本邦解剖授業史(補遺)2017年06月19日 21時50分56秒

解剖授業の盛衰について、その輪郭を絶対年代に位置づけることができたので、今回はとりあえず良しとし、新事実が分かればまた付け加えることにします。

   ★

ところで、日本では上のような次第として、海外ではどうなんでしょう?
海外と言っても広いですが、たとえばアメリカ。

アメリカでは日本以上に動物愛護の声が強いのかな…と思ったら、どうもアメリカの人の慈悲も、カエルにまでは届かないのか、今でもカエルの解剖は、全米の中学校でバンバン行われていることを、下の記事で知りました。


■Dissecting A Frog: A Middle School Rite Of Passage
 (カエルの解剖―中学校における通過儀礼)

そう長い記事でもないので、全文を訳出してみます(意味が通らないところがあるので、例によって適当訳です)。

▼------------------------------------------------------------------▼

「カエルの解剖―中学校における通過儀礼」

<前書: このシリーズでは、私たちが小・中学校時代に―たとえごく短期間にせよ―慣れ親しんだ象徴的なツール、例えば計算尺と分度器とか、全国体力テストとか、積み木等について、集中的に取り上げる。>

<以下、本文>

ロブ・グロットフェルティの生物実験室には、ブンゼンバーナーやシャーレと並んで、奇妙なパッケージが積まれている。中身は死んだカエルだ。真空包装され、5個積みになっている。

袋を破ると、ヒョウガエル〔=トノサマガエルの近縁種〕からは、すぐに刺激的な臭いが漂いだし、もう死んでいるはずなのに、やけにヌルヌルしている。

ボルチモアにある、パターソン・パーク・パブリック・チャーター・スクールの7年生〔=中学1年生〕の中に、ゲンナリしている生徒がいる理由はそれだ。

「死んでる動物のお腹を切り割くなんて!」と、テイラー・スミス。彼女は黒いスモックにすっぽり身を包み、プラスチック製のゴーグルとゴム手袋を装着している。「こんなもの放り出したいわ」。

多くのクラスメートと同様、テイラーも、このホルマリン漬けのカエルに触るのは嫌だし、ましてやそれを解剖して、黒っぽいねばねばした内臓を取り出すなんて、真っ平ごめんだと思っている。

グロットフェルティ先生の目的は、生徒たちに嫌悪感を乗りこえさせることだ。

「でも、僕たちが真に関心を持っているのは、カエルの身体の仕組みなのかな?」と、先生はクラスのみんなに問いかける。「僕たちはカエルについて学んできたのだろうか?いや、違うよね。じゃあ、僕たちは何を学んできたんだろう?」

答は「人間について」だ。

カエルはそのためのステップに過ぎない。最初、クラスの生徒たちは、ミミズを解剖した。次はニワトリの羽だ。ハイスクールになれば、扱う動物はもっと大きくなる。ネズミ、ネコ、ブタの胎児。いずれも我々自身の身体の仕組みについて教えてくれる。

「リアルな対象には、腹にずしんと来るような、大切な何かがありますよ。」と、全米理科教師連盟の常任理事、デイビッド・エヴァンスは語る。「この特定の器官の手触りは?どれぐらい硬いのかな?押せばへこむかな?とか。」

好むと好まざるとにかかわらず、こうした仕組みを学ぶには、以前は死んだ動物を使うことが、生徒たちにとって唯一の選択肢だった。しかし、1987年に状況が変わった。この年、カリフォルニアのビクターヴィルに住む15歳のジェニファー・グレアムが、生物の授業でカエルの解剖をすることを、断固拒否したのだ。

グレアムの話題は、当時大きなニュースになった。彼女はそれを法廷に訴え、最終的に「生徒には生身の生物以外の選択肢も与えるべし」という州法が成立した。現在までに、少なくとも他に9つの州で、同様の州法が制定されている。

それ以来、コンピュータによるモデルが教室に進出を続けている。全米理科教師連盟は、教育手段としての解剖の重要性を依然として主張しているものの、現在では教員に対して、生徒に選択の機会を与えることを求めている。

グロットフェルティは、両方を併用している。彼によれば、コンピュータ・モデルは、生徒が解剖学の理論を理解するのに役立ついっぽう、実際の解剖は、めったにないやり方で生徒を引き付ける。

「生徒たちは解剖の授業をずっと楽しみにしてきたんですよ。これこそ生徒たちがやってみたいことなんです。」とグロットフェルティは言う。

たしかに、気の弱い生徒ですら、今や解剖トレイの周りでそわそわしながら、事が始まるのを待ち望んでいるようだ。

理科は好きじゃないと言っていたテイラーはどうだろう。彼女は今まさに小さなはさみを使って、カエルの鎖骨を切断しようとしている。

「もうちょっと力を入れて」とグロットフェルティが声をかける。「何かはじける音や割れる音が聞こえないかい。」

テイラーと彼女の班は、一つずつ、内臓をラミネートされた紙の上に並べていく。

「私はもう弱虫なんかじゃないわ」と、テイラーは言う。「解剖って面白い。」

解剖は、一部の人にとっては依然として議論のある実習だが、グロットフェルティ曰く、テイラーの豹変こそ、解剖が持つ力の例証なのだ。すなわち、いつもなら理科嫌いの生徒ですら、カエルの消化管には、大いに夢中になれるのだ。

▲------------------------------------------------------------------▲

アメリカの解剖授業は、基本的に生体ではなく、死体の解剖のようです。
作業手順は似ていても、結局のところ死体は「もの」に過ぎませんから、その抵抗感において両者には大きな違いがあります。
そして、科学の名において生物を殺すことの倫理的問題(あるいは、素朴に命に手をかけることの怖さ)も、後者は生じにくいでしょう。

また、少なくとも一部の州で、リアルとバーチャルの2種類の解剖授業を選べるのは、なかなか良い工夫だと思います。でも、その主眼は、生命倫理の問題よりも、授業方法をめぐる生徒の自己決定権をどう保障するか…という点にあるようです。

本当に理想的な授業はどうあるべきなのか?
教育学畑の人や、現場の先生なら、ここで理科授業論を活発に展開できるでしょうし、そうでない人も、解剖授業を素材にした日米比較文化論には興味を持たれるかもしれません。

私自身、特に結論を持ち合わせているわけではありませんが、でも、素朴な感想として、アメリカのやり方は巧妙であり、対する日本は直にしてナイーブな感じがします。(もちろん直でナイーブだからダメと言うことはできません。)