ひまわりが咲けば、月見草も咲く2013年06月01日 06時31分17秒

(昨日のつづき。文中の画像も同じモノです)

妙な連想というのは、鉱物ブログの現在(いま)」に関することです。
鉱物好きの人で、趣味のサイトを開設されている方は多いと思いますが、最近、その運営が大変になってきているのではないか…と、傍から見て想像します。(例によって憶測です。)


というのは、情報やモノが乏しかった頃は、美しい鉱物の写真を取りそろえるだけで、十分意味があったはずですが、鉱物趣味がポピュラーになり、その裾野が広がった現在では、どうもそれだけでは物足りないと、情報の送り手も受け手も感じているように思えるからです。

私見ですが、今でも活気が感じられるのは、

 イラストに凝ったサイト、
 自採品に特化したサイト、
 画像よりも文飾とウンチクで読ませるサイト、
 「見立て」のような、ひねった楽しみを実践するサイト

など、とにかく何かしら特徴を備えたところのような気がします。
趣味としてポピュラーになったために、かえってサイト運営が難しくなるというのは、一見矛盾していますが、人々の見る目が肥えて、要求水準が上がったと考えれば、ごく自然な帰結です。

   ★

ひるがえって天文古玩趣味はどうか。

こちらは一貫してマイナーかつニッチ的趣味なので、幸か不幸か「メジャー化に伴う苦労」とは無縁です。この穏やかな無風状態の続くことが、これまた幸であるのか、はたまた不幸であるのかは分かりませんが、個人的にはマイペースで息長く続けたいので、今後も末永くマイナーであれかし、と念じています。

(最後の方は、ちょっと屈折した感情がにじみ出ていますね。まあ、メジャー化したら楽しいかも…と思わなくもありませんが、しかし、「母屋」にあたる天文趣味だって、趣味人口の減少が言われているのに、「離れ」である天文古玩趣味が、今後メジャー化する可能性は限りなくゼロに近いでしょう。 “それもまた良し月見草” の心境です。)

(↑昨日とほとんど同じ写真ですが、実際の見た目は今日の方が近いです。)

コメント

_ S.U ― 2013年06月01日 09時16分46秒

「天文古玩道」が (←何にでも「道」をつけたがる典型的日本人)メジャーな趣味になりうるか、というのは面白い問いかけですね。そんな可能性はごくごくわずかしかないとしても、もし万が一なるとしたら、どういう形でメジャーになるのか考えてみるのも一興かもしれません。

 昨年ヒットした映画「天地明察」で何十種類あったかしれない天文図等の張り紙だらけの映像を目にした時は、ひょっとしたらこれが流行るか、と思いましたが、やっぱりそんなものは話題にもならなかったようです。これを話題にしたのは我々くらいかも...
(ところで、最近ネット検索でこの手の調べ物をしていると、やたらめたら「天文古玩」ばかりひっかかって、新しい情報を探しているのに邪魔になって困ります(笑)。いずれは検索のexclude条件に入れないといけないかも(笑))

 玉青さんは、「天地明察」の小型望遠鏡の考証をされましたが、細かいことを言わなければ、こういう天体望遠鏡の基本的なコンセプトはガリレオ、ニュートンの時代から現代まで変わっていないので、小型天体望遠鏡を買うこと自身が(モノは新品でも)「古玩道」と見なされるようになるかもしれません。ひょっとすると、趣味のための精妙な道具でこれほど変化していないものは少ないかもしれません。カメラはデジタルになりましたし、囲碁将棋も盤がなくてもネット経由で出来るし、釣竿やゴルフクラブも本質的に材質が改良されているのではないでしょうか。

 と考えてくると、バイオリンや尺八など伝統的な楽器類はそんなに変わっていませんね。楽器が天文古玩道の行く末を示しているかどうか。まるでわからんので考察はここでやめです。

_ 玉青 ― 2013年06月01日 21時02分01秒

考えてみれば望遠鏡は不思議な道具ですね。

デジタル技術の進歩によって、撮像や導入の手段は様変わりしましたが、望遠鏡そのものは、依然、光を曲げたり反射させたりしているだけですから、やっていることはローテクそのものです。ただ、光を「思ったとおりに」曲げたり反射させたりするのが、とびきり難仕事なので、望遠鏡は結局「高度なローテク機器」と呼ぶのが、いちばんピッタリくる感じです。(音響機器にたとえるなら、マイクもスピーカーもなしで、メガホンと集音用のパラボラ装置だけで勝負しているようなものかも。)

となると、たとえ全自動導入装置付きだろうが、光学望遠鏡はすべからく古玩であり、天文古玩趣味と天文趣味はイコールで結べるのだ…とまで言うと、言い過ぎかもしれませんが。(^J^)

_ S.U ― 2013年06月02日 07時22分51秒

>望遠鏡は不思議な道具
うーん。突き詰めれば、これはレンズと鏡が特殊なのですね。光を曲げる道具として、これ以上のものが発明されていない -- 光の飛ぶ向きの識別と変換については、どんなハイテク機器もレンズ表面の傾斜に勝るレファレンスを持たないということになります。--これはなぜか? ということになると結局は光が特殊だからだ、ということになるのでしょうが、「キミ、光は特殊だよ」と言われると、「はいはい、そりゃそうでんな」で終わってしまいます。
 とにかく、レンズや鏡以外の技術で正確に光を曲げられれば世紀の大発明ですね。レーザーホログラフィーかなんかでいずれにできるようになるかもしれません。

 何にせよ、レンズと鏡は「本質的に『古玩』である」ということでまずはよろしいかと存じます。

_ SPS ― 2013年06月02日 14時45分49秒

こんにちは。今回のエントリーはすごく考えさせられることで、レスを入れたい気持ちを抑えきれませんでした。
私はホームページ世代(?)の人間で、ブログとかSNSとかfacebookとかの世になって久しいのに、未だに慣れません。というか接点を見出せずにいます。鉱物ブログも、たぶん世には大変な数のブログが存在しているのでしょうが、偶然行き逢えたところは別として、ほとんど把握してないんじゃないかと思っています(見たいという気持ちはあるのですが)。
ホームページの時代には相互リンクとか検索エンジンへの登録とかがある程度充実して、キー局から「ネットサーフィン」して回ることも容易だったように思うのですが、今はたどり着くまでが大変…
で、もしかして、ネットに対して私のような感触を抱いている人も少なくないのじゃないかなと思ったりします。
「活気」というのが、人気(レス数)・アクセス数ということであれば、固定訪問者に恵まれた少数のブログ以外は、実際問題としてなかなか再訪者/レスを期待するのは難しいという側面が大きいのではないかと思います。
(もっともホームページの時代から、「サイトのクオリティとアクセス数は無関係」という主張があって、私もそう思っていますが)

それと、私も鉱物サイトを持っている一人なので、その立場から言うと、来て下さる方(受け手)にとって意味があるかとか考えてコンテンツをその要求水準に合わせていくというのは、失礼ながらおそろしい無駄骨というか、個人の趣味サイトを比較的長期間継続していくモチーフとしては、労のみ多かりしことのように思います。
やはり個人サイトは自己満足でやらないと。
ひとつ前のエントリーに「自分だけの鉱石倶楽部」という標語が出ましたが、鉱物ブログもそれでいいのではないかと思います。

あと、10年位前に「サイト(ブログ)平均寿命説」といったことがさまざま言われていたことがあって、その点からも思うことがあるのですが、言わずもがなかもしれません。

失礼しました。

_ 玉青 ― 2013年06月02日 20時18分59秒

〇S.Uさま

ご解説ありがとうございます。
お話をうかがって、自分が望遠鏡に懐かしさを感じる秘密が、ようやく分かった気がします。

〇SPSさま

今回の記事は、鉱物ブログ云々ともっともらしいことを書きましたが、実のところ、自分自身の迷いといいますか、「こんな風に、たまに鉱物写真を載せたところで、鉱物好きの人からしたら、『それで?』となるんじゃないかなあ…」という、弱気な意識を問題にしたかっただけのような気もします。もし、SPSさんが、記事を読まれて、何とはなしに物思わしく感じられたのであれば、どうぞご寛恕ください。

>やはり個人サイトは自己満足

結局、結論はそこに尽きますね。
何といってもお金儲けでも何でもなしに、純然たる趣味の活動なのですから、自己満足で大いに良しと、自ブログのことも含めて思います。

_ SPS ― 2013年06月04日 19時33分03秒

玉青さま。 レスありがとうございます。
「傍から見て」でなく、「自分自身の迷い」ということであれば、私は別のことを申し上げたい、というか、仰っていることがすごくよく分かる気がするんです。というのも、お書きになっていることは、私もサイト管理者として考えることがあるからです。
で、自分のこととしてたとえてみますと、何か面白そうな遊びを見つけて、とりあえず手を出してみて、すっかり楽しくなって夢中になって遊んでいると、ある時ふと、自分は何をしてるんだろう、こんなことして何か意味があるのかな、とか周りから見ると子供っぽいことをしてるんじゃないか、とか醒める瞬間がくるんです。
この場合は、こんな鉱物標本の写真、もっとキレイな写真を撮る人(ブログ)はいくらでもあるし、もっといい標本を出してる人もいくらもいる、ツマラないブログを晒してるんじゃないかとかなんとか…
で、そういうことを考え出したときに、恥ずかしくなったり劣等感を感じたりするのは自然なことだろうと思います。だって実際世の中には優れた人(ブログ)がいくらでもいますから。
で、それで自分の遊びをやめてしまう人もいるだろうし、これからは何か客観的に価値のあることをしようと思う人もいるだろうし、それはまあどう進んでも一局なんですが、ただ、もともと楽しそうだと思って始めたことも、自分が楽しくて続けてきたことも、否定する必要は全然ない、むしろ自分が楽しいから、ただこれをやっていくんだ、ということの方が本筋なんじゃないかと思うんです。
ことに自分の中の何かを表現したいというときには。
って、ちょっとなんか玉青さまが仰りたいこととずれたことをまた書いてしまったかもしれませんが…

_ 玉青 ― 2013年06月08日 21時10分42秒

SPSさま、コメントへのお返事が遅れ申し訳ありません。
いろいろあって、筆が止まっていました。

>周りから見ると子供っぽいことをしてるんじゃないか、とか醒める瞬間

あ、あります、あります。
で、私の場合は「じゃあ、醒めた状態の自分がどれほど大人か…」と考え直して、またこっちの世界に戻ってくるのが常です。まあ、一種の開き直りかもしれませんが、趣味の世界ですから、その辺はおおらかにいきたいところですね。

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