもない、かといって荒地でもない「雑緑地」や「空閑地」の意味だと思います。)


私は最初、「菫とヘルメット」を読んだとき、足穂の家は町の真ん中のはずなのに、何だか妙に郊外めいた風景描写が続くので、少なからず違和感を覚えました。でも、この地図を見ながら下の描写(一部再掲)を読むと、その光景が納得できるような気がします。

 「私は、納屋のうしろに小さな菜園を持っていた。

 その正面には、お城の外濠を埋めた名残の小流れがあって、向こうから水がやってきて、私の小園芸場の前で左折し、ちょうど向う岸に立っている石榴(ざくろ)の木を、無数の銀色リボンのように縒(ねじ)れ動く表面に映していた。私の園には樫が二本ならんで立っている。ここは最初は踏み慣らしたような固い地面だった。表側にわれわれの住いが建って以来、暇があるたびに手入れをすると、こんどは、うっかりしていたら忽ち雑草だらけになってしまうような場所に一変したのである。
 〔…〕
 幾つかの春、また同じ数の秋々を通して、私の園には、プリムラやポピーや、スヰートピーや、アネモネや、更に蝕んだ薔薇だの、いじけたような胡瓜だの南瓜だのが出来た。この空地の右側には無花果の樹が数株ならんで、その先には、何人が作っているのかやや正式な菜畑があって、シーズンにはしょっちゅうひらひらしている白い蝶がいた。納屋の前には撥釣瓶(はねつるべい)のついた井戸があり、この傍らでは、少女達が、松葉牡丹や朝顔や鳳仙花やコスモスなどを作っていた。そこにはカナリヤの墓もあった。」 (「菫とヘルメット」)

幼い足穂には、この小さく細長い緑地帯が、とても大きく感じられたのでしょう。それに足穂の家はぎりぎりで旧郭内になるので、その少年期には、一歩裏手に入れば空き地もあるし田んぼもあるといった環境で、記述が妙に郊外めく理由も分かります。

S.Uさんの設問に戻って、1つ疑問として残るのは、「向こうから水はやってきて、私の小園芸場の前で左折」という記述です。普通、川の左右は下流の方を向いたとき左か右かで表現するので、図が正しければ、ここは本来「右折」と書くべきところです。しかし、足穂は「自分から見て左方向に(向かって左手に)曲がる」という意味で、こう書いたのでしょう。

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ついでですから、この足穂旧居が正確に現在のどの地点になるのか、確認します。
補助図として、昭和9(1933)年の地図(「明石市街全図」、赤西萬有堂)を示します。


これは足穂が父を亡くし、古着屋を始めたころの町の様子です。
足穂の家の北側には、前年に開通したばかりの国道2号の大動脈が東西に走っています。足穂の家の北側に元からあった道路もその一部となりましたが、幅員は主に北に向かって広げられたので、足穂の家の正面から東に伸びる通り(桜町筋)はそのまま残っています。

で、これを現代の地図と比べると、足穂旧居の位置は、「三菱東京UFJ銀行明石支店の付近」というよりも、「明石支店そのもの」であることがはっきりします(赤丸)。


参考として、足穂が眺めた「小流れ」の位置を青で描き込んでみました。東半分はちょっと自信がありませんが、足穂宅から西の部分は、現在の敷地割の境界線ときれいに重なっているので、ほぼ間違いないでしょう。なお、黄土色で囲ったのは、明治の地図において点描で表現されていた、旧外堀の土居に相当すると思しい区域です。

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なんだか疲れましたが、とてもスッキリしました。
今の私は、ちょっと「ドヤ顔」になっているかもしれません。(馬鹿者也)

コメント

_ S.U ― 2011年09月10日 16時26分25秒

おぉ、綿密なご調査! これは間違いないですね。
私の「クセ球」情報に真っ向勝負をいただき、見事バックスクリーンにたたき込まれました。

 それにしても、水が「向こうからやってきて『向かって左折』」とは、タルホ先生にはやられました。

 私の「明石もの」再読は、古着屋時代を描いた「美しき穉き婦人に始まる」まで来ました。そこには、以前にお知らせしましたように、足穂氏が反射望遠鏡を自宅の物干しに持ち出して天体観察をするところが出てきます。天体への言及を見ると、天頂付近および南側の空が東から西までかなり広く見られたようです。それでも街路の明かりは避けられたらしいですから、物干しは南か南西に面していたようです。足穂氏がほろ酔い機嫌で望遠鏡を覗いている姿がリアルに浮かびました。

 このころ、他業種の商人に間口を半分貸してほしいと言われたとか、例の物干しにつながる2階の部屋(かつての歯科診察室?)を半分に仕切って他人に貸したとか書いていますので、彼の家はそこそこ南北に長かったようです。間口6~7間かもしれません(そんなことわかりませんけど)。

_ 玉青 ― 2011年09月11日 10時23分13秒

おお、花形満状態。昨夕のビールは殊のほか美味かったです。(笑)
しかし、私の机の上は悲惨な状態になっていて、今日は一日片付け仕事で終わりそうです;
足穂氏の明石時代の天文体験については、いずれ総括しておきたいですね。
明石を訪ねる旅は、この後天文科学館を見てから、古着屋時代の重要ポイント、無量光寺に向かう予定です。

_ shigeyuki ― 2011年09月11日 19時49分45秒

玉青さんもS・Uさんもすごいですね。お疲れさまでした。
そうですか、あんな場所に足穂の家があったんですね。
それにしても、この足穂の里へのシリーズに出てくる場所はどこもとてもよく知っている場所ばかりなのに、そんなことを当時は全く知らないままでしたし、不思議な気がします。続きの記事も楽しみにしてます。

_ 玉青 ― 2011年09月12日 21時41分22秒

私はともかく、S.Uさんには毎度吃驚です。
私が言うのは僭越ですが、まことに得がたい方です。

このささやかな足穂紀行を、地元出身のshigeyukiさんも楽しんでいただけたというのは望外の幸せ。記事の方は、もうちょっと続けます。

_ Ichi ― 2024年11月28日 14時49分01秒

突然のコメント失礼いたします。足穂の『天体嗜好症』(河出書房)を中国語に訳した者です。翻訳作業はパンデミック期間中でしたので、日本に行って資料を調べたりするのが難しく、ネットでいろいろ調べていました。玉青さんが書いたブログは大変参考になりました。心より感謝申し上げます。

実は先週、この「足穂の里へ」のシリーズを参考に明石に行ってきました。ちょっとしたアップデートですが、足穂旧居と思われる三菱UFJ銀行明石支店の場所は2020年より別の場所に移転し、今でも空き店舗です。

_ 玉青 ― 2024年11月28日 19時16分42秒

Ichiさま

コメントありがとうございます。
明石にも最近すっかりご無沙汰です。その後の変化も知らずにいたので、現況をご教示いただき感慨深く思いました。やっぱり世界は常に動いていますね。

それにしても、『天体嗜好症』が中国語に翻訳されていたのですね!
そのこと自体、まったく知らずにいたので、驚くと同時に、たいへん嬉しく思いました。足穂の世界は、はたして中国の方にどう受け止められるのか?大いに興味を覚えます。
お時間のあるときで結構ですので、ぜひ中国での足穂評価をまたお教えいただければ幸いです。

_ Ichi ― 2024年11月29日 22時49分00秒

中国では『天体嗜好症』以外に『一千一秒物語』(新潮文庫)も中国語に翻訳されました。コメントからみると、好きな人は結構好きですが、読んでもよくわからないというフィードバックもありました。特に印象深いのは「相当酔っぱらって書いたものではないか」というコメントでした。(笑)
わたしが翻訳した『天体嗜好症』には天文学や理論物理学の内容が多く、そのせいで途中でやめる読者さんもいまして少し残念に思いますが、「この本を読んだあと、夜散歩をしながら月を眺めているときの気持ちも以前と違うようになった気がする」というコメントもあって個人的にうれしかったです。
『一千一秒物語』(新潮文庫)の訳者さんによると、実は中国の作家周作人(魯迅の弟)が1921年に「たそがれの人間」という足穂の作品(佐藤春夫への手紙で、のちに「弥勒」で引用された)を翻訳し、『現代日本小説集』(1923年出版)に収録したそうです。ただし、周氏はそれを佐藤春夫が書いたものにしていました。なぜ周氏は足穂が佐藤春夫に送ったこの手紙を選んで翻訳したか、当時それを読んだ読者はどんな感想を持っていたかは、いまになって知るようがないです。そしていまの中国にも、足穂ブームはまだ来ていないようです。でも、本離れのご時世だから、一人でも読んでくれる方がいればありがたく思います。

_ 玉青 ― 2024年11月30日 08時54分36秒

ご教示ありがとうございます。
拝読しながら、中国の方の足穂理解の確かさを感じました。ええ、「相当酔っぱらって書いたものではないか」というのは、この上なく正当な評価ですね。私もまさに同じことを考えています(笑)。

足穂は日本でも決して万人受けする作家ではありませんし、国語の教科書で採り上げられるような存在でもないので、これはおそらく日本だからどう、中国だからどう、という問題ではなくて、この地球上には、現実の国境線を超えて「足穂の国」と「足穂ならざる国」があるということかもしれません(後者は非常な大国で、前者はほんの小さな国です)。

そして、Ichiさんと私はともに足穂国の住人であり、アメリカの足穂読者も、中国の足穂読者も、そして日本の足穂読者も、この「小さいけれども無限に大きい国」の中で肩を寄せ合って生きており、私はそうした人々に向かって、心のうちで「同胞よ!!」と呼びかけたい気分です。

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