図鑑史逍遥(2)2013年10月06日 10時27分43秒


(飯沼慾斎 『草木図説稿本』より。以下出典:『江戸の動植物図』、朝日新聞社、1988)

日本でも江戸時代には西洋の博物図譜に相当するものが盛んに作られました。たとえば、岩崎灌園の『本草図譜』(文政13、1830)とか、栗本丹洲の『千蟲譜』(文化8、1811)とか。その広がりの実態は、例えば以下のページで瞥見することができます(「展示資料一覧」のリンク先をたどってください)。

平成23年度東京大学附属図書館特別展示
 総合図書館貴重書展 「江戸 いきもの彩々」

 http://www.lib.u-tokyo.ac.jp/tenjikai/tenjikai2011/index.html

(奥倉辰行 『水族四帖』より)

美しい彩色を施した精緻な図は、西洋の博物図譜にもおさおさ劣るものではありません。

(飯室楽圃 『蟲譜図説』より)

   ★

では、こうした江戸の博物図譜、本草学書の類を、現代の図鑑の直接のルーツとみなしてよいか?
西洋と日本では、この点においていささか事情が異なっていると思います。

結論からいうと、日本の図鑑文化はやはり近代のもので、我々が今見る図鑑は、明治になって新たに生み出されたのだと考えます。それは江戸期の本草学と、明治期の動・植物学とが、学問的営為として事実上断絶していることの反映であり、こうした学問的断絶の有無が、彼我の大きな差だと思います(これは江戸時代の天文方の活動と、明治以降の天文学との不連続性についても言えることでしょう。―もっとも本草学については、蘭学系の伊藤圭介のように、明治以降も官学の世界で重用された人もいるので、完全に断絶しているわけではないかもしれませんが)。

   ★

明治期における図鑑の誕生と発展というテーマを考える際、分野を植物にしぼると、すでに非常に詳細な考証がなされています。それが、以前の記事でも触れた、俵浩三(たわらひろみ)氏の『牧野植物図鑑の謎(1999、平凡社)です。

同書は、牧野富太郎の影に隠れた存在である、村越三千男(1872-1948)という市井の植物学者/図鑑制作者に光を当てつつ、「牧野植物図鑑こそが図鑑の元祖」という<伝説>が生まれた背景や、明治40年ごろに植物図鑑ブームが起きた理由を探る、一種の謎解き本で、新書版の薄い本ですが、内容は非常に濃いです。村越三千男という異能の人を取り上げた成書としては、現在においても唯一のものかもしれません。

(以下長くなるので、いったんここで記事を割ります)

コメント

_ S.U ― 2013年10月09日 21時40分15秒

 ちょっと途中までを読んだ疑問なのですが、江戸時代において(とりあえず、蘭学が普及した19世紀初めから、幕末の開国前くらいまでに絞っていただいてけっこうです)、日本の図鑑は、西洋で出版された図鑑から直接の影響を受けているのでしょうか。また、逆に、江戸時代の日本の「博物画」が西洋の図鑑に影響をことがあるのでしょうか(これはもう少しあとのジャポニズム以降まで引っ張っていただいてもかまいません)。

_ 玉青 ― 2013年10月09日 22時36分16秒

例によって付け焼刃でお答えしますが、西洋→日本、日本→西洋、これはいずれも直接的な影響があったようです。

たとえば、記事中に取り上げた、飯沼慾斎の『草木図説』の絵には、蘭人ワインマンの『花譜』が影響しており、慾斎の分類体系は同じく蘭書の『リンネ自然誌』に従っている由。また平賀源内もこの件についてのキーパーソンの一人で、彼は個人で西洋の博物図譜を複数購入し(『紅毛花譜』、『紅毛虫譜』等)、それが彼の没後民間に伝わり、江戸後期の動植物画に大きな影響を与えた…ということが、ものの本に見えます。

また西洋の学者は、鎖国下の日本の動植物について知ろうと思えば、日本の書籍・画本等によるしかなく、あるいは直接来日したシーボルトなどは、日本人画家に命じて盛んに写生もさせていますが、そうした図が西洋の図鑑に再模写されて載っている例は少なくないようです。

(すべて聞きかじりなので、この辺はあまり突っ込まないでください・笑)

_ S.U ― 2013年10月10日 06時15分14秒

ご教示ありがとうございました。本格的な西洋図鑑を絵心のある日本人が手にとっておれば影響されるのは間違いないでしょうね。

 日本でリンネはけっこう人気があったようで、帆足万里の『窮理通』でも冒頭のほうで出て来ていました。リンネの名が「輪廻」みたいで、日本人の生命観にマッチしたのかもしれないというのが私の無責任な説です。

 開国前に日本に来た西洋人の逸話として、江戸への長旅にも関わらず途中で路傍の植物を見るために駕籠を止めさせたとか、まあ、オランダ人は田園の風景画とか静物画も得意ですし、なんとなく世界じゅうの植物に関心を持ちそうです(これまた無責任な説)。

_ 玉青 ― 2013年10月11日 21時12分32秒

日本人とオランダ人、好奇心の強さではいい勝負かもしれませんね。
日本とイギリスは、何かと比較文明論的な話題となることが多いですが、近世のオランダと日本も、いろいろ比べてみると興味深い点があるような気がします。

_ S.U ― 2013年10月12日 09時47分40秒

日本人とオランダ人の共通点は、美術感覚が繊細で、文化のテーマが小ぶりながらも渋くて、それで商売や生活は現実的なところでしょうか。それが互いの好奇心を満たすのに十分役に立ったのではないかと思います。

 鎖国時の貿易相手がオランダであったことは、いろんな意味で当時の日本に合っていて、その後の日本の学問の発展にとって本当にラッキーであったと思います。

_ 玉青 ― 2013年10月13日 11時22分43秒

戦火の時代には不幸な出来事もありましたが、2000年には日蘭交流400年、2009年には日蘭通商400年を記念し、いろいろ祝賀行事があったのは記憶に新しいところです。思えば長い付き合いですね。

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