2023年の空に向かって2022年10月23日 12時38分18秒

名古屋市科学館で開かれていた、「ウィリアム・ハーシェル没後200年記念展」が先週で終わり、その撤収作業がありました。その際、「そういえば、来年はプラネタリウム100周年だそうですね」という話になりました。

現代のプラネタリウムの元祖である、ツァイス社の投影式プラネタリウムが誕生したのが1923年で、来年でちょうど100年。名古屋市科学館でも、それを記念する企画が進行中とのことで、今から楽しみです。のみならず、国際プラネタリウム協会(IPS)を中心に、世界中で関連の催しがあるのだとか。

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YouTubeに荒井由実さんの「雨の街を」がアップされているのに気付きました。

 夜明けの雨はミルク色
 静かな街に ささやきながら 降りて来る 妖精たちよ
 誰かやさしくわたしの肩を抱いてくれたら
 どこまでも遠いところへ 歩いてゆけそう

…で始まる、静かな、心の深いところにしみる曲です。
この曲のファンは多いと思いますが、私はこの曲を聞くと、あるひとつの情景が繰り返し浮かんできます。

The Alqueva´s Dawn sky © Miguel Claro)

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来年はプラネタリウム100周年。
そしてあの出来事から20年。

2003年4月26日の夜明けの空に向かって、一羽の蝶が静かに飛び立ちました。
その蝶が普通とちょっと違ったのは、八本の脚をもっていたことです。

■二階堂奥歯 『八本脚の蝶』

私には彼女のいう「恐怖」がどれほどのものだったかは分かりません。
そして、彼女は震えながら、長い間それに抗った末に、ひとつの選択をしました。

夜空の底に青がにじみ、星明りも徐々に消え、やがてブドウ色になる頃。
そのとき彼女の目に見えていた景色が、私には何となく荒井由実さんの歌と重なって感じられるのです。もちろん、それは私の勝手な思い入れに過ぎません。でも、その世界があくまでも透明であったことを強く願います。

『八本脚の蝶』は、彼女が自死した直後にネットで話題となり、時を隔てて文庫にもなりました。彼女の問いかけは、今も多くの人の心に、一種の宿題を残していると思います。

我ながらいかにも唐突な記事だと思いますが、いろいろなことが重なって、私の中で急にひとつの像を結んだので、文字にしておきます。

空を見上げて宿題の答を探す日々は、これからも続くことでしょう。

ハーシェル展 続報2022年09月18日 19時09分25秒

名古屋市科学館の「ウィリアム・ハーシェル没後200年記念展」が昨日から始まりました。

科学館公式ページ:ウィリアム・ハーシェル没後200年記念展
それにしても、亡くなってから200年経っても、こうして記念展が開かれるってすごいことですよね。存命中は盛名隠れなき人でも、死後はまったく忘れ去られてしまい、「え、○○って誰?」となってしまう人の方が圧倒的に多いことを思えば、200年後に、しかも遠い異国の地で追悼されるというのは、彼が偉人なればこそです。

会期の方は10月20日(木)までありますので、興味を覚えた方は、ぜひ会場に足をお運びいただければと思います。

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名古屋市科学館は、地元の人にはなじみだと思いますが、その天文館の5階が展覧会の会場です。


フロアには、引退したツァイスIV型機がそびえ、


天井を見上げれば、プラネタリウムの元祖、18世紀の「エイシンガ・プラネタリウム」【LINK】のレプリカが設置され、人々の星界への憧れを表現しています。


上は今回の展示前から常設されている、ハーシェルの40フィート大望遠鏡の縮小模型。

さて、こうした星ごころあふれるフロアの一角にある特設コーナーが、今回のハーシェル展の会場です。といっても、私はオープン前日の展示設営に、日本ハーシェル協会員として立ち会っただけで、まだ実際の展覧会には行ってないのですが、その雰囲気を一寸お伝えしておきます。



まず全体のイメージは↑こんな感じです。


展示は、パネルと同時代のものを含む各種資料から成り、小規模な展示ながら、並んでいる品にはなかなか貴重なものも含まれます。


左上はハーシェルが暮らした町、イングランド西部のバースの絵地図。ここでハーシェルは売れっ子の音楽家として生計を立てながら、一方で天文学書を読みふけり、ついには自作の望遠鏡で天王星を発見し…というドラマがありました。右側に写っているのが、彼の愛読した天文書です。


ハーシェルの自筆手稿を中心とした資料群。右端で見切れているのは、ハーシェルの死を伝える故国ドイツ(ハーシェルは元々ドイツの人です)の新聞という珍しい資料。


会場でひときわ目を引く古星図。ボーデの『ウラノグラフィア』(1801)の一葉で、今は使われてない星座、「ハーシェルの望遠鏡座」が描かれています(右端、ふたご座の上)。この貴重な星図は、今回このブログを通じてtoshiさんから特別にお借りすることができました。


ハーシェルが天王星を発見する際に使った望遠鏡の1/2スケールモデル。サンシャインプラネタリウム(現:コニカミノルタプラネタリウム)の元館長、藤井常義氏が手ずから作られたものと知れば、一層興味を持って眺めることができるでしょう。

以下、その説明は現地でご確認いただければと思いますが、こうしたモノたちを前にして、会場に流れるハーシェルのオルガン曲に耳を傾ければ、職業音楽家から大天文家へと転身したその劇的な生涯がしのばれ、彼によって代表される200年前の星ごころが、身にしみて感じられる気がします。




夢のプラネタリウムにようこそ2022年04月06日 06時00分51秒

東京渋谷にあった五島プラネタリウム
同館は1957年4月にオープンし、2001年3月に閉館しました。
人になぞらえれば、享年45(数え年)。

五島プラネタリウムは、運営に関わった人も多いし、熱心なファンはそれ以上に多いので、軽々に何かものを言うのは憚られますが、ただ懐かしさという点では、私も一票を投じる資格があります。私が人の子として生まれたときも、その後、人の親となったときも、あの半球ドームは常に街を見下ろし、1970年代には私自身そこに親しく通ったのですから。

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今は亡きドームから届いた1枚のチケット。


「御一名 一回限り有効」


3つの願いを聞いてくれる魔法のランプのように、このチケットも「1回限り」なら永遠に有効のような気がします。これを持って渋谷に行けば、どこかにひっそりと入口があって、あのドームへと通じているんじゃないか…?

そんな夢想をするのは、ドームは消えても、招待した人の気持ちだけは、この世にずっととどまっていて、その招待に応えない限り、思いが中有(ちゅうう)に迷って成仏できないような気がしたからです。

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でも、そんな心配は無用でした。


裏面にはしっかりスタンプが押され、昭和36年(1961)7月いっぱいで、チケットの有効期限は切れていることを告げています。招待者の念はとっくの昔に消滅しており、その思いが迷って出る…なんていう心配はないのでした。

「ああ良かった」と思うと同時に、五島再訪の夢も消えて残念です(※)

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このチケットは、おそらく五島プラネタリウムと誠文堂新光社がタイアップして、両者の集客と宣伝を図るために配ったのでしょう。最初は「天文ガイド」誌の読者プレゼント、あるいは投稿掲載者への謝礼代わりに配ったのかな?と思いましたが、改めて確認したら、同誌の創刊は1965年7月で、まだ「天ガ」もない時代の品でした。それを思うと、いかにも昔という気がします。

それにしても61年間、文字通り「ただの紙切れ」がよく残ったものです。これなんかはさしずめ、紙物蒐集家が云うところの「エフェメラ(消えもの)」の代表格でしょう。

なお、チケットのデザインが、1066年のハレー彗星を描いた中世の「バイユー・タペストリー」になっているのは、野尻抱影らがそこに関わって、歴史色の濃い番組作りが行われていた同館――その正式名称は「天文博物館五島プラネタリウム」です――の特色を示しているようで、興味深く思いました。

(彗星(右上)と、それを見上げざわめく人々)


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(※)そんなに五島が恋しければ、その流れを汲む「コスモプラネタリウム渋谷」に行けば?という声もあるでしょうが、でもやっぱり五島は無二の存在です。

プラネタリウムの美学(後編)2021年09月09日 08時34分53秒

もう一つの「カッコいい」プラネタリウムのイメージを載せます。


上はカール・ツァイス社が出した、自社製品紹介パンフ(1951年)。
プラネタリムの象徴ともいえる、真っ黒なダンベル型のフォルムが、碧い星空をバックに浮かび上がり、ハ-ドなカッコよさが横溢しています。

今もカッコよく目に映るということは、このカッコよさはかなり普遍性を備えたもので、たとえば大阪市立電気科学館の古絵葉書↓を見ると、戦前の日本でも同じような美意識が共有されていたことが分かります。

(モチーフは同館のツァイスⅡ型プラネタリウム)

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プラネタリウムはその映像、すなわち「ソフト」が肝で、それこそが人々の心を捉えるのでしょうが、それを生み出す「ハ-ド」のほうも、それに劣らずカッコいい。このデザインは、一体どのようにして生まれたのか?


もちろん普通に問えば、「機能を形にしたらこうなった」という当たり前の答が返ってくるでしょう。でも本当にそれだけなのか…?

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プラネタリウムが誕生した20世紀の第1四半期は、インダストリアル・デザインの考えが、やはりドイツで生まれた時期と重なっています。

機能を追求すれば、おのずとそこに用の美が生まれる…というのは素朴すぎる考え方で、「カッコいい」デザインが生まれるためには、やはり機能性と形象美を両立させようという、作り手の明確な意識が必要です。無骨な工業製品であっても、やはり美しさが必要だと考えたのが、当時のインダストリアル・デザイナーたちで、ツァイスの技術者も、意識的か無意識的かはさておき、その影響を受けて投影機を設計したのは、ほぼ確実だという気がします。

バウハウスで学んだXanti Schawinsky(1904 –1979)がデザインした、オリベッティ社のタイプライター。Wikipediaより)

ひょっとしたら、そのことを論じた人もすでにいるかもしれませんが、今はまったく資料がないので、この話題はネタとしてとっておきます。

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また投影機だけではなく、プラネタリウムのドーム建築にも、当時の建築思潮――たとえば歴史主義とモダニズムとの相克――の影響が見て取れるはずですが、このことも今は文字にする準備がありません(何だかんだ竜頭蛇尾で恐縮ですが、たぶんこれは同時代の天文台建築史と重なる部分が大きく、そこからきっと道も開けることでしょう)。

(上記パンフレットに掲載された世界のプラネタリウム。左上から反時計回りにベルリン、マンハイム、ローマ、ハノーヴァー)

(同 フィラデルフィア、ハーグ、ブリュッセル、ロサンゼルス)

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余談ながら、ツァイス投影機の魅力(の一つ)は、そのメカメカしさにあると思うので、それを論じるには「メカメカしさの美の系譜」という切り口も必要になります。そうなると松本零士氏が描く、いわゆる「松本メーター」なんかも、きっとその俎上に載ることでしょう。(というか、ツァイスのプラネタリウムを見ると、私はいつも松本作品を連想します。)

(ネット上で見かけた松本作品より)

プラネタリウムの美学(中編)2021年09月08日 15時46分29秒

最近、プラネタリウムがカッコよく描かれたイメージを続けざまに目にしました。
そこからいろいろ考えが広がって、昨日の感傷も生じたのですが、あまり感傷的になりすぎても良くないので、以下もう少し即物的に記してみます。

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プラネタリウムは星の世界の動物園だと書きましたが、ずばり「動物園のプラネタリウム」というのがあります。


「ライプツィヒ動物園プラネタリウム(Planetariumu im Leipziger Zoo)」
読んで字のごとく、ライプツィヒ動物園に隣接して建てられた公共プラネタリウムです。
その案内パンフレットが上の冊子ですが、何とも夢のある表紙ですね。そしてカッコいいです。

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ここは1926年から1943年まで、わずか20年足らずの間だけ存在しました。

(巨大なツァイスⅡ型機)


草創間もないツァイス社のプラネタリウムを見学した、当時のライプツィヒ市長の肝いりで、ドイツでも2番目にオープンした大型プラネタリウムとして、市民の人気を博しましたが、1943年12月の空襲によって焼失、以後再建されることはありませんでした。
(ちなみにドイツ最初の大型プラネタリウムは、同じく1926年にオープンしたバーメン・プラネタリウムで、こちらも1943年の空襲で失われました。)


今は跡形もなく消えた、幻の星の劇場。


「最寄駅から5分、夜10時まで上映」の文字で人をひきつけ、星降る夜にサーカスのテントのような建物で演じられた星たちの芝居。それを眺めた人たちの目の輝きを想像すると、やっぱり多少感傷的になってしまいます。

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上の記述はドイツ語版Wikipedia(LINK)の引き写しですが、そこにはちょっとした後日談も記されていました。それは1992年になって、ライプツィヒ動物園内の水族館のドームを使って、小さな「動物園プラネタリウム」が再開したというエピソードです。ツァイス製のかわいらしいZKP-2P型機を据えて上映を行ったそうですが、あまりお客さんが入らなかったのと、夏場の暑さの問題で1996年にあえなく廃止。現在、ライプツィヒ市にプラネタリウムは存在しないそうです。

(これまた独語版wikipediaより、ZKP-2型機。傍らに人が立ったときの大きさを想像して、上記のツァイスⅡ型機と比べてください。)

星は手が届かないからこそ、いっそう美しく感じられます。
プラネタリウムも、こうして心の中だけに存在するようになると、いっそう美しく、いっそう光を放って感じられる…というのは、何だかへそ曲がりのようですが、一面事実じゃないでしょうか。

1枚の絵から話を強引にふくらませて、「プラネタリウムの美学の中核には郷愁がある」と、今日のところは一応まとめておきます。

(要領を得ぬまま後編につづく)

プラネタリウムの美学(前編)2021年09月07日 11時23分11秒

昔、「プラネタリウムはあまり好きじやない」と書いた気がします。

我ながら大胆な言い分ですが、当時の思いとしては、プラネタリウムはいわば「星の世界の動物園」であり、生の自然に触れるのとは根本的に違うんだ…とか、プラネタリウムで和気あいあいと過ごすのもいいけれど、星を眺めるというのは、本来もっと孤独な魂の営みなんだ‥・みたいな気分だったと記憶しています。


自分が言いたかったことは分かります。
でも、了見としてはちょっと狭かったですね。

動物園には動物園の美学があります。
あるいは動物園でしか感じられない情調一悲しさや淋しさ-もあります。動物たちの目も悲しいし、それを眺める人間の目も悲しい。そこには野生への回帰を求めつつ、結果的にその対極へと至った人間の戸惑いが満ちています。

プラネタリウムも同じです。
プラネタリウムは星空をシミュレートする施設というよりも、星空に寄せる人間の思いをなぞる場所じやないでしょうか。そこにはある種の切なさがあります。無限の星にあこがれながら、同時にそれが叶わぬことを知っている者の悲哀といいますか。


それに動物園だろうが、プラネタリウムだろうが、しょせん人間は孤独から逃れられないものです。

そんな思いを抱きながら、あらためてプラネタリウムの美学――平たくいえば「カツコよさ」――を振り返ってみます。

(この項つづく)

アドラーは一日にして成らず2021年09月05日 11時15分25秒

昨日も触れましたが、シカゴのアドラー・プラネタリウム(1930年開館)は、天文博物館を併設していて、天文分野に限っていえば、そのコレクションはヨーロッパの名だたる博物館――ロンドンの科学博物館、パリの国立工芸館、ミュンヘンのドイツ博物館等にもおさおさ劣らず、西半球最大というのが通り相場です。

しかし、それほどのコレクションがどうやってできたのか?
20世紀の強国、アメリカの富がそれを可能にしたのは確かですが、逆にお金さえあれば、それが立ちどころに眼の前に現れるわけではありません。そこには長い時の流れと熱意の積み重ねがありました。

…と、相変わらず知ったかぶりして書いていますが、創設間もない時期に出た同館のガイドブックを見て、その一端を知りました(著者のフォックスは、同館の初代館長です)。


Philip Fox
 Adler Planetarium and Astronomical Museum of Chicago.
 The Lakeside Press (Chicago), 1933. 61p.

以下、ネット情報も交えてあらましを記します。

結論から言うと、アドラー・コレクションの主体は、既存のコレクションを買い取ったものです。もちろん創設以来、現在に至るまで、そこに付け加わったものも多いでしょうが、核となったのは、メディチ家とならぶフィレンツェの富豪貴族、ストロッツィ家のコレクションでした。

500年近く前に始まった、同家の科学機器コレクション、それが19世紀末にパリの美術商、ラウル・ハイルブロンナー(Raoul Heilbronner、?-1941)の手に渡り、次いで第1次世界大戦後に、名うての美術商・兼オークション主催者だったアムステルダムのアントン・メンシング(Antonius Mensing、1866-1936)が、それを手に入れました。この間、ハイルブロンナーとメンシングは、それぞれ独自の品をそこに加え、コレクションはさらに拡大しました(その数は全体の3割に及ぶと言います)。



工匠の技を尽くしたアストロラーベ、ノクターナル、アーミラリー・スフィア、天球儀、日時計、古い望遠鏡…等々。その年代も、まだ新大陸が発見される前の1479年から、アメリカ建国間もない1800年にまで及ぶ、目にも鮮やかな逸品の数々。メンシングはその散逸を嫌い、アドラーが入手したときも、一括購入というのが販売の条件でした。

約600点から成る、この一大コレクションを購入した際の資金主が、百貨店事業で財を得た、地元のマックス・アドラーで、これは旧世界の富豪から、新世界の富豪への時を超えた贈り物です。

(Max Adler、1866-1952)

以上のような背景を知るにつけ、「アドラーは一日にして成らず」の感が深いです。

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気になるその購入価格は、ちょっと調べた範囲では不明でした。
ただ、箱物であるプラネタリウム本体も含めた、その建設費用の総額が約100万ドル(参考LINK )だそうで、もののサイトによるとこれは現在の1600万ドル、日本円でざっと17億円にあたります。600点のコレクションの中には、とびきり高いものも、そうでないものもあると思いますが、丸めて平均100万円とすれば6億円、建設費用全体の3分の1~半分ぐらいがコレクション購入に充てられたのでは…と想像します。

なんにせよ豪儀な話です。

では、わが家の「小さなアドラー」の方は、1点あたり平均1万円、総額600万円ぐらいで手を打つか…。私は車も一切乗りませんし、維持費が馬鹿にならない車道楽の人の出費に比べればささやかな額でしょう。それにしたって、小遣いでやりくりするのは大変で、これぐらいのところでせっせと頑張るのが、身の丈にあった取り組みという気がします。小さなアドラーだって決して一日にしては成らないのです。

(これぞホンモノの「小さなアドラー」。1933年シカゴ博のお土産品)

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最後にちょっと気になったのは、アントン・メンシングのことです。
メンシングの名前は以前も登場しました。ただ、その登場の仕方があまり芳しくなかったので、科学的な身辺調査の実施状況も含めて、「小さなアドラー」の主として、いささか御本家のことが慮(おもんぱか)られました。

■業の深い話

ある望遠鏡コレクションの話2019年11月24日 07時58分56秒

ちょっと気鬱になった話。
…と言って、話の発端は別に気鬱でもなんでもありません。ごく普通の話題です。

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Edward D. Wolf 博士という、かつてコーネル大学でコンピュータ工学を教えた先生がいます(現在は名誉教授)。科学の最先端を歩んだウォルフ博士は、同時にアンティーク望遠鏡の熱心なコレクターでもあり、18~19世紀の中~小型機材を中心とする、そのすぐれたコレクションは、博士のサイトを一瞥しただけで溜息が漏れるほどです。


■Wolf Telescopes ― A Collection of Historical Telescopes

黄金を欺く、まばゆい真鍮の輝き。
この平和な砲列は、過去のスターゲイザーの優美な営みを、遺憾なく伝えてくれます。(昔も今も星をきっちり観測することは大変ですから、本当はそれほど優美な営みではなかったかもしれませんが、少なくともその姿はたいそう優美です。)

昨日小耳にはさんだ話題は、そのコレクションの全容を伝えるハードカバーの立派な本が編まれていて、今なら85ドルの特別価格で購入できるよ…という耳より情報でした。それは上記サイトのサブページに説明されており、購入ページは以下。

■Wolf Telescope Collection Book

日本までの送料が50ドルというのが一寸痛かったですが、背に腹は代えられません。さっそく一冊注文しました。あとは本の到着を待つばかり。

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…と、ここまでは良いのです。
ちょっと気鬱になったというのは、ウォルフ・コレクションが、すでにウォルフ氏の手元を離れ、昨年一括して外国のプラネタリウムに買い上げられたことを知ったからです。

購入したのは中国の北京天文館。1957年にオープンし、2004年にガラス張りのモダンな新館ができた同館のことは、以前もちらっと書きました【LINK①】【LINK②】。

(北京天文館 新館)

でも、メーリングリスト情報によれば、ウォルフ・コレクションはプラネタリウム本館ではなく、今は同館が運営する「旧・北京観象台」に、他の天文測器類と一緒にズラッと展示される予定だそうです。ウォルフ・コレクション自体は、中国天文学史とは直接関係ないわけですが、北京プラネタリウムは、天文学史の包括的なビジュアル展示を狙っているようで、そこに潤沢な予算が回っているのでした。

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「気鬱」と言ったのは、別に私がいわゆる嫌中思想から、中国に優れたコレクションが渡ったことを憤っているからでは無論ありません。

むしろこの出来事によって、日本の現状が逆照射されたからです。
位相は異なりますが、日本にも望遠鏡愛にあふれた「天体望遠鏡博物館」LINK】があり、熱心な収集・保存・展示活動が行われています。しかし、それはあくまでも民間の篤志と熱意に支えられた活動です。

あけすけに言って、中国の振る舞いには「金に飽かせて…」の色彩がなくもありません。それをケシカランと言うのは簡単ですが、我がニッポンには既にその金がないのです。そう、文化にかけるお金が―。仮にウォルフ・コレクション売却の話が、最初に日本に持ち込まれていたとしても、それに応える機関や組織は、きっとなかったでしょう。私が気鬱に思うのは、そのことです。

まあ、いつの時代にも、どこの国にも、「文化で腹がふくれるか!」と豪語する人はいるので、今の日本が特別ひどいということもないのかもしれませんが、それにしたって日本国が貧困の淵に沈みつつあり、ここに来て貧すれば鈍する現象があちこちで目に付くようになったのは、否定のしようがありません。これはいつもの「アベガー」的主張ではなくて、たぶん誰が政治のかじ取りをしても、この傾向に歯止めをかけることは難しいでしょう(だからといって、安倍氏の非行が免罪されるわけではありません)。

まあ、事がアンティーク望遠鏡だけならば、そう目くじらを立てなくても良いのですが、これが真善美に関わる学芸全般のこととなると、その影響は計り知れません。やっぱり気鬱だし、侘しいです。

星明かりの水の塔2017年07月25日 22時40分14秒

ハンブルグ・プラネタリウムのつづき。


日盛りに立つ孤愁のプラネタリウムが、夜になると何やら華やぎに満ちてきます。
夜はやっぱり夢と幻の世界だから…でしょうか。

まあ、これだけ星がまばゆければ、プラネタリウムは不要な気もしますが、生の星空の魅力と、プラネタリウムの魅力は、やっぱりちょっと違うのかもしれません。あたかも海辺のホテルにプールがあるが如し。

上の紙片は、ハンブルグ・プラネタリウムの宣伝チラシで、裏面はその案内になっています。


プラネタリウムがもたらす星の知識。小一時間で巡る星界の旅。
望遠鏡とカメラが解き明かす大宇宙の神秘。
世界に誇るツァイス社の驚異の新技術…!

そんな煽り文句に続けて、ハンブルグ・プラネタリウムには、星に捧げられた学問と信仰の歴史をめぐる、貴重な文化財が所蔵されていることを太字で特筆しています。

その文化財とは、高名な美術史家・文化史家である、アビ・ヴァールブルク(Aby Moritz Warburg、1866-1929)の収集にかかる、天文学と占星術に関する貴重書コレクションのことで、ヴァールブルクの没後、オープン間近のプラネタリウムに寄贈されたものの由。そのこと自体「へえ」と思いますが、それがナチス台頭後も散佚せず残されたことは、いっそう喜ぶべきことです。

ともあれ、ここは星の世界と人間世界の関わりについて、いろいろなことを考えさせる場所です。

入道雲と水の塔2017年07月23日 16時54分44秒

入道雲は力強いと同時に、言い知れぬ寂しさを感じさせます。
それは夏そのものの寂しさにも通じます。

夏の盛りを寂しく感じるのは、盛りの果ての終末の気配をそこに感じ、さらに自分や他者の人生をも重ねて見るからでしょう。

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入道雲の湧く夏空をバックに立つ、不思議な塔。
無人の広場にたたずむ躯体の凹凸を、くっきりとした影が強調し、明るい中にも「孤愁」という言葉が似合う光景です。

この印象的な建物は、ドイツのハンブルグ・プラネタリウム
オープンは1930年で、上の絵葉書も当時のものでしょう。

なぜこのような不思議な形のプラネタリウムが出来たかといえば、元々ここはプラネタリウムではなくて、1912~1915年にかけて建設された、ハンブルグ市の給水塔を改装して作られたからです。

(この建物の出自を示す「Wasserturm」の語。英語にすれば「Water Tower」)

とはいえ、このハンブルグ・プラネタリウム。
絵葉書を眺める私の個人的な思い入れとは別に、その後もリノベーションを繰り返し、今も大いに頑張っているようです。

ハンブルグ・プラネタリウム公式サイト(独)

(サイトのトップページには、「あなたの目標天体の座標は?」の文字が浮かび、宇宙空間を高速で飛翔する動画が流れます。)

現在の投影機は、ツァイスの最新鋭機、「Univerarium Model IX」。
ニューヨークのヘイデンや、ロサンゼルスのグリフィス、国内だと名古屋市科学館と同型機になります。

(玄関ホール天井を飾る星座のフレスコ画。独語版Wikipedia「Planetarium Hamburg」の項より。https://de.wikipedia.org/wiki/Planetarium_Hamburg

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水の惑星に立つ「水の塔」。
水気(すいき)は母なる恒星の熱によって高空へと導かれて巨大な白雲と化し、水気を慕って塔に集った人々の意識と思念は、さらに白雲をも超えて、無限遠の世界へと旅立つのです。