足穂の里へ(2)2011年09月01日 22時25分48秒

明石のことを書くために、足穂の「明石もの」を読んでいるのですが、なかなか遅々として進まないため、記事ものんびり続けます。

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地元の人以外、明石のまちの構造が頭に入っている人は少なかろうと思うので、まずは、グーグルから現在の明石の地図を貼っておきます。


明石の駅に降り立つと、目の前がいきなりお城で、意表を衝かれます。
そして駅からお城と反対側に歩けば、じきに海。明石はこの両者に挟まれた、本当に小さな城下町で、まるで手のひらに乗りそうな街です。

さらに大正ころの明石の地図(絵葉書)が下で見られます。
別ウィンドウで開きますので、上の地図と見比べてください。

■明石市全図: 東北芸術工科大学 東北文化研究センターアーカイブス
 http://tinyurl.com/3sw7ckd

部分的に埋め立てられたところもありますが、街の外形は驚くほど変わっていません。
空襲で焼かれ、建物もすっかり建て変わりましたが、町々の性格―たとえば、漁師町であるとか、商業地区であるとか―も、ほとんどそのままです。

足穂が明石に来た当初暮らしたのは、海沿いの漁師町です。
ここには彼の祖父がいました。
昔の町名で言えば戎町(この名は漁業の神様・えびす様をまつる神社があるのに由来するのでしょう)。今では港町といいます。下はその周辺拡大図。


材木町の浄行寺、その南門前の赤マルで囲んだあたりに祖父の家はあり、足穂一家はここに同居していました。

(現在の浄行寺)

(浄行寺前の通り。画面左手の奥に浄行寺、通りをはさんで右手が足穂旧居付近)

あたりは、今でも明石の蛸や小鯛を干していたりして、漁師町の空気は健在です。



とはいえ、足穂の祖父は漁師ではありません。
足穂の年譜によれば、祖父の名は「稲垣利光」といいます。天保生まれの老人にしてはモダンな名前ですが、通り名は「近江屋利吉」だったようです。

利吉は、血筋で言えば足穂の母方の祖父ですが、足穂の父・忠蔵は、利吉に見込まれてその婿養子になった人なので、稲垣の家筋に注目すれば直系の祖父になります。足穂が「祖父」というときには、この人を指します。(ちなみに、父方の祖父は足穂が幼い頃に亡くなりましたが、姓を「嶋」といい、やはり明石の住人で、その住まいは利吉の家のすぐ近くにありました。)

まあ、上で「家筋」と書きましたが、もともと家筋を云々するような家でなかったのは、足穂自身が書いているとおりです。

祖父は兵庫県もずっと奥まった多可郡の産で、明石へ出てきてからは旅廻りの小さな興行師であった。数匹の猿を伴ったそれであり、また彼自身発案の覗きからくりであったが、明治維新に転業を強いられた香具師(やし)仲間の例にならって、彼もいち早く新職業の入れ歯屋〔原文4字傍点〕になったのである。彼は十人きょうだいのうちの一人で、丹波の山奥からひとりで脱出してきたような人物だから、姓などは無い。明石では「近江屋」を名乗っていたが、これは有り合わせのものを使ったまでである。「稲垣」もその通り。  (「パテェの赤い雄鶏を求めて」)

足穂は、父のことも、祖父のことも、えてして小人物として描きがちです。たしかに歴史に名を残すような人でもなかったでしょうけれど、足穂の描くエピソードには興味深いものが多いです。(それに、当時を知る人に言わせれば、「あの禄でなしの三代目よりも、お祖父さんやお父さんの方が、なんぼ偉かったか…」ということになろうかと思います。)

利吉は、地元の香具師の顔役であり、“小指のない人”とも付き合う、勇みの顔がありました。かと思うと、金ボタンの少年楽隊を組織したり、覗きからくりを商売にしたり、初めて飛行機を目にしたとき、躍り上がって「鮮やか鮮やか!」と叫ぶようなハイカラ好みの面もありました。あるいは、養子(すなわち足穂の父)の歯学修行の参考にと、墓堀人足から生首を調達して、頭蓋骨標本をこしらえたり、石膏を原料にしたイカサマ物の歯磨き粉を製造販売したり、なんともアヤシイ人でもありました。

怪人の血は争えないな…つくづくそう思います。

(この項つづく)