リアリズム問答…理系アンティークショップ「Q堂」にて2014年06月29日 19時56分48秒

本日3投目。

   ★

「よお、いらっしゃい。」

どう、何か面白いものは入った?

「面白いかどうかはお客さんが決めることだから…。でもTさんは、こんなの好きでしょ?イタリア製の星座早見盤。ほら、前にジョバンニが見たような早見が欲しいって言ってたじゃない。」

ああ、これ!よく見つかったねえ。ネットでは見たことあったけど、実物は初めて見るよ。

「いいでしょう。保存状態もまあまあだし、それにメーカーの元袋が付いてるのは珍しいと思って。」

むう、確かに。と、値段は…

「〇万円。まあ、リーズナブルだと思うよ。市に出したって、すぐに買い手は付くだろうし。Tさんなら1割引いてもいいかな。」

はあ、足元を見るねえ。じゃあとりあえず内金を入れるから、来月の頭まで取っといてくれないかな。今月はもうカードも使いたくないし。

「了解。毎度おおきに。」

ふん、こっちこそおおきにお世話様さ。でも、ありがとう。真っ先に声をかけてくれて嬉しいよ。…それにしても、Qさんはいいよね。こんな浮世離れしたモノを商って、それで生活できるんだから。世間は今、集団的何とかでカンカンガクガクなの知ってる?

「そうバカにしたもんじゃないよ。何せ昔のものは嫌ってほど見てるんだから、歴史に学ぶことにかけちゃ、そう人後に落ちないさ。今の世間の動きだって、この慧眼にかかれば…ね。まあ、自分はそうだけど、若い人を見てると、ちっと心配がないでもない。」

へえ、Qさんにしちゃまともなこと言うね。

「いや、こないだ店に来た若い子と話しててさ、『命をかけて愛する者を守りたい、愛する国を守りたい』っていう気持ちが分かるっていうんだ。同じ世代でそういうことを言う人の気持ちはよく分かるって。真顔でそういうもんだから、こっちも一寸妙な気になってね。」

若者らしい一本気じゃない。まあ、それにつけ込む輩がいるのでいかんけど。

「愛する者のために命をかける…そう思っただけで気分が高揚して、喜んで銃を手に取る若者って、いつの時代にも、どこの国にもいるのは分かるよ。ただ、心配なのは、ちょっとそこにリアリズムがね…。」

それは求める方が無理でしょ。Qさんだって、僕だって、鉄砲担いだ世代じゃないし、リアリズムと言ったら五十歩百歩じゃない?

「思うに、『戦争のリアリズム』って言葉自体、ちょっと抽象的な気がするんだ。でもさ、それがこの商売のいいところでね。…ほら、例えばこの本。こんなのを見た日にゃ、言葉も何もすっ飛ばして、戦争が何をもたらすか分かるじゃない。」

何、これ。戦前の本だね。

「ほかにも、これとか、これとか。みんなイギリスとアメリカで出た、昔の形成外科学のテキストだよ。ここのところ医療系アンティークのテコ入れをしてて、こんなのも需要があるかと思って買い入れたんだ。でも、ページをめくって状態チェックしているうちに、さすがに気分が悪くなった。」

うわ…これは…

「悲惨っていうのは、こういうのを言うんだよね。形成外科学って、第一次世界大戦で大量に生まれた傷痍軍人のために発展したそうだけど、なんだかねえ…。」

ずいぶん痛々しいリアリズムだね。

「そう。そして、愛する者のために命を捧げるイメージに高揚している若い子は、たぶん戦場で華麗に散って、愛する人がひっそりと自分の墓前に花を手向けるシーンとか思い浮かべるのかもしれないけど、そうじゃないケースも想定しておくべきだと思うんだ。手足をもがれて、顔面の半分を吹っ飛ばされて帰って来ても、キミの愛する人や、愛する国は、キミのことを依然愛してくれるだろうか?…それを頭の隅に入れとかないとね。それこそが僕の言いたい究極のリアリズムさ。」

うーん、なるほど。人間心理の闇を突くね。

「そうさ、なんたってリアリストなんだから。…だからTさんとも馴れ合いはなしね。取り置きは2週間まで。きっちり払うものは払ってよ。」

コメント

_ S.U ― 2014年06月30日 06時47分44秒

 そういえば、私の子どもの頃には、時々、手足を大きく負傷された人を見ることがあり、大人は「兵隊さんだ」(そのときはもう戦後20年くらい経っていたのですが)と言っていたように思います。物乞いをする人のこともあり、普通の庶民として生活している人のこともありました。そのような人がみな傷痍軍人であったかどうかはわかりませんが、大人がいうのですからその確率が高かったのでしょう。
 そういう方々を街で見かけなくなった頃に次の戦争が起こる、というのが1000年以上にわたって続く世界の法則なのかもしれません。

>愛する者のために命を捧げる
 私はちょっとこの言葉に違和感を感じます。若い人が讃えるのは、どうも西洋の文学的な意味での「騎士道」のように受け取れます。しかし、日本の軍人はやはり「武士道」であり、日本ではそれに基づく「戦陣訓」というものが戦国時代から先の大戦まで用いられました。日本の武士は大将の為に奉公するもので、かつ、大将も御自ら出陣し、敗れれば城を枕に討死、あるいは自刃ということでセットでなければならなかったと思います。

 現在では、指導者が責任を取って自決するべきと言っても、何を時代的なということで一笑に付されるだけでしょう。でも、私には、それはどう考えても自分勝手な武士道のいいとこ取りのように思われ、納得がいきません。大将が「暖室に酒呑みながら・・・」では話にならないでしょう。一般人に騎士道・武士道を言うなら、指導者には最後は自ら果ててもらわないと(そういう覚悟というのではなく実際にです)どうにも完結しないように思います。
 (なお、戦争責任(戦犯)問題では、軍人と文民政治家を区別する考えもあるようですが、日本の伝統では俸禄を受ける政治家はみな武士に対応すると見なすべきでしょう)

_ 玉青 ― 2014年06月30日 21時00分00秒

おお、これは常のS.Uさんに似合わぬ激しいお言葉ですねえ。
指導者面した連中に果たしてその覚悟があるのか?それほど腹を据えているのか?
酒臭い息を吐き散らす暖室連にはそう迫りたい気もしますが、下手をすると脇から「おう、覚悟はあるぞ!吾輩に続け!!」と、腹はともかく、目の据わった人が登場しかねず、それはそれで迷惑な話ですので、やはり平和を守ることに身命を賭す人士をこそ望みたいところです。

しかしまあ、「一将功なりて万骨枯る」のが世の習いとはいえ、民草には民草の意地もあり、そう易々と刈り取られぬよう、強く根を張って生き抜きたいです。

_ S.U ― 2014年07月01日 06時15分14秒

>似合わぬ激しい
 いやいや、私の場合は時代劇が好きで物言いが大仰になっているだけで大それた意味はございません・・・(笑)
 腹の据わった武士としては、テレビドラマで、古参の忠義の家老が「このシワ腹をかっ切って・・・」と出来の悪い若殿を諫めるのがしばしばありますが、ああいうのが好きです。

>目の据わった人
 武士道が好きだから刀剣を買う、任侠道が好きだからヤクザに弟子入りする、兵器が好きだから防衛費で買いそろえる、戦闘が好きだから一般から兵隊を募る、趣味や自分の人生経験としてはいいですが、政治としてやるとなると関心のない人の生命まで巻き込んでしまうので問題が大きくなります。どれほど国民の支持を得た政治家でもやってはいけないこと、を国民の側も憲法解釈をしてはっきり示す、そんな世にしたいと思います。

 例えば、政治家は憲法の効力を貶めることはやってはいけない、と憲法99条に書いてありますので、俸禄を食む身で天下の御法度を手前勝手に弄ぶとは不届至極、謀反人、逆賊も同然ということになります。(時代劇にはまるとどうも物言いが大仰になっていけません)

_ 玉青 ― 2014年07月01日 21時41分22秒

今日の記事で人間の性は争いを好むと書いたんですが、実際の切った張ったと、「切った張ったのつもり」では天地雲泥の違いがありますから、世の指導者もドラマの切り合いぐらいで満足してほしいのですが、どうも「チャンバラが好きだから刀剣を持つ」のとは別に、「刀剣を持つとチャンバラがしたくなる」心もあるみたいですね。

_ S.U ― 2014年07月02日 06時27分19秒

>「刀剣を持つとチャンバラがしたくなる」
 この気持ちはよくわかります。爆弾を持つと破裂させたくなり、ミサイルを持つと発射したくなるのもやむからぬことでしょう。 

 「悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり」の名言もありますので、国の指導者たる者、よほどの聖人でなければたやすく悪人になってしまうということでしょう。せめて聖人の真似たりともしてもらいたいです。

_ 玉青 ― 2014年07月02日 07時10分12秒

「聖人の真似とて人を活かさば、聖人なり」

おお、いい感じですね。
聖人と取り違えられた人が、やむなく聖人のふりをしているうちに、真の聖人になっていく…というストーリーは既にあったような気もしますが、実際ありうることと思います(というのは、すべての人の心の内には悪人と聖人が両方いるかもしれないので)。学ぶは真似ぶ。まずは真似なりともしてほしいです。

_ S.U ― 2014年07月02日 19時34分28秒

>「聖人の真似とて人を活かさば、聖人なり」 ~学ぶは真似ぶ

 これはきれいにまとめていただきました。

 実を申せば、私の書いたのは『徒然草』の同段の結びの「偽りても賢を学ばんを、賢といふべし」を受け売りで敷衍させたものだったのですが、兼好法師の趣旨通り、受け売りの賢でも賢としていただければありがたいです。

 結んでおいてまたまた脱線ですが、『徒然草』は坊さんの説教じみた話が多いと思っていたのですが、この段を読むと素直に古人に学ぶことが大切だと感じられます。昨今は「『コピペ』はいかん」とか「引用リストに載せよ」とか「自分のオリジナリティを」とかやかましく言いますが、オリジナリティの重要なのは当然として、単純に先人の賢に真似ぶことをここらでちょっと見直すべきではないかと思います。古人を真似びて何の不都合なる所のあらん。

_ 玉青 ― 2014年07月03日 06時13分20秒

何事も型から入るのは、日本の(あるいは東洋の)伝統でしょうが、コピペの場合、型から入り、型を脱する遥か手前で終わってしまうことが多そうです。(私もあまり人のことは言えませんが…)
賢に真似ぶのも、右クリックでポンではなく、額に汗して書写すると、頭と心への染み入り方がずいぶん違うと思うのですが、どうも人間便利な方に流れがちでいけませんね。
(以上、文意を補足し再投稿)

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